三十一話
階段を降りた燈霞は外の井戸に行きかけ、いや厨房のほうが近いと行き先を変えた。
歩きながら考えるのは二人の今後である。
(初めの給金をもらったらさっさと辞めよ)
ここまで働いておいて無給で去るのもいささか損をした気分だ。このあとは庁舎に支払いを求められないから手持ちはあればあるだけよい。
すでに燈霞の中で、颯天を連れて獄舎に戻る選択はなかった。選ぶは「逃亡」の一択である。
なんせ燈霞には気にかける家族もいないし官吏の地位に未練も執着も皆無だ。世話になった懍葉には申し訳なく思うので、後日手紙で詫びようと思っている。彼女も鷹揚な人物であるので苦笑しつもも受け入れてくれるだろう。
燈霞は好いた男をおめおめと死なせるつもりはなかった。
(ただ颯天が賛成するか……)
なんせ罰を受けるのは当然とばかりに戻る気しかない男だ。そこは説得してみせるつもりだが、颯天が果たして素直に受け入れてくれるかどうか。すでに罪の意識で苦しむ彼を、燈霞だってこれ以上に苦しめたいわけではない。
考える内に厨房に着いた。
「あれ? 新入りさんどうしたんだい」
顔を出した燈霞を認め、昼餉後の一休みをしていただろう料理番が立ち上がった。
「颯美――妹が熱っぽくて……水をもらってもいいですか?」
手元の手ぬぐいを見て察したらしい。頷いた料理番は併設された井戸からてきぱきと手頃な桶に水を汲んで渡してくれた。
ついでとばかりに杯にも注いでくれたのでありがたくちょうだいする。颯天も泣いて喉が渇いているだろう。
「ありがとうございます」
「はいよ。無理しないで。もし食事も辛かったら粥にしてあげるから言ってくれ」
「はい。そのときはお願いします」
礼もそこそこにさっさと辞する。少しでも早く颯天のところに戻りたかった。
「あれ……?」
目眩がして思わずたたらを踏む。手元の水を見て零さなかったことに安堵した。階段の手前だったから運が良かった。
(……さすがに人の記憶をいじるのは疲れたかな)
自覚はなかったがずいぶん無理をしたようだ。
戻ったら冷めた食事をかきこんで少し休もう。そう思い、燈霞は慎重に、けれど早足で階段を上った。
(逃げるとして、とりあえず颯天の説得は必須だとしてもあとはこれが問題だわ)
桶を抱える手元。そこにかかる術を燈霞は憎らしく見た。
術で繋がっているのは燈霞と颯天だが、かけたのは功篤である。つまり、術師である功篤には居場所が筒抜けも同然なのだ。
無理矢理壊したところで気づかれるはずだ。ならば正攻法で解法を使うか。しかし功篤の術は綺麗すぎる。無駄な綻びもないほどに完璧で崩すところがないのだ。
悔しいことに燈霞が解くとなるとどれだけ時間がかかるか分からない。
(本当に邪魔ね……)
こんなことなら術は自分でかけると言えば良かった。今さら後悔したところで遅い。
憎らしげにまじまじと見ていた燈霞はふと気づく。――気づいてしまった。
(あれ――?)
途端、どっと冷や汗が出た。駆け巡る焦燥が心臓を大きく動かしている。
ハッと震えた息が漏れ、燈霞は弾かれたように階段を駆け上った。もう水が零れようが関係ない。
嫌な予感を振り払うように駆けつけた部屋はがらんとしていて静かに燈霞を出迎えたのだ。
「颯天……?」
呼びかけたところで淋しい沈黙しか返ってこない。たいして広くない部屋を見渡しながら燈霞はよろよろと桶と杯を置いた。
襖を開けて奥の廊下や露台を見てもいない。この短い時間でどこへ行ったのだ。
いてもたってもいられず部屋を飛び出ると、危なくやって来た妓女とぶつかるところだった。
「あらあらそんなに急いでどうしたの?」
「颯天――颯美をみていませんか」
喘ぐように訊くと、燈霞のあんまりに切迫した様子に妓女は困惑気味に首を振った。
「ごめんね。颯美ちゃんは見てないわ」
「そうですか……ありがとうございました」
申し訳なさそうに妓女は頭を下げて自室へ戻っていく。そんな彼女に会釈を返しつつ燈霞は考えた。
厠にでも行ってるのならいい。だが、さっきみた光景が燈霞を安心させてくれない。
恐る恐るもう一度手元を見た。颯天と繋がる呪法はたしかにそこにある。
けれど、商人との行き先を調べたときに見えた術の痕跡が、いまはぷつりと途絶えたように消えてしまっているのだ。




