三十話
呪いというのはほとんどが個人間で起こるものであり、そこには対象者に向けた好意、嫌悪、憎しみと言った根強い感情があるものだ。無意識に発動することもあれば、当人が願うことで発動することもある。しかし、必ずしもそこには人の感情が大きな動力となるのだ。
そんな中で例外があった。
それは古くに抹消されたものであり、今では禁術とされるものだ。
呪法たちのように儀式的手順を用いて人を呪う――正しくは殺すために振り切った手段である。
そこに大きな感情は必要ない。その代替として人の血肉といった禍々しい恐ろしいものを用いるのだ。
しかも恐ろしいのはその対象を術者の思うままに出来ることだ。誰か個人、家族単位、または部族単位など代償は重くなるが不可能ではない。
遠く懍葉から簡単に聞かされただけのその話を、燈霞はふと思い出していた。
「本当に呪いで全員死んだの……?」
「そうじゃなければ同じ日に、示し合わせたように全員が死ぬもんか! あんなことただの人間には出来ないだろ!」
ああそうだ。そんなことは法術でもないと……いや、呪いでもない限りあり得ない。
「突然だった。さっきまで目の前で笑っていたアロンたちが急に血を吐いたんだ。そのままのたうち回ってみんな苦しんで死んだ!」
押し込めていた怒りがふつふつと蘇るように、颯天の言葉はどんどん熱を持ち、憎しみが混じっていく。
「なにも出来ずに目の前でみんなが死んで……わけも分からないまま墓を作って埋めて……それで気づいたときには白木が全て刈り尽くされた」
許せなかった――怨嗟の声が呟く。
「絶対に、絶対にこんなことをしたやつを殺してやると決めたんだ」
呪詛のような言葉は、激しく燈霞の胸を打った。恐れ慄いたわけではない。――むしろ嬉しかった。その激しい感情は燈霞の胸にも宿るものだからだ。
遠く離れた異国で同郷のものと再会を果たしたような感動さえ覚えた。
同時に目の前の男がそんな壮絶な目にあっていたことが自分のことのように悲しく、怒りが湧き上がった。
苦しそうに吐露する颯天の顔を見るだけで、燈霞の胸が締めつけられる。
気づくと彼の手をとっていた。
ハッと我に返った颯天が、今度は泣きそうな顔で燈霞を見た。
「だから……だから、殺したんだ。あいつら全員、俺が、この手で」
逃げる手を、燈霞は握りしめて留めた。なぜ、汚いものに触れさせたような顔で逃げるのか。分からない。
復讐のために殺したというのなら、なぜ颯天は今も苦しんでいるのだろう。単純に罪の意識か? それだけでは気がした。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
ふと思い返される、魘される声。
「颯天。……あなた誰に謝りたいの?」
母が子を諭すような、柔らかく全てを受け止めるような声が響く。ハッと胸を掴まれたような顔で、颯天は言葉の出ない唇を震わせた。
辛うじて「なんで」と喘ぎが返ってきた。
「あなた気づいてないのかもしれないけど、毎晩魘されてるの。ごめんなさいってずっと……ずーっと誰かに謝ってる」
誰に謝りたいの?
言葉で促すように優しく背中を押すと、颯天は考えるように口を引き結んだ。
「……あの日、たしかに俺は復讐のためにあいつらの家に行った。でも、全員殺す気なんてなかった。関係ない使用人だっていた。分かってたのに、酒を飲みながらアロンたちを殺したことを誇らしげに話すあいつらの声を聞いているうちに目の前が真っ赤になって……気づいたら俺以外みんな死んでた。あそこには、まだ小さい子どもだっていたのに。一人残らず俺が殺した……!」
「……その子に謝りたいの?」
背中を撫でて宥める。颯天はこくりと力なく頷いた。
「それに――」
「それに?」
「俺だけ……俺だけ生き残っちゃったから」
血を吐くようだった憎悪から一転、子どもみたいに頼りない慟哭が颯天の喉をすり切らせた。
「家族だって言ってくれたのに、結局俺だけよそ者だから生き残った。みんなあんなに苦しんでたのに俺は名前を呼んで手を握るしか出来なくて、置いていかないでって、自分のことばっかり考えてた」
肩を落とした颯天は懺悔のごとく項垂れて言葉を紡いでいく。
燈霞は身を乗り出すようにして彼の手を握りながら耳を傾ける。
「あいつらを殺したのだって憎くて殺したのか本当は分かんないんだ。みんなの復讐をすれば家族だって認めてもらえるかもって、そんなふうに思ったこともあって……それじゃあ俺は自分が認めてもらうために全員殺したのかって思うと、なんかすごく申し訳なくなる」
――あの日からずっと頭がごちゃごちゃなんだ。自分でももう分からない。
ぽつりと雨音みたいな呟きが落ちた。
涙は出ていないのに、その声は泣いているようだった。悲しいとか苦しいとかではなく、彼自身のどうして泣いてるのか分からないような、いっぱいいっぱいになってしまっているのがよく分かる。
可哀想だな、と燈霞は思った。
颯天は優しすぎるのだ。だからほんの少しのことでも彼の柔らかな心に刺さってしまうのだろう。
燈霞からすればその商人たちは自業自得。因果応報だ。それで関係のない使用人が少しばかり死んだところできっと燈霞は手を合わせるぐらいで気にもとめないだろう。そもそも商人たちが原因を作ったのだと開き直りさえしてみせるかもしれない。
だから、颯天の事情を聞いたって復讐が果たせて良かったと思いこそすれ、殺された者への憐れみなんて微塵もない。
むしろ彼の家族を殺し、そうして復讐を果たしてなおもこうして苦しめるそいつらが憎いとも思う。
同時に、こうして思い悩んで嘆く颯天に憐憫を抱いた。
締めつけられるような切ない温もりが胸を占める。考えるまでもなく「愛しい」という言葉が浮かび、そうやって自分の身に起こる甘い苦しみの名を知ったのだ。
うすうす分かっていたことだった。目を逸らして、自分はまだ線を越えてはいないと勝手に思い込んでいた。だが、本当はとっくに彼のことを自分のやわい部分にはめ込んでいたのだと燈霞はようやく諦めがついた。
片手は握ったまま、もう一方を小柄な少女の身体に回してそっと抱き寄せた。
「……はっきり言うと、私はあなたの気持ちが十分に理解出来ない。そいつらは自業自得だし、復讐を果たしたあなたは胸を張って家族の冥福を祈れば良いと思ってる。どうしてそんなに思い詰めることがあるのよって」
なんせ燈霞自身はその復讐に失敗した側だ。傷一つつけられずに一方的にボロボロにされ、けれど情けをかけられてこうして生きている。自身への怒りと虚しさで気が変になりそうだったこともある。そんな燈霞からすれば、颯天の完遂はめでたく、羨ましいことなのだが――。
「でもね、そんな杏颯天が好きよ」
「へ――」
彼が思い悩むような男であったからこそ、今まで燈霞に向けてくれた言葉があるのだ。
燈霞は今まで見せたことがない晴れやかな笑みだった。温もり溢れた笑い顔は、深紅の瞳がきらきらと宝石のごとく輝いている。
少女然とした憧憬やときめきを見せる瞳はその言葉が嘘ではないと雄弁に語っていた。
颯天の頬にぽっと熱が灯る。しかし、その胸中は全く追いつけていなかった。
「な、なんで?」
「なんで? 言ったでしょ、そういうあなたが好きなんだって」
「だって俺人殺しで、親からも捨てられたようなやつで、それで死刑囚なのに――」
「そんなことは一つも関係ない。私は自分の目で見たあなたの有り様が好きだと思ったの」
燈霞の母を、幸せ者だと言ってくれた。世間に蔓延るドムとサブのあり方に孤独を感じていた燈霞に、新たな世界を垣間見せてくれた。
こちらの事情なんて知らないはずなのに、今まで生きてきた彼の人生から紡がれた言葉が、燈霞の心に入り込んでいた小さな棘たちをゆるゆると抜き取ってくれたのだ。
熱く語る燈霞に触発されたのか颯天は真っ赤になっていた。杏颯天にとって、初めて向けられる愛の言葉は刺激が強かった。
湯気でも出そうなほど赤い。のぼせたように潤む金の瞳がおずおずと燈霞を見た。
「もしかして俺が可愛い女の子だから……?」
スンと燈霞が真顔になった。
てっきり露悪的態度や人を食ったような態度はその内側の弱く柔らかい人物像を隠すためのものだと思ったが、全てが全てそうというわけでもないようだ。とりあえず外見に関しての憎まれ口が口先だけでなく本心であったことが分かった。
少し前なら額を小突くところだが、気持ちを自覚した今となってはそんな自信家なところも可愛らしく見えてきて困った。
「……男のあなたを知らないからなんとも言えないけど、男でも女でもあなたがあなたである限り変わらない」
「……ほんとに俺のこと好きとか、本気で言ってんの?」
恐る恐る訊ねられた。頷くと、またじんわり頬が赤みを増す。
小さくなった瞳孔が小刻みに揺れていて、不意に瞬きと一緒に涙が落ちた。
「俺が、サブだからじゃなくて……?」
「あなたがサブでもドムでもそうじゃなくてもべつに気にしないけど……まあ今の状態のほうがいいかもね。あなたが困ってたら助けられるし」
聞かれたことに淡々と答えていくと、不意に質問攻めが止んだ。
大きな丸い瞳がゆっくりゆっくり燈霞の言葉立ちを咀嚼していくのが分かる。
颯天の口許がふと嬉しそうに持ち上がって、けれどすぐにひくりと痙攣した。
「はは……死刑囚のことが好きなんて、物好きすぎるだろ」
堰を切ったように泣き出した。馬鹿だ馬鹿だと同じ言葉が続いて、さすがにムッとしたがそれが悪い意味じゃないのだとさすがの燈霞にも理解出来た。
むしろそこまで喜んで泣いているのだと思うと気分が良い。
「う~……なんでそんなに趣味が悪いんだよ」
唸るような泣き声に、燈霞はおかしくなって笑って抱きしめた。
しばらくして泣き止んだ颯天がゆっくり起き上がる。燈霞の肩口は涙でぐっしょり濡れていたが、彼の顔のほうがもっとひどいありさまだった。
顔中涙でびしょ濡れだし、目の周りは熱を持ったように赤くなってぽってりしていた。鼻だって垂れている。
子どものように臆面もなく泣き続けた姿は、自分に気を許しているようでつい燈霞は笑ってしまった。
泣いていた眼がきっとつり上がる。
「ひでえ。そんなに笑うか?」
好きだって言ったくせに、と悪態つく。
馬鹿だなあと燈霞は思った。好きだからそんな姿を見て笑っているのに、と。
これが好きでもない男なら、辛うじてある良心で手ぬぐいを渡して終わりだ。さっさと距離を取るし、いっそ早く拭けと言い残すだけということもある。
ひとまず手元にあった手ぬぐいで濡れた顔や垂れた鼻水を拭いてやる。それでも赤くなった目許はどうにもならないから一度水で冷やすことにした。
「厨房で水をもらってくる。夜の仕事まで冷やしておいたほうがいいわ」
ここで待ってて、と新しい手ぬぐいを用意しながら言うと、颯天は素直に頷いた。
すぐ戻ると言い置いて部屋を出た。
この時の燈霞はらしくなく有頂天になっていた。だから見逃してしまったのだ。
一人部屋に残った颯天はじんわり腫れた目元を押さえながら自然とにやけるのを止められなかった。
「……あいつ本当に俺なんかのこと好きなんだ」
気づいたときには一人で生きたし、拾われた白神族の村でもやっぱり疎外感は拭えなかった。
みんな優しかった。一人生きる捨て子に、食事を与え温かい寝床と居場所をくれた。それでもどこか輪に入りきれない思いがあったのは確かだ。
そうして死刑を宣告されて、愛や恋とは無縁なまま人生を閉じるとそう信じて疑わなかったのだが……。
「はは。俺のこと好きなんて言う人間がいるとは思わなかった」
嬉しかった。今までの自分の全てが報われたような気分だ。だが、同時になぜ今なのかと虚しくもなった。
もう少し早く。それこそ誰かを殺す前に出会えていたなら、そうしたら一般的な幸せを手にできただろうか。
今の颯天には時間がない。償いのための死が待っている。
それを回避しようとは思わなかった。人を殺したのだ。罪を犯したのなら、当然罰を受けねばならない。
「最期に出会えただけでも幸せか」
燈霞――と、恋しむように呼ぶ。吐露する間ずっと握られていた手元に、そっと自分の唇を寄せた。
感傷に浸る颯天の背後――鏡台の鏡がふと揺れた。
「颯天」
「は――?」
誰もいない部屋からの呼び声。驚いた颯天が振り返った次の瞬間には、すでに彼の姿は部屋から消えていた。




