二十五話
宴会場に酒を運んでいた燈霞は急に悪寒がして立ち止まった。
(……なに? 急に寒気が)
振り返ってみても誰もいない。首を捻りながらも燈霞は注文があった部屋へと急いだ。
途中、ほかの見習いと一緒にいた颯天とすれ違ったが、あからさまにぎくしゃくした動きで目を逸らしていくのだ。
(よっぽど恥ずかしいみたいね)
颯天はよほど燈霞とのプレイが気に入ったのか、それとも本能が求めているのか。
初めてコマンドを使ったあの日からほぼ毎晩のようにプレイするのが日課になっていた。
しかし、そのプレイのせいで満足に燈霞の顔も見られないらしい。それなのに部屋に戻るとしおらしい様子で燈霞の名前を呼ぶのだから困ったものだ。
(あれがわざとだったら突き放して怒ってやるのに)
それなのに心底困ったとばかりに呼ばれてしまえば、どうしてか心臓のあたりがむず痒くて結局期待に応えてしまうのだ。そうやって何個かコマンドをこなして褒めて寝かしつけるのが習慣になりつつある。
駆け足で通りすぎていった彼を思い出す。そんなに顔が見たくないのかと、苛立ちがむくむくと湧き上がって来た。
今日こそは知らぬ振りして寝てやろう。
そう決意を固めた燈霞は騒がしい宴会場の扉を音もなく開けて入室した。
厨房でほかの見習いから聞いた話だが、なんでもある貴族の近親者の集まりだという。たしかに若い男から中年まで世代に幅があるし、どこか血筋を感じる顔立ちだ。酒癖が悪いの血筋なのか、みんな顔を真っ赤に染め上げて高らかに声を上げて騒ぎ立てていた。
部屋は奥行きも高さもある広々したもので、男二十人ほどで貸し切るには贅沢に思えるほどの広さだ。そうでなければ入った瞬間に燈霞は客たちの低く馬鹿でかい笑い声や、妓女へ向けた鼻の下伸びまくった気色悪い声にすかさず退出していただろう。
卓は部屋の形に沿うように細長く伸びていた。
燈霞は出入り口に近い下座の隅に近づいた。気づいた手前の妓女が目配せで置いていくように言うので、ありがたく会釈だけしてあとは妓女に任せることにした。
そのまましずしずと退室しかけたところで問題が起きた。
ちょうど部屋を出ようというとき、手洗い場にでも言ってたのか外に出ていた客の一人と鉢合わせしてしまったのだ。
ぺこりと頭を下げて道を譲る。普通それで燈霞には見向きもせずに卓に戻るだろうに、どうしてか男はいっこうに立ち止まったままだった。
頭を下げたまま内心で訝しむ。下座の妓女も気づいたようで、こちらへ向かおうとするのが目の端に映った。
ほっとしたのも束の間だ。いやむしろそこで油断していたからいけなかった。
ぬっと現れた男の手が、あろうことか無遠慮に燈霞の顎先を掴んで持ち上げて見せたのだ。
頬に指が食い込むほど強く乱暴な手つき。相手はもちろん鉢合わせた男で、その据わった目を見るに正気じゃない。よくここまで出来上がることが出来るものだ。
急に力一杯引っ張られたせいで首が痛い。ぐっと掴まれた顎も頬も痛むがここで思いっきり張り倒すわけにもいかない。
品のない下級貴族であろうと貴族である。しかも燈霞はここでは見習いでしかない。
さすがに客の男に手を上げるのはまずいだろう。
慌ててこちらに向かってくる妓女が取りなしてくれるだろうと燈霞は致し方なく抵抗しなかった。
それにしてはずいぶんと冷めた眼で男を見上げていたが、酔いが回る男にはそんなもの見えていないらしい。
じろじろと近距離で燈霞の顔を見ていたと思えば、にたりと気味悪く笑って言ってのけたのだ。
「今晩はこの娘にしよう」
お前、名は?
訊かれた燈霞は目を見張った。この男、今なんて言った?
「申し訳ございません、この子はまだ店に入ったばかりでして……お客様の床のお相手など到底できたものではありませんから」
やや強引に妓女の一人が二人の間に割り込んだ。自然と男の手は離れたが、じんじんした痛みが残ってさりげなく燈霞を庇って後ろに下がらせてくれたが、男はむしろ嬉しそうに口の端をつり上げたのだ。
「へえ。と言うことは俺が初めての客というわけか」
「旦那さん。私らじゃ不満なんですか? 若い子に目を移りしたら悲しいですよ」
滑らかな指先が男の肩を撫でた。こうも美しい女にしな垂れかかられたら誰だってイチコロだろうに、この酔った男はなにを気に入ったのか燈霞がよいらしい。
「どうせこの年じゃそう経たないうちに客を取るんだろう? だったら今俺が買ったっていいだろう。で、いくらだ? 今日は気分がいいからな。そっちのいう金額に上乗せしてやろう」
(まさか目の前で自分の値段交渉をされるとは……)
不愉快極まりないが我慢である。しかしこのまま買われるのもまずい。誰が任務の一環で男に抱かれたいものか。
平然としつつも燈霞は内心で焦りまくっていた。
遊女だってそう意固地に拒むことは出来ない。一番は楼主を呼んできて断わってもらうことだが、男の言うことも一理あって十九の……言ってしまえば店で特別若いわけでもない燈霞だ。見習い期間が短いことが想像出来るし、もしかしたら金払いの良いこの男に売られるかもしれない。
絶対に絶対に嫌だ。
しかし暴力沙汰は出来ない。
(いや……最悪寝所に行ってから術で眠らせて適当に過ごせばいいんじゃない?)
と、閃いた。
妓女もさすがに楼主を呼びに行くようで愛想笑いでお待ちくださいと言い置いて部屋を出ようとした。男はすでに買った気にでもなっているのか上機嫌に燈霞の肩を抱き寄せる。
「お前も俺に買われるなんて運がいいな。俺はずいぶんと優しいぞ? ん? そう怖がらずとも良い思いをさせてやるからなあ」
ニタニタした笑みが鼻につく。
(ああ……楼主が断わってくれますように!)
寝かせてしまえばいいが、こんな男と例え短い時間であっても個室で二人きりになるのなんて嫌すぎる。
げんなりしていた燈霞だが、ふと開けっぱなしになっていた襖の向こう――給仕の手伝いで通りかかった颯天と目が合った。
肩に腕を回された燈霞に金の双眸がみるみる見開かれた。かと思えば、颯天は手に持っていた酒瓶を振り落として割ったのだ。
思いのほか響いた音に宴会上のみならず廊下を行き交っていたほかの従業員の目も集まった。
「きゃー! おねえちゃんごめんなさい!! 足に怪我が!!」
挙げ句、颯天はずいぶんまあ大きい悲鳴とともに燈霞の足元に滑り込んできた。
「え、ちょ、ちょっと?」
「すぐに手当てしないと跡が残っちゃうよお!!」
手早く颯天は懐から出した手ぬぐいを燈霞のまっさらな足に押し当てた。
そして誰もが呆気にとられている内にそばにいた見習いに掃除をお願いという名目で押しつけ、燈霞を抱え上げて「大変大変!」と泣きながら部屋を飛び出したのだ。
もちろん男は引き留めようとしたが、燈霞を抱えた颯天がこれみよがしに男の足を思いっきり踏んづけたせいで痛みに悶えてそれどころではなかった。
途中、ちょうどよく楼主と妓女に会ったのだが、颯天は立ち止まりもせずに
「おねえちゃんが割れた酒瓶で怪我をしちゃったんですう! すぐ手当てしてきますね!」
と有無を言わさず立ち去った。
あまりの勢いに楼主は半ば唖然としながら「颯美ちゃんずいぶん力持ちだね」なんてことしか言えなかった。




