二十四話
「いやあああ――っ!」
夜の闇で満たされた妓楼の一室に、女――風嵐の悲鳴が響いた。
座り込んでいた彼女は重心をなくしたようにぐらりぐらりと揺れ、最後は板の間に顔がつくほどに身体を折りたたむ。
両手は顔を覆い隠していた。
その隙間から零れ落ちたのは血だ。ぽたぽたと板の間で弾かれた鮮血の跡が、風嵐にその痛みを余計強烈に刻みつけた。
「いたい! いたい! 顔……私の顔がっ!」
風嵐の対面の壁には子どもがすっぽりおさまるほどの楕円型の鏡が立てかけられていた。しかしその鏡の上部一カ所には強い衝撃を受けたように穴が空いており、そこから全体にかけて大きくヒビが入っていた。
直視することを恐れるように――けれど確認せずにはいられないとばかりに風嵐は恐る恐る顔をあげた。
目線の部分はひび割れつつも姿の確認ぐらいはできた。
幽鬼のように浮き上がる女の顔には額にぱっくりと開いた切創があった。そこから流れ出た血が風嵐の整った鼻筋を伝って顎先から落ちていった。
綺麗に裂けた傷は、風嵐に痛みよりも恐怖をもたらした。
「ぁっ――――!」
今度は声にならない悲鳴が部屋をつんざく。
「いや。いやよ……だめ。顔はだめなの」
身体の傷はいくらでも我慢できる。だが、顔が傷ついて変わってしまえば彼は私だと分かってくれないんじゃないか。それが風嵐には一番恐ろしかった。自分の美点はこの顔しかないのだと、風嵐は真実そう信じているのだ。
なのにそれを失ったら……颯天は風嵐とともにいることを拒絶するのではないか。
――違うよ。あんたはきっと――
優しい彼の声が、耳に奥に思い返された。あんなふうに優しく言葉をかけてくれた颯天にさえ見放されたら……そうしたら自分はどうしたらいいのだろう。
(せっかくここまで頑張ってきたのに……)
「風嵐さん!? いったい何事で!?」
妓楼中に響いただろう悲鳴ですかさず用心棒の男たちが駆けつけ、非常時だからと伺いも立てずに部屋の戸を盛大に開け放った。
突然差し込んだ明かりは御簾越しとはいえ風嵐の目を眩ませるには十分だ。
一方、男たちは部屋に蔓延る不穏な空気に我知らず恐怖を抱いて後じさった。御簾越しだからこそ、全容がつかめずに恐れが先にきた。
なにより鼻先を掠める血のにおいだ。少し傷を負ったぐらいではこうはならない。
そのことを十分に知っていた用心棒たちは、自分たちの役割を思い出す。
なんせここで雇われているのは妓女や楼主の身の安全を守るためだ。なのに、その中でも価値あるとされる高位妓女の風嵐の部屋に侵入者が現れる……ましてや妓女に怪我なんてさせてしまった日にはどうなるか。
クビで済めばまだいいほうだ。
理由のない恐怖など抑え込むしかない。一人が御簾の向こうを確認しようとそろそろと部屋に入った。
「ふ、風嵐さん……いったいなにが――ひいっ!」
そろりと御簾を手で避けて中を確認した。そこには暗闇の中で割れた屈みに囲まれて蹲る風嵐の姿が。
なにがあったのかと確認せねばならない。しかし男には出来なかった。むしろ驚き戦慄くように後ろに飛び退いて顔を真っ青にしたのだ。
垂れた黒髪の隙間から見えたのは人とは思えぬ白い肌と、そこを伝う鮮血だ。なにより、その鮮血よりも赤く昏い瞳が、瞬き一つもせずにまるで仇でも見るような凄みを持って男を見ていたのだ。
寝衣のような薄い衣を纏っていたが、腕や足など至る所に包帯が巻かれていた。そこにはじんわりと赤いものが滲んでいて、むせるような血のにおいはあれのせいだと察する。
「おいおいどうしたんだよ」
逃げ帰ってきた男に、ほかの者も困惑を現す。しかしその額には冷や汗が浮かび、みな本能で理解していたのだ。この部屋は危険なのだと。
「ろ、楼主様を呼んでこよう」
自分たちではどうにもできない。一人の提案にみなが頷いたところ。
――忘れなさい。
「え……いま、声が」
――今見たことは忘れなさい。
直接頭に響く声に、男たちの目が自然と御簾の向こうにいる風嵐に向かった。数多の双眸にはもう困惑も恐怖ものってはいない。ただガラス玉のように、そこに彼らの感情や意志はなかった。
「ここではなにもなかった。あなたたちは今日ここには来なかったし、なにも見ていない」
風嵐の声に続き、男たちは「はい」と虚ろに返してゆっくりと部屋の前から散っていった。
再び暗闇に閉ざされた部屋の中、風嵐は男たちの視線によって張り詰めていた緊張を解いた。
そうしてズキズキと痛む額を余所に、今度は包帯越しに急に血がにじみ出した腕を押さえる。傷が開いたのだ。いや、すでにあったものをより深く抉られたように奥まで痛い。
しかし、そのおかげでああも簡単に男たちを意のままに出来たのだから気分が良かった。
今の風嵐には他人だって意のままだ。鼻高々な気分だったが、すぐに現状を思い出して鼻白む。
「それなのになんで……! なんでこうも拒まれるのよっ!」
差し向けた六郎も武官たちもダメだった。だからこそ風嵐は役立たずな男たちは捨て置いて自分の手で颯天を迎えに行こうとしたのだ。
妓女は楼主の許可なく外に出ることは出来ない。だからこそ鏡で道を作って彼を招き入れようとしたのに、誰かが毎回道が出来上がる前に壊してしまう。
代償だってちゃんと差しだしている。なのに、上手く行かないのだ。
あげく無理矢理道を閉ざされた反発で自分の怪我がひどくなる始末だ。
「……赤い髪の女」
颯天と一緒にいるという官吏と思しき監視役。その女のせいだと、半ば確信があった。
こうしているうちにもその女は颯天のそばにいるのだと思うと、風嵐の腸は煮えくり返りそうだ。
見知らぬ女へと向けられた憎悪と怒りの目が、鏡の中でぐつぐつと煮立つように赤く光っていた。
その風嵐の足元――座り込む床には焼け焦げたような黒い跡で奇妙な文様が描いている。その文様は滴り落ちた彼女の血を吸い上げ、赤黒く鈍く輝いていた。




