二十三話
燈霞はその場から動かずに法術で部屋の隅にあった蝋燭を消した。
瞬く間に部屋の中は暗闇に包まれる。襖から差す遠い月明かりだけがぼんやりと二人の輪郭を照らし出していた。
燈霞はしばらくの間、颯天のことを抱きしめたままでいた。
完全に寝入るまでは……なんて思っていたが、それが取り繕った建前であることを燈霞は心の奥底では分かっていた。
そうこうしているうちに店じまいの時間が来たのか同じ階に人の気配が増え始めた。
床の仕事に出ている者以外は戻ってきているはずだ。
愚痴めいた声や悪態つく声、かと思えば明日は休日なのだと喜ぶ妓女もいた。
それらの声を聞きながら、燈霞はひっそりと息を潜めていた。誰にも気づかれないように。腕の中の彼の眠りが妨げられないように。この時間が終わってしまわないようにと。
腕の中の温もりに意識を揺蕩わせているうちに、仕事終わりの妓女たちはさっさと寝てしまったらしく、また静寂が訪れる。そうなってようやく燈霞は重い腰を上げて颯天を慎重に布団に横にした。
恐る恐る顔を覗き込む。ぐっすりした寝顔があった。一安心して顔を上げたところで、不意に部屋にある鏡台から不思議な気配を感じた。
暗闇の中で目を凝らしてみる。・すると、鏡がまるで水面のように揺らいだ。
(また?)
娃昌に来てから何度か感じた術の気配だ。相手は大体想像がついていた。
いい加減応えてやるべきかと思いかけ、しかしここで応えては颯天を起こしてしまうと思い直す。
そうこうしているうちに鏡面の揺らぎが大きくなっていき、鏡の奥が不透明に濁った。このままじゃ無理矢理つなげられてしまう。
気が咎めはしたが、この部屋で応える気はなかったので燈霞は手のひらを向け、軽く気を流して揺らぎを強制的に止めて見せた。
今は硬質さを取り戻し、薄暗い室内を映し出している。
ガタリと抵抗するように一度だけ鏡が大きく揺れたがそれだけだった。
もっと反発があるかと思っていた。
ほっとした燈霞はもう一度颯天を見た。サブ性が満たされて心地よくなっているからか魘される様子もない。
すやすやと眠る顔は、どうにも幼くいとけなさが見えた。
(そういえば、年はいくつなのかしら)
年はおろか、彼に関して燈霞が知ることはどれだけあるだろうか。とことん颯天のことを知らないのだと痛感する。
それが、淋しく思えてしまった。
考え込むように難しい顔で黙り込む。
(……諦めて受け入れようかしら)
深く息をついて顔を上げた燈霞の眼差しは、なにか道しるべを見つけたように真っ直ぐなものだ。
襖を開けて廊下に出る。露台の大きな窓硝子から差す月光がずいぶん眩しく思えた。
そろりと覗いてみるとほかの妓楼も店じまいらしく、妓楼通りのあの煌々とした輝きはなく、道ばたに酔い潰れた男がちらほら見えるだけで人の気配もない。
梧澄で見た夜の海を前にしたような暗闇と静寂だった。
しげしげと観察していた燈霞はすぐに興味をなくして窓辺から離れた。
部屋には戻らず、閉じた襖を背に廊下に座り込む。
不意に対面の窓のほうへ向けて手を伸ばした。
と、手のひらから水が溢れるようにとぷりとなにかが湧き出てぐるりと球状になった。
月光のように淡く白い球体はパッと弾け、そこには同じように発光した白い蝶が二匹現れたのだ。
一匹は露台の中を飛び回り、もう一匹は窓硝子をすり抜けて姿を消した。
残った一匹を燈霞は見るともなしに見つめていた。規則性もなく気ままに飛び回っていた蝶は、ふと振り返るように燈霞を見て一直線に向かってきた。
――繋がったようだ。
止まり木代わりとして用意していた指のひとつに蝶がとまる。きらきらと光った鱗粉が燈霞に手に付着して、けれどそう経たずに消えてしまった。
当たり前だ。この蝶たちはあくまで術で作り出されたものであって実態はないのだから。
一応、と自分の周囲に防音を施す。それを見計らったように相手が言った。
『あら。仙法は疲れるから使いたくないって言ってなかった?』
からかうように聞こえた声は蝶から届けられたものだ。まるで直接頭の中に響くように遠く離れた梧澄にいる懍葉の声が聞こえてくる。
「ご無沙汰してます。懍葉さん」
『久しぶりね。本当はもう少し頻繁に報告が欲しいところだけれど……むしろこうして一度でも報告を上げてくれたことを褒めるべきかしら?』
「報告を一度も上げなかったのはすみませんでした。でも、今回の任務は私の好きにしていいって言ってたじゃないですか」
それより訊きたいことがあるんです。
言うと、
『せめて現在地ぐらいは教えて欲しいわね』
苦笑しがちに懍葉が言った。
「今は娃昌にいます。颯天がそこに滞在していたことがあるらしく……そこで事情を知ってるとみられる男たちに襲われたので、探るためにしばらくいるつもりです」
『……』
「懍葉さん?」
言葉に詰まるなんて珍しい。考え事かとも思ったが、どちらかというと驚いて言葉をなくしているように思えた。
「……大丈夫ですか?」
『ええ。ごめんなさいね。娃昌は花街で有名でしょう? まさか女の子二人でそんなところに行ってるとは思わなくてね』
「はあ……って、そういえば颯天が女になってるってどうして教えてくれなかったんですか!?」
『あら。性別なんて重要? 逆ならまだしも同性だったいうならいいじゃない』
「情報共有の大事さを言ってるんです」
上にだって怯まずなんでも申してくれる懍葉は部下からすれば頼りになるが、たまにこうして茶目っ気が出るところが困る。
「……颯天がサブだってことは知ってたんですか?」
『……』
また沈黙。言い訳を考えてる、なんて訳ではないだろう。
法術のことはもちろん、この第二性について基礎的なことしか知らなかった燈霞に学びを与えたのが懍葉だ。
彼女は第二性が切っても離せるものでなく、どれだけ自分たちに影響を与え、かつ上手く付き合っていくべきだと言うことを懇々と繰り返した。
(そんな懍葉さんが面白半分で黙ってたとは思わないけど)
だが、いきなり言い渡された急務に、砂漠越えなど……少しばかり意趣返ししてやりたいと思って当然だろう。
しかし、どうやら想像よりも効き過ぎたらしく、沈黙がずいぶんと重たく燈霞の胸を刺す。
『信じてもらえるか分からないけれど、彼の第二性に関して私は知らなかったわ』
「信じますよ」
むしろこっちが謝りたい気分だ。
そんな燈霞に驚いたのは懍葉である。蝶を通した向こう――梧澄の執務室で彼女はきょとりとしばたたいた。
てっきりとんでもない恨み言を言われるものと思ったのだ。
なんせ第二性は燈霞にとって胸に残る重い楔である。
それなのに今の燈霞はどうだろう。声音から恨み辛みは感じられない。いやにあっさりしたものだ。
『杏颯天とはうまくやっているようね』
「上手く……かは分かりませんが。まあ、それなりにやっていけてますよ」
『そう』
懍葉の深い安堵に、燈霞は気恥ずかしさを覚えた。
子どもの頃から知られているからか、彼女の前ではどうにもなんでも見透かされてるようで据わりが悪い。
ごほん、と咳払いで本題へ戻す。
「杏颯天について、教えてください」
『具体的になにを知りたいのかしら。人となりなら、共に過ごしている燈霞ちゃんのほうが詳しいと思うわよ』
「彼がなにをしたのか……杏颯天の詳しい罪状について教えて欲しいんです」
『私も、報告書であがっていること意外は知らないわよ?』
「それでもいいんです。客観的な事実だけを、教えてください」
あとは本人に訊く。とは、さすがに口に出さなかった。
『杏颯天が捕まったのはおよそ一年前のことよ。彼は当時十六歳だった』
ということは今は十七か。燈霞より二つも下だ。
「捕まったときの詳しい事情は」
『ある商人の邸でのことよ。周囲の住人から警備隊に通報があり、駆けつけた武官たちによって取り押さえられた。といっても、彼は一切の抵抗はしなかったそうだけれど』
「なぜその商人の家に……しかも通報って」
『――尋常ではない悲鳴と叫び声が聞こえてる』
それが血相変えて警備隊に駆け込んだ近隣住民の言葉だと言う。
燈霞のこめかみを冷たい汗が伝っていった。
「その、商人たちは……」
渇いた喉でどうにか絞り出す。応えなんてほとんど分かりきっていた。しかし、それを拒否するように頭が重たくなって耳鳴りが聞こえる。
そんな燈霞を知ってか知らずか。懍葉はあくまで無感情な声で淡々と告げた。
『そこに住んでいた商人一家と使用人一同。居合わせたとみられる商人組合員や同業者たち……合わせて三十人近くの死亡が確認されたわ』
キンと高らかな耳鳴りが一瞬突き刺さり、そのあとは恐ろしいほどの静寂が燈霞に訪れた。
警備隊の公式調書でありながら具体的な人数が不明なのは、遺体が見れたものではなかったということだ。人数確認が出来ないほど、彼らは原型を留めず死んでいたのだという。
「それをすべて颯天がやったっていうんですか?」
『彼自身が、それを認めたのよ』
燈霞は暗い穴に突き落とされたような心地になった。
人殺しだと、覚悟をしていたつもりだった。それなのにどうだ。思っていたよりもずっとずっと残酷なものが、燈霞を待ち構えていた。
会話を終えた途端、蝶は弾けるように光の粒子となった。
光が夜の空気に溶け込むのを見届けた燈霞は音を立てずに部屋へと戻る。
自分の布団に入り、横になる直前でふと颯天を見た。
魘されることもなく、健やかに寝息を立てる姿があった。
三十人近い人間の殺害という非道。人の形を保てなかったほどの残虐さ。
そんなもの欠片も感じられない、幼い少女の寝顔だ。
今すぐ叩き起こして詰問したい。なぜ殺したのか。そこまでしなくてはならなかったのか。
それは決して彼の非道さを責めるためではない。
むしろ燈霞が颯天の正当性を信じているがゆえだ。
(人を殺せば罰を受けるのが当然だって、あなた言ったわよね)
そんな彼が理由もなくそんなことをするとは思えない。
――こんな俺のことだって愛してくれる人がどこかに……
なんの感情もなく人を殺せる人間は、あんなことを思ったりはしない。
思い出されるのは死にかけた中で見た男の冷たい眼差し。人を見るとは思えない温度のない瞳で母の骸を、死にかけている娘を見た、父であった男の瞳。
本当に非情な人間というのは、ああいう目をしているものだ。
明日も仕事だからと布団に入ったが、なかなか眠りはやってこない。
(鏡の件もあるし……はあ。考えなきゃいけないことばっかり)
てっきり痺れを切らした懍葉が接触を試みていると思っていた鏡を通した法術。あれは彼女ではなかったというのだ。
――今回の件はあなたに全て一任してるの。私から報告を求めるようなことはないわ。
なにかあったときに連絡できないと困るから街を移動したら教えろとは言われたが、懍葉は干渉する気はないという話だ。
ならば、一体だれだというのか。
考えなきゃいけないことが増えたなあと悩ましく思っているうちに燈霞も気づけば眠っていた。




