二十二話
温まった身体で二人は部屋に戻った。
まだ店のほうは騒がしく、ほかの人はみんな仕事中なので居住棟は静かなものだ。
手っ取り早く法術で髪を乾かす。宿暮らし中は風呂は一人ずつ済ませていたが、髪を乾かすのは燈霞がやってあげていた。
案の定目を向けると、期待したように颯天が見てきていた。颯天もそれなりの長さを誇るので、乾かすのは億劫なのだろう。
「ほら、背中向けて」
何気ない言葉に、颯天が頷いた。だが、「うん」と嬉しそうに声が弾んだのは本人の想定外だったらしい。背中を向けた彼は両手で口を押さえて固まっていた。どうやらずいぶんと重症らしい。絡まりのない黒髪に触れて燈霞は術をかける。
瞬く間に乾いた髪を、仕上げとばかりに手櫛で整えてやりながら燈霞はふと提案してみた。
「ねえ、もう一回プレイしてみる?」
言っておきながらも燈霞の指先は冷えていて、緊張しているのが分かった。
はあ!? と颯天は勢いよく振り向いた。
「な、なんで?」
「初めてのプレイだったからこそ余計にサブ性が刺激されてるのかと思って。数を重ねていけば落ち着くかもしれないでしょ」
一理あると思ったのか彼は口ごもった。膝を抱え、ずいぶんと悩ましそうに唸る。
「何回かやってみてもダメだったら?」
「もしそうなったら一緒にいる間は付き合ってあげるわよ」
本当かと疑わしく見られるのは心外である。善は急げとばかりに颯天の肩を叩いて並べた布団の上に促した。
昨日はほとんど意識が飛んでいたから問題なかったろうが、さすがにみんなが戻ってきてからだと気配がして落ち着かないだろうと気遣った結果だ。
「……俺、昨日ほとんど覚えてないけどなにやったんだ?」
「簡単な手遊びをしてたぐらいよ」
「手遊びだあ~?」
なんだそりゃと耳を疑われた。思わずむっとしてしまう。
そりゃ世間一般で言われているコマンドとは違い異色なものだと自覚はある。だが、それを受けていた張本人に正気を疑われるのは不服だ。
ぽん、と燈霞は向かいの布団を手で叩いた。
「颯天『来て』」
グレアが出ないように努めて優しく言った。一瞬びくついた颯天だが、そろそろとやって来て示した場所に座って見せた。
燈霞が満足げに頷くとかすかに嬉しそうに口許を緩めている。
「手遊びってなにやったんだ?」
「これからやるから待って」
昨夜と同じように手を出すように命じ、そうして指を立てたり握ったりと簡単なコマンドを重ねていく。
最初は緊張気味だった颯天だが、拍子抜けしたみたいに身体から力が抜けて今はおかしそうに笑った。
「なあ燈霞、これ本気でやってる?」
「大真面目よ。ほら次は親指を合わせて」
「はいはい。今度は左手も出そうか? それとも足か?」
ちょっとぐらい緊張してたほうが静かで良かったかも知れない。減らず口が復活したことに束の間そんなことを思い、けれど安心して燈霞のコマンドに身を任せている颯天を見ると途方もない満足感を覚えてしまって勝手に負けた気持ちになった。
「……手遊びはもういいわ」
「ふうん。もう終わり?」
離れた手をじっと見ていた金の虹彩がチラリと見上げてきた。雨に濡れた子どものような瞳に思わず「うっ」と胸が苦しくなる。
(これはドムの本能。ドムの本能……! こいつが可愛く見えるなんてことはあり得ない!)
必死に言い聞かせながら燈霞は昨夜のように両手を広げた。
「『来て』」
「え?」
意図が理解出来なかったのかしたくないのか。颯天は顔色を窺うようにちらちらと見た。そうして短い距離を、膝を擦るように移動して恐る恐る燈霞の身体に寄りかかった。
あってる?
まるでそう問うように肩口にすり寄った彼が見上げてくる。不安を解消してあげるために微笑んで背中に腕を回すと、そこでようやく颯天は息をついてしっかりと体重を預けてきた。
うっとりと酔いしれるように金の煌めきが瞼に覆われてしまう。
「なあ……昨日も、こうしたのか?」
「したわ。そしたらあなた寝ちゃったから、布団に入れてあげたんだから」
「ふーん」
だろうな、と独り言みたいな声が落ちた。
颯天の瞼は重たそうに少しずつ下がり始めていた。
「燈霞のコマンド聞いてるときもそうだったけど、なんかこうして包まれてるのぽかぽかしてすごく安心する……昨日もおんなじこと思った気がする」
「……そう。落ち着いたならよかったわ」
なんだろう。すごく気恥ずかしい。心臓が羽で撫でられたみたいだ。暴れ出したいほどこそばゆい。
人知れず燈霞の頬が赤くなった。颯天はほとんど目を閉じていて、むにゃむにゃと眠たそうに鳴いている。
「なんか、今なら分かるかも」
「なにが?」
「アロンたちが言ってた意味……サブは愛されるために生まれてきたんだって」
背中を撫でていた手が、衝撃でとまる。自分の常識外のことを聞くと、人とはここまで思考が止まってしまうかと実感した。我知らず息も止めていた燈霞はおずおずと颯天を見下ろした。
「そんなことあるわけないのにな……サブは虐げられていじめられるためにいるのに……それしかないのに」
なのに、燈霞のプレイが変だから勘違いしそうになると颯天は言った。期待してしまう気持ち。そんなことはないと戒める気持ち。相反する思いが彼の中でひしめき合っているのがよく分かる、複雑そうな声だ。
「本当にそうだったら良かったのにな。それなら、こんな俺のことだって愛してくれる人がどこかにいるかもってことだろ」
――一人は嫌いなんだ。
その呟きは、この腕の中の男にとって心の柔らかな部分をさらけ出す言葉であろうことが、聞いていた燈霞には容易に想像出来た。
(子どもみたい)
こうして肩を丸くして寄りかかる姿だけじゃない。
ふざけたようにからかってくる姿も。すぐに動揺して真っ赤になるのも。思い返してみれば颯天はよく感情が表に出ていた。かといえば、演技とは思えないほど自然に女性らしく取り繕って媚びを売れる。
ちぐはぐだなあと、燈霞は思った。
真に本心を取り繕うのが上手い男だったのなら、そんな中途半端にはならないだろう。
そういう綻びのあるところも、背伸びをしすぎた子どものようだ。
極めつけにさっきの呟き。
あれは、まさにそこには颯天の子どもの頃からの淋しさが凝縮されていたのだと思う。
だから燈霞は腕の中の子どもを慰めるように。癒やすように抱きしめる力を強くして言ったのだ。
「私もそうだったらいいと思う。サブが、ドムに……誰かに愛されるために産まれて来たなら、そうだったらいいなって思うよ」
それは願いだった。
記憶の中にいる苦しむ母へ向けた――今腕の中にいる子供じみた颯天へ向けた、そんな祈りのような切実な願いだ。
「あなたたちは誰かの玩具でもないし、誰かが虐げていいような人じゃない。虐げられていい人なんて、どこにもいない」
強く、本当に強くそう思った。それは燈霞の言葉にも表れていて、断言した口ぶりにふと寝ぼけ眼な颯天の瞳が潤む。
「だったらいいなあ。……でも、俺みたいな人殺しでも燈霞みたいに抱きしめてくれる人がいるなら……それなら、そうなのかなあ」
言いながら、颯天はほろりと一粒涙を零してからストンと落ちるように眠りに入った。




