二十話
燈霞は持っていた手ぬぐいで颯天の額の汗を拭ってやる。
男のグレアにたいして、燈霞も対抗するようにグレアを発して守るようにしているからさっきよりはましなはずだ。それでも意識は薄いし、できればしっかりとした対処をしてやりたい。
翠嵐が用心棒を呼びに行ってくれているので、そう経たずに来てくれるはずだ。それなら二人がここを離れたって問題ないのではないか。
このまま颯天を抱えて部屋に戻ろうか。
そう思った。
話したことも名前も知らない少女より、颯天の安全のほうが燈霞にとって優先度が高い。なによりあのドムの男から一刻も早く引き離すのが颯天にとって何より大事なのだ。
(……ここは店の人に任せよう)
少女はサブではないようなので、颯天ほど重症にはならない。
決心した燈霞は、抱き上げるために札を颯天に貼り付けようとした。――しかし。
不意に持ち上がった瞼の下――ゆるりと動いた金眼がおぼろげに少女と男を捉えた。
その目に映るのは、男が手に持っていた酒瓶を大きく振りかぶる姿だ。酒で酔って碌な判断もつかなくなったらしい。そのまま蹲る少女めがけて叩きつけようとした瞬間、颯天は燈霞の腕から抜け出していた。
「は――?」
軽くなった腕に燈霞は唖然とした。誰があんな状態であそこまで素早く動けると思うだろうか。
頭が追いつかず、呆然と颯天の背中を見送る失態を犯した。
酒瓶が少女に叩きつけられるより早く、颯天が体重を目一杯のせた足で男の巨体を突き飛ばした。
男は無様に転び、颯天はふらつきつつも着地して少女を庇い立つ。
酒瓶は床に落ち、男に踏みつけられるようにして割れてしまった。そのときに破片で切ったらしい。男の手から血が流れる。
酔いのせいで痛みは鈍いようだ。たいして痛がる様子もなく、男はたちまち憤然と立ち上がって颯天の襟首を掴み上げた。
「なにしやがるお前っ!!」
見習いの少女の短い悲鳴が上がった。
小柄な颯天だ。大きな男に掴み上げられては簡単に床から浮き上がってしまう。震える細い両手が、男の腕を掴んだ。
あの怪力はどこへ行ったのか。今の颯天はか弱い少女そのものだった。
首が絞まり、小さな口が息をしようと懸命に動く。その瞳にうっすらと涙が浮かぶのを見て、燈霞の頭の中でなにか糸が切れた。
気づけば男は気を失って床に転がっていた。
耳に届く荒い呼吸が自分のものだと燈霞は遅れて気づく。腕の中には息を取り戻し、わずかに血色を戻した颯天がいて、彼は燈霞を見上げて薄く笑った。
「はは、おねえちゃんつええ」
「こんなときにふざけないで」
ビクリと颯天の身体が怯えた。
(違う。今のはコマンドじゃない)
燈霞にその意志はなかったが、男のせいで長くグレアに晒された颯天のサブとしての本能は、ずいぶんと敏感になっているようだ。
ふと息をついてどうにか自分の中の怒りたちを落ち着かせる。
今の颯天の前で少しでも苛立ちを見せれば、彼は自身への叱責だと思うはずだ。
「大丈夫。あなたに怒ったわけじゃない」
そって小さな頭を胸に抱き寄せ、囁くように告げた。
それだけでずいぶんほっとした顔をするから、もう燈霞の胸中はむちゃくちゃだった。
宥めるように颯天の頭を撫でていると、慌ただしい足音とともに翠嵐や用心棒の男たちがやってきた。
瞬く間に伸びていた男が拘束される。
「姉さぁんっ!」
見知った顔に安堵した見習いの少女が翠嵐に駆け寄った。抱きとめた翠嵐は、ふと倒れている颯天に目をやって悲鳴をあげた。
「颯美ちゃんっ!? なにがあったの!?」
真っ青になって心配してくれる翠嵐は本当にいい人だ。
「部屋に戻りますので、あとはお願いしてもいいですか?」
ひっそりと札を貼り付けて颯天の身体を軽くする。ひょいと横抱きに抱えあげた燈霞は、ろくに目もくれずに翠嵐に言い放った。
「え、ええ。旦那さんも呼んできたし大丈夫よ」
遅れてきた楼主は、陶器の破片が散らばる惨状を見てあんぐりと口を開けていた。
それでも少女や颯天ことをまず訊ねてきたのだから、たしかに妓楼の中でも「良心的な楼主」なのだろう。
翠嵐もちらちらと心配そうに颯天を見るので、燈霞は行き過ぎ際に彼女にだけ簡潔に事情を話した。
「颯美はサブなので、あの男のグレアに当てられただけです。休めば治りますのでご心配なく」
翠嵐に伝えたのは、なにも彼女の人の良さだけを考慮したんじゃない。彼女が颯天と同じようにサブであるからだ。
「もし必要ならドムの従業員を呼べるけど」
「大丈夫です。私がドムなので」
首だけで振り返った燈霞の毒々しい赤い瞳は、たしかにドムに相応しき力強い眼差しで輝いていた。
燈霞は教えられていた自室へ、半ば駆け足で滑り込んだ。
明かりを灯す時間ももどかしいが、一度颯天を下ろす。壁を背に座らせた。
板の間にそのまま横たわらせるのは可哀想だったので、布団を敷いた上に横にした。
月明かりの下で見える少女の顔はやはり血の気が引いていた。手に触れてみても冷たい。
これがただの体調不良であれば、様子を見て療養させれば済む話だが、第二性に関わる不調となると別だ。原因となっている本能的な欲求やわだかまりを解かなくてはならない。
今の颯天はドムから一方的にグレアを浴びて身体が怯んでいる。
理性では従いたくないと思いつつも、サブとしての本能が従えなかった自分に対して攻撃的になっているといえばいいのだろうか。
理性と本能――混在する二つの思いのせいで、身体や意識が混乱をきたしているのだ。
これを解消するのに一番手っ取り早いのは、ドムが簡単な命令を出してサブがそれを叶えることだ。
燈霞は母との経験で、それをよく分かっていた。
口許に手を添えてみる。浅いがしっかり呼吸は出来ている。そのことにひとまず安堵した。
本来、コマンドを用いた交流はお互いの合意間でのみ行うべきだ。昔目にした南方の書物によると、そういったドムとサブの交流を『Play』と呼ぶらしい。
そのプレイにも両者――主に負担の大きいサブを守るための規則というものが存在する。
とくにサブはコマンドに従えなかったとき、グレアを浴びたとき、また意にそぐわないコマンドへの従属といったサブ性への負担がかかりすぎるとそれは身体的にも大きな悪影響をもたらす。
通称『サブドロップ』。意識混濁や呼吸困難、最悪の場合は命を落とすことにも繋がりかねない。
けれど、そういった危険性を熟知したドムというのはこの沙蓬国にはまだまだ少ないのだ。
(ひとまずドロップはしてなさそう……)
かくいう燈霞も母以外のサブに会うのは初めてだし、形式にのっとったプレイというものをしたことがない。
緊張で心臓がバクバクする。異様に喉が渇く気がした。だが、ここで燈霞が上手く出来なければ颯天の身体は悪化の一途を辿ることになるのだ。
「……颯天」
意識してドムとして語りかける。すると、ピクリと颯天の瞳が薄く開いて燈霞を見た。
寝起きのように虚ろな目だ。
燈霞は母とのやりとりを思い出してみるが、いつも手を繋いだり抱きしめ合うだけだったので、参考に出来そうにない。
(まずは簡単な命令をこなしていく……)
「颯天、『手を上げて』」
ゆっくりと持ち上がった手をとって燈霞は微笑んだ。あっていると、それでいいのだと褒めるように。
「うん。じゃあ、次は『手を握って』」
恐々と力がこめられた。握るというにはほど遠い。けれど、それがいじらしく見える。
「いい子ね」
褒めると、虚ろだった颯天の表情が柔らかくなって呼吸も深くなった。
そうして手遊びのようなコマンドを重ねていくと、颯天もだいぶ血色が戻ってきた。動きが滑らかになったあたりで燈霞は一度手を離す。金の瞳がまるで淋しそうに視線で追いかけてくるから、心臓がこそばゆさを覚えた。
ぬるま湯のような心地よい甘さが、燈霞の身体に沁みていく。
「颯天、『起き上がれる?』」
「……うん」
こくりと頷いて身を起こした。布団の上に座った少女は、次は? とまるで催促するように首を傾げて見つめてきた。
しかし、視線を受けた燈霞は土壇場になって躊躇った。
母とはいつもこうしていたけれど、果たして颯天も同じ対応でよいものか。
と、燈霞は不意に思い出した。
――こういうときは家族の温もりってやつが一番いいんだろうよ。多分な。
幼い兄弟が抱き合う姿を見ながら零された言葉を思い返す。
おずおずと彼を見返して、その期待した眼差しに背中を押された。その場で膝立ちになってそっと両手を広げる。
(私は家族なんかじゃないけど……)
それでも、他人の熱が少しでも弱ったあなたを癒やせるのなら……。
「颯天『来て』」
『おいで』のほうが良かったかな、と言ってから後悔した。母とのときの言葉がそのまま出てしまったのだ。
(来て、だとなんか私が望んでるみたいじゃん)
羞恥で頬が赤くなる。ついつい顔に力が入って憮然とした様子で抱きついてきた颯天を受け止めた。
こうして颯天の世話を焼くことが嫌だとは思わない。けれど、母以外とはほとんど他者と馴れ合わず生きてきた燈霞にとって、誰かとこんなふうに触れ合うのは慣れないし、緊張してしまうのだ。しかも自分から命じてとなるとなおさらだ。これでもまだ年若い女なのだから。
小柄な颯天はすっぽり綺麗に……とはいかずとも、ほどよく燈霞の腕のなかにおさまっていた。
暗い部屋の中、障子越しに感じる遠い月明かりがぼんやりと二人の抱き合った影を浮かべている。
ドキドキと高く鳴っていた鼓動だが、相手の温もりを感じているうちに静まって平常時よりもうんと静かに刻まれていく。
控えめだった颯天の腕も、互いの体温が移ろうごとにゆっくりと力がこめられて燈霞の背中に回った。
燈霞の肩にこてりと首を預けていた颯天はしばらく燈霞の温もりに包まれていると、そのうち微睡み始めた。
くあっと静かな欠伸が一つ落ちたと思えば、颯天はそのまま静かに寝息を立て始める。
燈霞の耳許を、健やかな寝息が掠めた。あれだけ冷たかった身体も今じゃ温い。
完全に寝入るまではと、燈霞はそのあともしばらく颯天を抱きしめていた。
そうしてある程度時間が経ってからそろそろと身体を離して顔を窺う。颯天は起きる様子もなく深く寝入っていた。
慎重に布団の上に横にして、燈霞も隣に自分の分を敷いて横になった。
無意識に、颯天の顔が見えるように横向きになっていた。すやすやと眠る寝顔を見ていると、途方もない幸福感や満足感といった温かな感情が胸に溢れてくる。長年追い求めていたものをようやく見つけたような達成感で、手を伸ばせば届くこの距離でさえもどかしいと思ってしまう。
少しでも自制心を緩めると、彼を抱きしめて腕に囲ったまま眠ってしまいそうだ。
理性で振り切って仰向けになる。暗い天井を眺めて深く息をつくと、不意に法術の気配が近づいてきた。
つと目だけで見ると、壁をすり抜けるように淡く輝く白い鳥が現れた。
鳥は迷うことなく燈霞のもとに降り立つ。それが誰の術であるのか知っていた燈霞は手のひらを向けた。すると、鳥は手のひらをつんと一回つつく。
そして気づいたときには燈霞の手の中に官吏証と小さな手紙が置かれていた。
鳥も、用は済んだとばかりに目を離した一瞬で姿を消している。
静かな部屋の中でゆっくり起き上がり、官吏証は懐にしまって手紙を開いてみる。
思った通り懍葉からで、阿是と惟次が無事に着いたこと。また、今は老夫婦の営む飲食店で手伝いと近場への配達を請け負っているそうだ。様子を見つつほかの仕事も試してみるという。街の人にも可愛がられているので心配はないと記されていた。
(あと一日早ければ照会せずにすんだのに……)
今さら言ってもしょうがないことではある。
とにかく二人が無事に到着したようでなによりだ。
ふわりと手紙を浮かばせる。指をひょいと振ると、その動きに倣って手紙は隅に置かれた荷物の中に滑り込んだ。
そうして再び布団に横になる。
(そういえば、同じサブでも翠嵐さんは平気そうだったな)
顔色は悪かったが、颯天のように意識を無くすほどではなかった。
元々具合が悪かったからかな、と考えて、たしか昼間に武官に捕まっていた辺りからだと思い返す。
(もしかしてあのときに私からグレアが漏れてたのかも)
グレアはドムが意識的に出すほか、怒りなどの感情に煽られて無意識に出てしまうことがある。よくよく考えると、颯天は燈霞のグレアに当てられて弱っていたところに男からのコマンドとグレアを浴びて重症化したのかもしれない。
いまさらそんな可能性に気づいてしまった。自分のせいでサブを苦しめていたことにちくちくと心が痛む。
これはドムとしての本能なのか。それとも颯天相手だからか。
チラリと颯天の寝顔を見た。その横顔が安らかだから、燈霞はそれ以上罪悪感で苦しむこともなく、気づけば眠ってしまっていた。




