十七話
「えっとぉ……私にはオネエチャンだけですよ?」
こてりと颯天が首を傾げる。かわいこぶって純真な振りで笑っているが、その内心が冷や汗ものなのを燈霞は察してしまう。
翠嵐は「そう」と少しばかし残念そうだったが深くは追求しなかった。
一瞬の冷たい緊張から、燈霞も颯天も解放される。ほっと小さく息が揃う。
「じゃあ私に着いてきてくれる? まず店の中を案内するわね」
そう言って翠嵐が背を向けたとき――。
「あっ」
思わず声が出た。
二人の視線が燈霞に刺さる。どうしたの、と翠嵐の問いかけに、不躾に訊くわけにもいかなくてどうしたものかと焦った。
咄嗟に出たのはさっきの翠嵐からの言及に対してだ。
「いえ、さっき颯美に訊いた男の人ってそんなにこの子に似ていたのかなと思って」
「ばか、なんで掘り返すんだよ!」
小声の罵倒は足を踏んで黙らせた。背後で声のない悲鳴が上がった。
そんな颯天には気づかない翠嵐は申し訳なさそうに眉を下げた。
「人違いしちゃってごめんなさいね。……一年ぐらい前かしら。このお店によく来てた男の子がいたの」
「その人が颯美に似てる?」
男の子と言うぐらいだから子どもの域を抜けない若い男だったのだろう。
そういえば颯天の詳しい年を知らないと、そのとき気づいた。
「その子も颯美ちゃんみたいに綺麗な子でね。黒い髪と金の目もそっくり……男の子にしては細身だったけどすらっとしてて、お店の若い子たちはその子が来る度に色めきだっちゃって大変だったのよ」
そのときの騒動を思い出した翠嵐はクスクスと笑った。若い子たちは、と表したところやまるで子を見守っていた大人みたいな笑顔を見るに、翠嵐自身は颯天にそういった視線を向けていたわけではないようだ。
それでもただの客である颯天を覚えていたのだから、よほど印象深い男だったのだろうか。
「その人、そんなに何回も妓楼に遊びに来てたんですか?」
よほど女遊びがお好きなようだ。
横目に颯天を見ながら訊ねる。すると、彼はあからさまに目を逸らした。
翠嵐は燈霞の呆れを含んだ嫌味に笑って首を振った。
「ふふ、多分颯天――あの子はそういうことをしたくてお店に来てたわけじゃないのよ」
現に颯天は妓女と床に入ることはなく、いつも食事を一緒に楽しんで帰るのだと言った。
「でも、妓楼に来る目的なんてそうないと思いますけど」
むしろそれ以外になにがあるというのか。
じとりと颯天を見る目は、相変わらず彼と交わることはない。これを見るに、やっぱりやましい気持ちしかなかったんだろう。
はなから決めつけている燈霞をよそに、翠嵐はその瞳を、当時を思い出すようにふと宙へ向けた。
「この仕事を長くやってるとね、やってくる男の人の目を見るだけで大体考えが分かるものよ。やっぱり邪な思いを持つ人が圧倒的に多いし、たまに付き合いで嫌々来てる人もいる。あとは――」
「あとは――?」
「妓楼にはそれこそ色んな人が来るわ。貴族から平民まで、それこそお金さえあれば誰でも。お酒の席っていうのはただでさえ理性が緩むものなのに女の子を前にすると余計に口を滑らせる方も多いのよ」
それはそうだろうと燈霞も内心で大いに同調した。しかし、それがなんの関係があるのか。
「私たちはね、時には墓まで持って行かなきゃいけないような話を聞いてしまうこともあるのよ。そして、妓楼にそういう情報が山ほどあるってことを知ってる人は意外と多いもの」
そこまで言われて分からないほど察しの悪い人間ではない。
つまり、その情報を目当てに妓楼に来る者がいるということだ。
「もちろん私たちだってそう簡単に話したりはしないわよ? それこそお客からの信用を失ったらやっていけないからね」
「……颯天も、目的はあなたたちの話を聞くためだったと?」
「私はそう思ってるわ。といっても、あの子がなんの話を聞きたかったのかは分からないけど。世間話みたいな話を延々とお酒を交えて楽しくして、気づいたらあの子は来なくなっていたから」
「目的のものが手に入った……?」
「そうかもしれないわ。それともここじゃダメだと思ってお店を変えたのかも」
そういえばここ娃昌には比較的長く滞在していたと言っていた。それも毎晩のようにこの妓楼通りを渡り歩いていたと。
(聞いたときはとんでもない好色な男だと思ったけど、もしかしてずっと情報を集めるために練り歩いていたの?)
そうまでして得たかった情報とはなんだ?
しかも一年ほど前となると、彼が捕まって死刑を言い渡される直前ではないか。
(そのときにはもう人を殺してたのかしら)
ふとそんなことを思ってしまって、気にしてどうするのかと頭から振り払う。
深刻な顔で黙った燈霞に気づき、気を取り直すように翠嵐は部屋を出て二人を呼んだ。
「ごめんなさいね。つい颯美ちゃんを見てると口が軽くなっちゃった。本当にあの子が目の前にいるみたいなんだもの」
「い、いいえ~……颯美は気にしてないでぇす」
もごもごした颯天に一度微笑み返してから翠嵐は二人を廊下の奥へと呼びこんだ。
「……なあ、さっきなに見て驚いてたんだ?」
「さっき?」
訊き返してから、翠嵐を見て声を出してしまったことだと気づく。
「いや、ただね。翠嵐さんの首に痣があったからびっくりしちゃって……でも、女性の身体――それも痣についてなんて訊けないし失礼でしょう?」
「ふーん。そんなのあったのか?」
「うなじのところにね。今は髪で隠れちゃってるけど」
「へえ。まあ妓女の首に痣があるなんて客には見せらんねえか」
二人の視線が前を行く翠嵐の後ろ姿へ向けられた。今は彼女の翡翠色の長い髪に隠れて見えはしないが、颯天はそれで納得したようだ。しかし――。
「だからって俺の話掘り返さなくたっていいだろうがよ」
「しょうがないでしょ。咄嗟にほかに出てこなかったのよ」
結局バレてないんだからいいだろうに。
それよりも燈霞には気になることがある。翠嵐の話が事実かどうかだ。颯天だって彼女の話はしっかり聞いていたはずなのに、驚くほどそのことには言及がない。
情報を得るために通っていたのは本当なのか。なんのために、なんの情報を集めていたのか。
訊きたくて、けれど結局訊ねはしなかった。翠嵐から呼ばれたというのもあるし、なにより当時のことを訊ねる意味がないからだ。
(私はいただ呪いを解く手伝いをすればいいの)
颯天が捕まる前の動向なんてどうでもいいのだ。――そう自分に言い聞かせた。
「二人にはまず居住区域のほうを案内しておくわね」
楼主の部屋から真っ直ぐ進んだ階段の手前で翠嵐が言った。
手すりなどは綺麗に磨かれているが、装飾は簡素なものでこの階段は客が使うものではなさそうだ。
そして翠嵐の言うとおり、妓女たちの居住区域である上階に繋がっているのだろう。
「防犯上のこともあって妓女は三階以上に部屋があるの。二階は主に衣装部屋だったり物置になってるからあとで見せてあげるわね」
「わあい! 私綺麗なお洋服大好きです」
少し高さのある幅狭の階段を翠嵐に颯天、燈霞の順で続く。
足元に気をつけながら燈霞はちらりと颯天越しに翠嵐を――彼女の首元を見た。
(颯天にはああ言ったけど、なにも痣に驚いたんじゃないのよね)
たかが女の身体に痣があったぐらいで動揺を出したりはしない。
だが、初めて会った人物に見慣れたものがあるとなると話は別だろう。
翠嵐が身を翻した束の間にちらりと見えた痣。それはたしかに懍葉の鎖骨にある痣と酷似しているように見えたのだ。




