十四話
昨夜の疲労のせいか、燈霞たちは少しばかり寝過ごしてから宿でたっぷり腹を満たした。
襲撃犯の情報をもとに颯天の言う「良い作戦」とやらを実行するためには準備がいるらしい。
そのため妓楼に向かうのは日が暮れてからだが、昼間の内にその準備とやらを済ませたいそうだ。
燈霞が腹一杯食べている間に、先に食べ終えて宿の主人にあれこれ訊ね終えた颯天に続く。
なにを訊いていたのかと問えば、仕立屋の場所を訊ねたのだと言う。
「服が欲しかったの?」
だったら宿の近くにいくつか既製服の販売所があったはずだ。なのにどこまで歩くつもりなのか。すでに遠くなった宿屋を振り返る。そんな燈霞の考えを見透かしたように颯天は首を振った。
「ああいう服じゃないんだよ。必要なのは」
「どういうこと……?」
「着いたら分かる」
またそれか。
ろくでもない店じゃないだろうなと思いつつ、とりあえずこの街をよく知るのは颯天のほうだからと任せることにした。
やはり昼は人が少ない。この街の住人の多くが夜が活動時間だからだ。
(まあ役人はちゃんと昼間から仕事してるわね)
向かいからはこの街の警備官と見られる武官の男が二人歩いてきていた。
妓楼のような店があれだけあると警備官の出番も多そうだ。
(ご苦労様だこと)
同じ官吏の端くれとして心ばかりの労りを覚えつつ通り過ぎようとしたのだが。
「おい。そこの女二人」
なぜか呼び止められてしまった。
「なんですか?」
「昨夜、妓楼通りの店で騒ぎがあった」
「それは大変ですね」
しれっとした顔で言えば、颯天の呆れかえった視線が突き刺さる。白々しくよく言うぜ、とそう言いたいのがありありと分かった。
(やったのはあなたでしょう!)
お疲れさまですと会釈で終わらせようとしたのだが、
「目撃証言からお前たち二人の関与が疑われている。一緒に来てもらうぞ」
「は?」
思わず声が漏れた。
あの暗闇で、かつ人の目の届かない屋根の上での出来事だったというのに、いったい誰が目撃できたというのか。
閃光に限っていえば人目を引くとは思ったが、あの眩しさの中ですぐにその場を離れた二人をハッキリ視認できたとは思えない。
しかし、この武官たちにはしっかりとした確信があるようだった。
とくに黒髪の武官は熱心に――それも確かめるようにまじまじと颯天を見ている。やはり閃光近くにいた彼の姿を見られていたのだろうか。
「誰かと勘違いしてるのでは? 私は官吏です。ここには仕事で来ました。彼女は官吏ではありませんが仕事の同行者です」
体格の良い武官二人に詰め寄られながらも、燈霞は一歩も怯まず、むしろ面倒ごとになったとばかりに白けた深紅の目で向き合う。
官吏という言葉にさすがの男たちも目配せし合った。
「なら官吏証を出せ」
「はいはい」
まあそうなるな、といつも取り付けている腰帯に手をかけ、しかし空ぶった手に失態を悟る。やってしまった。
官吏証は阿是や惟次の身分保証のために渡していたのだ。二人が無事懍葉の元に到着したらこちらに届けてもらう予定だったが、残念なことにまだ戻ってきていない。
しかも今は官服ではなく旅装束だ。
急に旗色の悪くなった燈霞に、武官二人――とくに癖毛の男はどこかおかしそうに片眉を上げた。あからさまに自分たちの有利を悟った顔だ。
「ん~? どうした? 官吏なら誰もが持てるその証しを出してくれと頼んだだけだが?」
「……一時的に手元を離れています。申し訳ないですが身分の照会を求めます」
「官吏詐称も罪状に加えておこう」
「夜という視界不良の中での目撃証言だけで罪を確定されるとはずいぶん杜撰な調査ですね」
あんまりにニヤニヤした笑いが鼻をつき、ついつい煽るように言ってしまった。まさか若い女にそんなふうに抵抗されるとは思っておらず、男は「は」と呆けた顔である。
男が言葉を理解して血を上らせるより早く、燈霞は整然と並べ立てる。
「今私の身分を確認しておかないと困るのはあなた方だと思います。これで犯人扱いし、あとになって私の主張も聞かずに身分照会の求めにも応じなかったとなれば問題になるのでは?」
そう言えばさすがに思うところがあるようだ。燈霞があまりにも憮然と狼狽えもしないから余計だろう。
難しい顔で黙った癖毛はちらと黒髪の男を見た。それまで黙っていた黒髪の男は、そこでようやく口をきいた。
「それなら身分照会をしよう。だが、詰所には来てもらうぞ」
仕方がないとは思ったが、言うが否や男が颯天に手を伸ばすので慌てて間に入った。
「なにをするつもりですか」
「お前たちは重要参考人であり、容疑者だ。そんな二人を一緒に置いておくわけないだろう。そっちの女は俺と一緒に来てもらう」
やけにしつこく颯天に絡んでくるから鬱陶しい。だが、二人は離れることが出来ない。なにより一応は監視人として目の届かないところに行かれるのは困るのだ。
「まずは身分照会をしてください。それでも疑いが晴れなければ隔離でもなんでも受けますよ」
これだけ強く出ているが、まあ昨夜の騒動に燈霞たちが絡んでいることは事実である。しかし官吏という身分は便利なもので、簡単にこういった疑いの目を逸らすことが出来る。
「所属は梧澄の呪史編纂部――汐燈霞です。上司は苑懍葉です」
「梧澄? ここからだと距離があるな……都の胡毘のほうが近い。官吏名簿で照会したほうが早い」
「え、本部に問い合わせるんですか」
ギクリと燈霞が初めて狼狽えた。
「なんだなにか問題でもあるのか」
「いえ……生家を出て名字が変わったので。登録名はその生家での名前かと」
「ならそっちを教えてくれればいい」
それが問題だから渋っているのだ。
生家の名は、二度と口にはしないと決めた名だ。しかし燈霞が口を噤む時間が長いほど二人の武官の目はどんどん怪しい者を見るように疑わしさを増していく。
背後の颯天もさっきまでの威勢はどうしたのかと訝しんでいる。
(仕方ないか……)
一度だけ。そう今回だけだ。この忌々しい名を名乗るのは。
燈霞は腹をくくった。
「潮……潮燈霞」
息をのんだのは誰だったか。潮家。男たちはもちろん、その名は呪師でもない颯天にとっても聞き知った名だ。なんせ都の北方を治める大貴族の名なのだから。
「潮家、だと?」
「嘘をつけ。潮家にこんな若い女の官吏がいたのか」
いたのなら知らないはずはないと、男たちはそう言いたげだ。
「嘘だと思うのも良いですけど……照会すれば分かることですし。さっさとしてください」
あまりにふてぶてしいので男たちも頭ごなしに疑う気はなくなったようだ。ちらちらと燈霞を気にしながらも癖毛の男が懐から取り出した懐紙になにやら筆で書き込んでから呪法をかけた。折りたたまれた紙はそのまま意志を持つように飛んでいく。
その紙に、燈霞は男には気づかれないように手を加えた。あのままじゃ都に行って答えが返ってくるまで時間がかかりすぎる。
照会文書を送り終えた男たちの眼差しは居心地悪く燈霞に突き刺さった。あれだけ熱心に颯天を見ていた黒髪の男だって今じゃそんな気配はない。
「なあ、あんたってば本当にそんな偉いお貴族様なのかよ」
くいと袖を引かれ、背後から耳打ちされる。
「数多くいる庶子の一人よ。子どものころに家を出てるからほとんど関わりはないわ」
潮家は正妻だけでなく妻と名のつく女が少なくとも両手の数はいるものだ。そのため子どもも多く、傍系まで含めれば潮家だけで巨大な組織になる。
燈霞の母も数多くいる当主の妻の一人だった。といっても母は、下級貴族の当主が気まぐれに手を出した平民の女が産んだ子である。本当なら潮家に嫁げるような身分でもないが、その容姿がずば抜けて美しかったことと、当主の男がドムでそれと相性が良いサブとしての性別を有していたために嫁ぐことが出来た。
しかしそこでの生活は母にとって決して良いものではない。
妾は数多くいたが、みなそれなりに名のある貴族の令嬢だ。平民の血が流れるのは母のみ。それだけでも風当たりが強いのに本来特権意識の強いはずの貴族が服従して安寧を得るようなサブとあっては余計だ。
女たちは母の存在などないものとし、こそこそと影で嘲った。男たちはその見てくれを欲の浮かんだ目で称えては悪戯にそのサブ性を刺激して見せた。
大貴族らしく潮家にはドムの男が多かったのも不幸だ。母にとって潮家というのはまさに地獄ようなところであっただろう。
――お願いします。燈霞に、子どもにはせめて栄養のあるものを……。
――ならば頭を下げて請うべきでは?
――そうですよ。身の丈以上のものを望むのなら、それなりの態度がなくては。
満足に食事も分けてもらえず、ほかの妾のもとに頼み込んだ母の細い背中を今も覚えている。
義務とばかりに過ごした初夜で身ごもったりしなければ、母はいくらでも過ごしようがあっただろうと燈霞は度々思ってしまうのだ。
(ああ、嫌なことを思い出した……)
ついつい燈霞の深紅の瞳に昏い光りが宿る。肩越しにその瞳を垣間見た颯天は、虚を突かれたように目を丸くしていた。
「その年頃だとまさか嚇秀様の子か?」
「ご当主の御子であれば俺たちが知らないはずがない。しかも女の身で法術を極めているとなると噂にならんのもおかしいだろう」
「そうだが……」
視線が痛くて仕方がない。
目の前であれこれと推測されるのは気分のいいものではない。
「特別優秀なわけでもなかったので人の口にのぼらなかったのでしょう」
これで納得して興味を失せてくれ。そう願ったところで届くはずもなかった。
それ以上話してくれるなという燈霞の圧も通じない空気の読めない男たちは、好き勝手喋りつつづけた。その全てが目の前の虎の尾を踏むことになっているとは露ほども知らずに。
しげしげと燈霞を眺めていた癖毛の男は突然大声を上げたのだ。
「思い出した! この女、あの妾の子だろう。ああそうだ。この赤い髪に赤い瞳、一度見たら忘れぬ色だ!」
「どの妾だ」
「子殺しを企てて当主の嚇秀様自ら処罰したという、あの気狂い女のことだ。見てくれだけは目を瞠るほど美しかった」
癖毛の男はやに下がった顔で記憶の中の母と燈霞を比べたてる。黒髪の男も話は聞いたことがあるらしい。「ああ、あの」と納得した様子であった。
ぎしりと燈霞の手が軋む音を立てた。
胃の腑を炎で炙られているような心地だった。
男たちの言葉全てが腹立たしくて仕方ない。なによりそれらの言葉は、燈霞の深くに封じ込めてる黒い炎を簡単に呼び起こさせるのだ。
子の首を絞めていたからと事情も訊かず声もかけず、淡々と母の頭を射抜いた父であった男への復讐心を――。
即死した母を一瞥し、燈霞に声をかけることもなく立ち去った男は、すぐに人を呼んで母だったものを処理した。気を失った燈霞が目を覚ました時には全てが綺麗になっていたのだ。
あのときの男の冷めた眼は、なにも浮かばぬ顔は、燈霞の脳裏に焼きつきこびりついて決してなくなりはしない。
「そのあとどうなったかと思ったがこうして立派に官吏になったとは。ご当主であるお父君はさぞお喜びだろう」
「ああ。まったくだ。まさか気狂いを妻に迎えるとは……と、いっときは潮家の醜態を心配したものだが、まあ元凶たる恥部もご当主自ら処理されたのだ。きみの活躍も潮家の信頼回復となるだろう」
所詮言葉だけの激励だ。だって燈霞を見る目は侮りや卑しさがなくなるどころか膨らんでいるほどなのだから。
カッと煮えていた頭はいつの間にか静まりかえっていた。
――殺してしまおうか。
頭に過ったそれは、とてつもない妙案に思えた。あの男には力量及ばずであったが、こんな武官二人であれば簡単に殺してしまえる。
奇しくも燈霞は母の手によって死にかけたおかげでそれだけの力を手にできた。
人を殺すような人間は最低だ。分かっている。だが、相手がそれだけのことをしたのなら?
心優しき母が弁明の機会もなく無残に美しき顔に穴を開けられたのだ。ならばその母を見下す男を殺してなにが悪い。
考えることを放棄したように頭は真っ白だった。ただただ頭を占める殺意に身を任せようかと理性の手綱を引き離しかけ――しかしそれを止める人物がいた。
「燈霞」
颯天である。
不思議だ。耳許の少女の声が、いやに低く男のもののように聞こえた。
叱るような強い制止ではない。宥めるような柔らかい音だった。
懐の札に伸びかけた手はいつの間にか颯天の生白い腕に捕まえられていた。強い力ではないのに、どうしてか燈霞は振りほどこうとは思わなかった。
「颯天?」
「落ち着けよ。俺たちは大事な仕事の途中だろ。あいつらのきたねえ声が耳障りなのは分かるが我慢しろって」
苦言――というよりは寄り添うような口ぶりに燈霞も冷静さを取り戻す。同調されたからだろうか。それとも首を回して見てしまった颯天の瞳が、獲物を狙うように美しく光っていて魅入ってしまったからか。
とにかく彼のおかげで正気に戻ったのは確かだった。
目の前の二人も武官の端くれゆえ、燈霞の殺気に気づいたようで顔色悪く腰が引けていた。
膠着した状況でどう誤魔化そうかと思っていると、都合良く呪法の気配を感じた。ふと空を見ると、少し前に飛び立っていった照会文書がひらひらと男の手に戻ってきた。
やはり重ねて術をかけておいて正解だった。
男自身は早すぎることに首を捻っているが深く考える気はないらしく、すぐに紙を開いて返答を確認する。
「潮燈霞……ああ。ちゃんと官吏名簿に記載されている。所属も梧澄で間違いないな」
「それならもう行ってもいいでしょうか?」
「あ、ああ。呼び止めて悪かったよ」
癖毛の男はぎこちなく笑う。
よほど殺気にあてられて怖い思いをしたらしい。身元が保証されただけで昨晩の騒ぎの疑いが晴れたわけではないのだが、簡単に解放してくれるようだ。黒髪の男は気づいて燈霞たちを呼び止めかけたが、それも青い顔をした癖毛の男に止められてしまう。
気が変わってまたあれこれ詰問されても面倒だ。二人は早足である程度距離を取ると、路地に入って武官たちの視界から消えた。
「……とりあえず追いかけてくる気はなさそうだし、もう関わってこないだろ」
通りを覗き込んでいた颯天の言葉にふと息をつく。さっきは本当に危なかった。
「ありがとね……止めてくれて」
「べつに。あんなところで騒ぎを起こされたら俺だってとばっちりだ」
「ふっ……なにそれ。騒ぎにならなければ止めなかったの?」
「さあ。どうだろ」
肩を竦めて颯天はおどけてみせた。まったく感謝の言葉ぐらい素直に受け取ったっていいだろうに。
燈霞は苦笑した。
「服を買いに行くのよね。少しぐらいなら良いやつ選んでもいいわよ。経費で誤魔化しといてあげる」
「まじで!? ラッキー……って、まあ高すぎてもあれなんだけどなあ」
「……本当になにを買うつもりなの?」
「だから着いてからのお楽しみだって」
あんたの食費よりは安いと思うぜ、なんて飛んできた憎まれ口を無言で相殺する。
二人は通りに戻ったが、あの武官たちの姿はもうなかった。
目的の店はもう少し妓楼通りに近いところだという。助けてもらったからと燈霞はしずしずと着いていく。すると、不意に颯天がぽつりと言った。
「燈霞のお母さんは幸せもんだな」
「え」
空耳かと思った。だから上手く反応できなかった。
斜め後ろから垣間見えた颯天の横顔は、どこか色が白すぎるようにも見えて……そして、見ているこちらが切なくなるような微笑を浮かべていた。




