十三話
宿で燈霞たちが話をしているのと同刻。
ある妓楼の一室に女がいた。
黒く真っ直ぐな長髪が川面のように艶めきながら床の上を流れる。身に纏う豪勢で煌びやかな衣装も、女を中心に花のように広がっている。
うっすらと開いた窓からは、階下での宴会や接待の賑やかな声や音楽が響いていたが、この女の部屋だけはまるで切り取られたように静かだった。
衣装の質や広い個室を一人で使っていることから女が妓女の中でも高い位にいるのだと分かる。それほどの価値がありながら、明かりのない雑然とした部屋でただ座り込む女は、妓楼の中でのし上がるような豪胆な女には見えなかった。
それよりも隅に追いやられた内気な少女というほうがよほど女の雰囲気に合っている。
はたから見ると庇護でも覚えそうなものだが、部屋に広がる怪しげなものたちがどうにも近寄りがたくさせていた。
部屋に飾られた大きさの違う鏡たち。そのどれもが乱暴に割られてヒビが入っている。足元にはさまざまな呪文や意味深な文様の書かれた紙が床を覆い尽くして山になるほどだ。
窓から差した月明かりのもと、女は苛立たしげに爪を噛みながらすぐそばの紙を握りつぶした。
「まだなの……」
ちょうどそのとき、廊下から誰かに呼ばれる。待ち望んでいた者の帰還に逸るように入室の許可を出した。
入ってきたのは黒装束の男だ。頬に出来た傷から出血があり、どこか息も荒い。懸命にここまで走ってきたのだとよく分かる様子だ。
顔を隠していただろう口布は役割を果たせず、片耳にひっかかるように垂れ下がっていた。
音もなくひっそりと入室してきた男だが、女の部屋は御簾によって分断されているので彼らが互いの姿を見ることはない。
しかもこの女は人の立ち入りをひどく嫌うので、扉から一歩の距離までしか許さないのだ。それを重々把握していた男は、正しく入室した一歩分の距離のところで立ち止まった。
「ほかの二人は?」
「女に反撃されてほかの店に突っ込んで気を失ってる。さすがに二人も回収は出来なかった」
「……女に攻撃したの?」
怒りに震えた低い声に、慌てて男が釈明をした。
「い、言われたとおり金眼に黒髪の女にはなにもしてない。そばにいるやつは蹴散らしていいって言ってただろ? もう一人の赤い髪の女を始末しようとしたんだが、黒髪の女にしてやられた」
報告に、ちっと女が舌を打つ。
「なんのために強くしてやったと思ってるの……!」
小さい苛立ちを隠すように長くため息をついた。そうして幾分か冷静になった声で再び報告を続けさせる。
「それで一緒にいたのは赤い髪の女だけ?」
「ああ。ほかに連れはいないようだった」
「そう……まだこの街にいるはずだから明日も探して――」
言いかけて口を噤む。
「ねえ。ほかの店が壊れたのよね?」
「ああ。一つは軒先が崩れたぐらいだが、もう一つは盛大に屋根をぶち抜いた」
「それなら役所が動くわね」
腹を立てていた女の機嫌がころりと好転した。
――ああ、これなら颯天と監視だろう女を引き離せる。
一度は失敗したが、これなら大丈夫だ。
月明かりに浮かび上がる青白い顔が、うっすらと微笑む。
男は頭を使うことは得意ではないので、なぜ急に女が機嫌良くなったのか分からない。
「今日、下に役人は来てた?」
「あ、ああ。たしか警備官の何人かが飲みに来てた」
刹那考えてから女は一人を名指しした。
「その中でも寡黙で体格の良い黒い短髪の男を呼んできて。きっといるはずだから」
「分かった」
「なるべく早く呼んできてちょうだい」
凄むように言えば、男は少し小走りに部屋を出て行った。
――六郎、お前その部屋でなにしてた。
――旦那さん、いやちょっとばかしお使いを頼まれたんで。
――あっ、おい! そんな急いでどこへ行く。
言葉が途切れると、バタバタとやって来た忙しない足音に女の顔が険しくなる。
不躾に扉を開けられ、御簾越しに入ってきた男――楼主を睨めつけるように見た。
「風嵐! お前客の前に顔も見せず、六郎たちになにをさせてる!」
「旦那さん大きな声を出さないでください」
「客の金払いがいいから好きにさせていたが限界だ! 店のもんを好き勝手に呼びつけおって! あいつらにはあいつらの仕事があるんだ!」
どかどかと入り込んだ楼主は怒りのままに女の顔を見て叱りつけてやろうとした。――しかし。
「それ以上来ないでっ!!」
御簾に触れる直前、絹を裂いたような女の叫びで石のように身体が固まってしまった。
「……顔は見せなくたって、客はちゃんととってるはずです。あの人たちは金払いもいいでしょう?」
「か、金を払ってはくれているが、一体顔も見せずにここでなにをしているんだ」
ピクリと動かない身体に怯えつつも、口だけを動かして楼主が抗う。
「いいじゃないですか。なんでも。この店で一番儲けてるのは私なんですから」
「それはそうだが」
楼主の勢いが削がれると身体に自由が戻った。
女の売り上げが店にとって大きいものなのは事実だ。とくに最近の女は神経質なので、これ以上刺激して完全に客を取らないと拗ねられても困る。
そう判断し、楼主は大人しく引き下がった。
「だが、六郎たちにも仕事がある。小間使いみたいに使うんじゃないぞ」
小言を置いて出て行った。部屋が再び暗くなったのでようやく女は緊張と込み上がってきた嫌悪感を吐き出すように深呼吸をする。
気づかないうちに震えていた手を胸元で結び、呼吸を落ち着かせてから窓の外へ目を向けた。
「颯天。もうすぐ会えるのね」
うっとりとした艶めいた声が、部屋の中でかすかに響いて夜に消えた。




