十二話
燈霞は宿の部屋で目を覚ました。
(ここは――!?)
慌てて飛び起きたが残っていて酔いのせいでくらリときて逆戻りだ。
「頭が痛い……」
なんだか喉や鼻の奥も痛い気がする。げっそりした顔でよくよく見た天井は見覚えのある宿屋のもので、ああ颯天が運んでくれたのかと隣の寝台を見た燈霞は驚いた。
「な、なにしてるの?」
部屋には小さな卓を挟んで寝台が並ぶ。卓には蝋燭が灯っていて、部屋はその明かりによって温かく照らし出されていた。颯天はその炎の向こう――もう一方の寝台にいたわけだが、なぜか壁に背を預けながら膝を抱えて小さくなっていた。
大胆かつ不敵な普段の様子からは想像も出来ない姿だ。
膝の上で組んだ両手にうずまっていた顔がゆっくり持ち上がる。少女の丸く愛らしい目が、今はひどく昏く見える。
「起きたのか」
「ええ……颯天、あなたどうしたの? あれからどれぐらい経ったの」
まさか燈霞が倒れてからなにかあったのか。
訊くと、小さな頭が横に振られた。
「たいして経ってない。それより口すすいだらどうだ。顔は拭いたし、一応口も洗おうとしたんだが……あんたが溺れかけてやめた」
「ああ……」
鼻や喉が痛いのは水が入り込んだからか。原因が判明すると痛みが余計ハッキリと感じられる。
言葉に甘えて水差しから杯に注いで手洗い場で口をすすいだ。スッキリして戻ったところでやっぱり颯天は同じ姿勢でじっとしている。
らしくない様子にいい加減痺れが切れた。向かい合うようにどかりと寝台に腰かけた。
「ねえ。いったいどうしたの?」
「べつに」
「べつにじゃない。なにかあったなら教えて」
考えるような沈黙が落ちた。
「……嫌なこと思い出しただけだ」
「そう」
考えた末の答えがそれなら、燈霞だって深くは訊ねない。
「運んでくれてありがとうね」
「まあ俺たちは離れられないしな」
素直に礼をしたのにこの返しだ。思っていたよりも元気そうだな、と燈霞は布団に入った。
あの人の多さと緊張感で疲弊したのはもちろん、そのあとの襲撃もあってへとへとだ。
「そういえば知ってる顔だったんでしょ」
「ああ。娃昌でそれなりにでかい妓楼の用心棒だ。なんで俺たちを襲ってきたのかまでは分からないけど……用心棒だから体格も腕っ節もいいけどあそこあそこまでだとは思わないんだよなあ」
ようやく調子が戻ってきたみたいだ。独り言みたいな疑問に、思い出した燈霞がつけ加えた。
「それは呪法を使ってたからよ」
「呪法だって?」
「そう。身体強化とかそんなところでしょうね。ハッキリ感じたから間違いないわ」
そこまで言って、燈霞はふと颯天を観察するように見た。
(……今はない)
男たちから呪法の気配を感じ取ったとき、微かだが颯天からも同じような気配を感じたのだ。
三蕗の街で逃げられたときは動転していて気づかなかったが、あれだけの怪力と脚力だ。まずあの小柄な身体ではあり得ないだろう力だが、呪法を使っているとなれば話は別。他者へ向ければ難易度は上がるが、自分自身の身体となるとそう難しいものではない。
そのため自身への身体強化は法術武官内でもよくみることだ。
しかし、それを解くには解法の取得が必須。そのため法術武官たちは必ず複数人の班で行動し、その中には解法取得者が含まれる。
そうでなければ本来はない身体能力によって身体を酷使し続けねばならなくなる。
ただの妓楼の用心棒が呪法を使っていたことももちろんではあるが、燈霞からすると颯天のほうが不可思議で気にかかるものだ。
状況だけを見ると、颯天は呪法も解法も行使することが出来る――と見て間違いない。
だが彼は法術に関しては無知だと言うし、呪いのことだって知らなかった。
(いったいどういうことなの……)
今問い詰めたっていいのだが、柔らかい布団の上ではこれ以上起きていることが難しそうだ。
うつらうつらし始めた意識に、燈霞はそうそうに白旗を上げて身を任せることにした。
「それじゃあ明日はその男がいる店に行ってみる?」
「……いやすぐに乗り込むのは危険だし、周辺で情報収集したい」
「まあ襲われたわけだしそのほうがいいわね」
だがどうやって情報を得ればいいものか。人気の伎女相手ならまだしも、相手はただの雇われ用心棒である。
困ったと考えていると、颯天がにんまり笑った。
「それは俺にいい作戦があるから任せろ」
「……その言葉、本当に信じていいの」
「大丈夫だって。この街のことはよく知ってるから大船に乗った気でいろ」
「それが泥で出来た船じゃなければいいけど」
「ひっでーなあ」
ごろりと寝転がった颯天と目が合う。途端、彼の双眸が見てはいけないものでも見たようにハッと逸らされた。
「あー……燈霞」
「なに」
「その……あー、首のさ、包帯なんだけど……苦しそうで勝手に取っちゃった」
右往左往していた瞳が、「ごめん」と上目遣いに窺ってきた。触れてみるとたしかにいつもの包帯の感触はなく、久方ぶりの素肌の滑らかさが伝わる。
(なんだそんなこと?)
なんだってそんなにびくびくしてるんだか。なにかやらかした子どもが震えながら機嫌を伺ってくるような顔があんまりに深刻で、この男にもこんな殊勝な心があったのかと逆におかしくなってしまった。
「介抱してくれたんでしょう? べつにいいわよ……もしかしてこれを見ちゃったからそんなに落ち込んでたなんて言わないわよね」
これ、と燈霞が指さした首にはぐるりと黒い痣が広がっている。
これを見てしまった人は大なり小なりぎょっとして距離をとるものだ。あの懍葉ですら刹那目を瞠ったほどの醜悪なものなのだから。
(まあ仕方ないわね)
なんせこの黒い痣、よく見ずともそれが手形であるとはっきり分かる。当然だ。幼いときに母に首を絞められた跡が今もこうしてこびりついているのだから。
「そんなこと気にしてねえよ。これは嫌なこと思い出したからだって言っただろ」
「はいはい。分かりましたよ」
「絶対分かってねえ返事……」
颯天の口先が不服そうに尖る。しかし次の瞬間には真剣な顔になった。
「……それ、本当に怪我じゃないんだよな?」
「ずいぶん昔のことだから気にしないで。跡が残ってるだけよ」
それでも疑うような眼差しは弱まることを知らない。当たり前か。見ただけでもただの痣ではないことは明白なのだから。
一呼吸分だけ躊躇ってから、努めて燈霞は淡々と応えた。
「これは呪いなの」
「のろい?」
「ええ。颯天みたいに死ねなくなったり女になったり……そういった変容はないけれど、ただこの跡が残り続けているの」
まるで私のことを忘れるなという母からの遺言のようだ。
(こんなものなくたって私が忘れたりするわけなのに)
一人苦笑した燈霞に、颯天がおずおずと「解かないのか」と訊く。
「解けないのよ。この呪いをかけた人はもう死んでるから」
息を飲んだ颯天の顔に、面白いものをみたと思った。彼がここまで動揺した顔は初めてじゃないか。そこまで考え、さっきの膝を抱えた落ち込み姿にそうでもなかったなと思い直す。
関係ないことを考える余裕のある燈霞とは違い、颯天はずいぶん気にしているらしい。
ちらちらと見てくる瞳は言葉を探してるようだ。小さな唇が「あ」だの「う」だの言いかけては結局なにも出てこない。
そんな様子をおかしく笑いながら燈霞は布団をかけ直して仰向けになった。
「さ、今日は大変だったしそろそろ寝ましょう」
おやすみ、と話を切り上げてさっさと蝋燭の明かりを落とす。部屋を包む暗闇の中、遅れて布団に潜る颯天の気配を最後に燈霞もゆっくり眠りに落ちた。




