第101話「裏通りの影」
王都の午後は、どこか落ち着かない気配に包まれていた。
空は晴れていたが、肌を撫でる風には冷たいものが混ざっている。
騒がしいはずの中央通りも、今日は妙に静かだった。
行き交う人々の顔には、警戒と緊張がにじみ、まるで皆が何かを“探っている”ような空気が漂っていた。
(昨日の事件が広まってるな……)
順一は商人たちのやり取りを聞きながら歩いていた。
声を潜めて交わされる噂話の中には、「デスカル」「急死」「騎士団」「闇ギルド」という単語が混じっていた。
だが、皆あくまで表向きには沈黙を守っている。
それがまた、事件の異常さを際立たせていた。
(あんなやり方で殺されたんだ……そりゃ、みんな黙るしかねぇか)
王都の北部にある貴族街。その一角に屋敷を構えていたデスカルという貴族が、前日の夜に殺された。
表向きは病死とされているが、実際は王国騎士団が“暗殺”と断定。
しかも、目撃者も証拠もなし。
完全に“無音”で、“影のように”現れて、“一突き”で仕留めたという。
順一の耳にも、その情報はすでに入っていた。
ギルドの受付嬢エリナから、さりげなく告げられた“非公式の情報”――
それは、王都が未だかつて経験したことのない「見えない恐怖」の始まりを示していた。
(音も気配もない殺し屋……か)
順一は空を見上げる。
あの一件以来、王都では騎士団の姿が明らかに増えた。
巡回中の兵士たちは道の端々に目を光らせ、民の動向を静かに見張っている。
(ああいうのを見ると余計に、裏通りが気になってくるんだよな)
順一は人の流れから外れ、人気の少ない細道へと足を向けた。
表通りでは見えないものが、裏路地では見える。
騒ぎの中でこそ、“本音”は人目を避ける場所に集まるものだ。
石畳が歪んだ細道を抜け、木材と煉瓦が混じった建物の陰を歩く。
市場の喧騒から離れたその路地は、昼でも薄暗く、足音が湿った空気に吸い込まれるようだった。
猫の鳴き声、金属を叩く音、そして……静かな気配。
(やっぱ、こっちの方が落ち着くな)
順一は自嘲気味に笑った。
ギルドでのんびりしていればいいものを、こうして街を歩き回るのは癖のようなものだった。
(けど、ここで見える景色の方が、よっぽど“真実”に近い)
路地の隅では、物乞いの老人が無言で空を見上げ、
一角の古道具屋の前では、子どもたちがボロ布をマント代わりに遊んでいる。
そのすべてが、王都という街の“本来の顔”のように思えた。
そのときだった。
ふと、視界の隅に違和感が走る。
順一は自然と足を止め、視線を向けた。
古びた石壁の下。
積まれた木箱の陰で、ひとりのフードを被った女が、地面を見つめてしゃがみ込んでいた。
(……何かを探してる?)
顔はよく見えない。
けれど、その仕草は妙に整っていた。
ただの市民にしては、無駄のない動き。重心の置き方。姿勢の良さ。
順一は無意識に歩み寄りかけたが、その瞬間――
女が顔を上げた。
フードの奥、ほんのわずかに見えた瞳と目が合った。
(――!)
不思議と、時間が止まったような気がした。
その瞳には驚きと、そして一瞬の迷い。
だが次の瞬間には、女はすっと立ち上がり、何も言わずに反対方向へと歩き始めた。
早すぎず、遅すぎず。
ごく自然な足取りで、あっという間に角を曲がり、姿を消した。
順一は、その場から動けずにいた。
(今の……なんだったんだ?)
確かに目が合ったはずなのに、言葉もなく、表情も読み取れず、ただ、気配だけが妙に残っている。
(昨日のあの子……に、似てたか?)
記憶の中の断片と重ねようとするが、結びつかない。
あのときも、今回も、名前も知らなければ素性も分からない。
ただ、残ったのは――“違和感”だけだった。
(体の使い方、足の運び……やっぱ、普通じゃねぇよな)
順一は思わず、視線を落とした。
その瞬間、ふと脳裏に蘇ったのは、昨日一緒にぶどうを食べたあの子の姿だった。
紫色の髪。柔らかな物腰。笑顔。
だが、その優しげな雰囲気の裏には、
はっきりと“隠された何か”があった。
(あのスタイル……やっぱ、只者じゃねぇ)
思い出すのは、ふと目を引いたプロポーション。
フードの下でも隠しきれなかった豊満な胸元。
動きの中に垣間見える軽やかさと、無駄のない所作。
順一は頭を振った。
(でも、まさかな……)
今回出会った女が、昨日のあの子かどうかも分からない。
ましてや“暗殺者”だなんて、想像のしようがなかった。
けれど――
(なぜか、気になる)
正体も、名前も知らない。
けれど、なぜか強く印象に残っている。
“風のように”すれ違って、“何か”を残していった存在。
順一は小さく息をついて、刀の柄にそっと手を添えた。
(何が起きようとしてるのかは分からねぇけど……少なくとも、油断はできねぇな)
王都の影は、確実に広がっている。
その中に、自分の知らない“誰か”が紛れている。
――次に出会うとき、その相手が敵なのか、それとも――
順一は空を見上げた。
夕日が、ゆっくりと傾き始めていた。