#49
それがナイフだということを理解するためには、然程時間は要さなかった。
だがしかし、失うものがなくなった人間の思い切りは、なによりも早い。
「あんたさえッ!」
イザベラが状況を認識したタイミングには、既に眼前にまでリリアーヌ様の姿が迫っていて。
――マズい。理性だけでなく、本能からもその危険が身体の中を駆け巡る。
とにかく身体を動かすことを優先する。なんとか、ギリギリで刃がイザベラの身体に届くことはなく。ドレスの袖を切り裂くに留まる。
「夢の中では! 全部全部全部全部、うまく行ってたっていうのに!」
ただひたすらに振り下ろされる刃の数々。ただ、最初とは違い、イザベラも心構えができている状況なこともあり、リリアーヌ様の動きを見てから回避することができる。
しかし厄介なことに、リリアーヌが取り乱し、狂気を振り回している姿を見た貴族たちが騒然としてあちらこちらに逃げ惑っている。
そのせいで、イザベラやルイーズ、アルベール様がリリアーヌ様から十分な距離を取れない。
「私の夢が、どうして現実にならないの!?」
振りあげられたナイフがイザベラに向かって降ろされそうとしたそのとき。
サーシャが、彼女の身体を組み伏せて、制圧をする。
「……やはり、でしたか」
地に伏せられ、ナイフを取り上げられてもなお、こちらを恨めしく睨みつけてくるリリアーヌ様に、イザベラはそう、小さくつぶやいた。
マリエルが提示した、最悪のケース。
こちらの手立てが全て防がれる可能性があった、唯一の負け筋。
リリアーヌ様が、イザベラと同じく。
夢の中で、未来を見ることができるのではないか、という。その可能性。
アルベール様から、その可能性は高い、と聞いていた。
世迷言と、当時は断じられたが。リリアーヌ様もイザベラと同じく。「未来がわかる夢を見た」というようなことを言っていた頃合いがあったのだという。
無論、そのようなことは子供の戯言としてまともに取り合ってもらえるわけもなく。発言を咎められるまでで留まってしまった。
だが、もしそれが真実であり。そして、彼女が未来を見ているとするならば、合点が行くことが多いのも事実だったのだとか。
たとえば、彼女が干渉した事業については。ほぼ、彼女の言ったとおりにことが進む、と。
官などの中には、事前に根回しをした事業にしか手を出していないだとか、自信があるものにしか手を付けないとか。そういう噂をしているものもいたりはしたが。
しかし、後者はともかくとして。リリアーヌ様がそういう根回しの類をしていない、というのは、家族という距離感にいたアルベール様がよく理解していた。
「イザベラから予知夢の話を聞いたとき。まさか、と思ったよ」
アルベール様が、小さな声でリリアーヌ様にそう言葉をかける。
「……まさか」
「ああ、そのまさかだ。イザベラも、リリアーヌと同じく、夢の中で未来を見ていた。だから、お前の目論見が、全て破られていた。……まあ、話に聞く限りでは、夢への干渉度合いについては、イザベラのほうが圧倒的に下だったようだが」
リリアーヌ様は、どうやら夢の中で繰り返し何度も試すことで、自身の思うような未来を作り出し、そのとおりに立ち回ることでその未来を得ていたのだとか。
なるほど、たしかにそれはイザベラには満足にはできない芸当だ。なにせ、イザベラには最近まで「夢で見た事柄は変わることのない未来」であるとそう確信していたし。そして、その意識が根強かったからこそ、かつては半ば諦めかけて、どうやってこの破滅の未来を受け入れようかと。どのように納得するべきなのかと、そう思っていた。
だが、件の毒殺未遂事件を経て。未来は変わる。変えられる、ということを知った。
だからこそ、イザベラは動いた。
「そして、婚約破棄が起こるという未来を変えて。そして、私はこの場に立った」
そう。ここまでの夜会が茶番なのだから、当然、アルベール様もそのことは承知で。
すなわち、イザベラの発言を信用してくれた。リリアーヌ様からの話を振り切り、イザベラが無罪であると、確信してくれていた、というわけである。
「でも、それならなんで、婚約破棄が出来上がってるのよ!? そんなの、起こす理由が――」
「あるではありませんか。今、現に」
「――ッ!」
そう。イザベラの無実を証明するだけでは、なにも解決には至らない。それは、今回の婚約破棄を回避する上での大前提であった。
イザベラに。もとい、アルベール様に刃を突き立てんとしている犯人を暴かなければ、なにひとつ解決しない。
そして、その犯人は。イザベラと同じく、夢で未来を見ることができる。
「リリアーヌ様が、細心の注意を払って。自身の望む未来以外を見ようとしていたのなら、危なかったのですが」
イザベラがリリアーヌ様に対して、夢の中を介すことにより誰にも察知されずに調査をすることができたように。
リリアーヌ様も同じく、イザベラたちのことを調べることができたのだ。
それをされてしまって、そして、その情報を表での立ち居振る舞いに反映されなければ、イザベラたちに回避する手立てはなかった。
だがしかし、リリアーヌ様はそうはしなかった。現実が自身の思うように進んでいると錯覚して。そして、そこで思考を止めた。
このまま進めば、いつものように。うまく行くはずである、と。
「だからって、一歩間違えれば自分が断罪されかねないような場を、わかってて仕組むって……貴女正気!?」
そう、あくまでこの場でリリアーヌ様が黒幕であるという証明ができなければ、イザベラに未来はなかった。だというのに、そのための証拠は不十分、リリアーヌ様が口を滑らせるのが大前提という最悪の前提。
そうでなくとも、周りの聴衆たちの意見のコントロールを奪えず、リリアーヌ様優勢のままで話が進んでしまえば、例えばリリアーヌ様から言葉を拾えたとしても、それは証拠とはならない。
たった一手刺し違えただけで、それこそ、イザベラが夢の中で見たように、破滅へと向かってしまう可能性が十二分にあった。
リリアーヌ様からの紛糾も、まあ、正当なものではあるだろう。だがしかし――、
「それが、必要なことだと判断したので」
リリアーヌ様が夢を見ることができるという前提に立つ上で、ギリギリまではイザベラが夢の中で見た筋書きどおりにことを進めなければならないのは必須。
なれば、それが喩え、死と隣り合わせの舞踏であろうが、踊らなければならないだろう。
「狂ってる。……そんな判断をする貴女もそうだし、婚約者の破滅ギリギリの行動を認めるお兄様もそう。ふたり揃って頭イカれてるんじゃないのッ?」
「その言葉、マリエルたちにも言われましたね」
ルイーズは理解を示してくれていたが、マリエルとミシェルからはとてつもなく心配そうな顔で詰められていたのを未だに覚えている。
サーシャも、理解はしてくれていたものの。しかし、それはそれとして、という表情を浮かべていた。
随分と、心配をかける行動をしたのは、重々に承知しているし。それについては、しっかりと謝るべきことだ。
だがしかし、今、ここにイザベラは、アルベール様の婚約者として立っている。ならば――、
「しかし。必要なことなのならば、やらなければならない。それが、為政者というものでしょう」
それ相応の、立ち居振る舞いをするべきだろう。
そのイザベラの言葉に、リリアーヌ様は小さく「……そう」とつぶやくと、地に顔を伏せた。
これで、一件落着。
と、そう思った。
その、瞬間。
猛烈な、頭の痛みを感じる。
なにか、なにかを訴えかけるような。そんな痛み。
初めて感じるような。……いや、一度だけ経験がある。
たしか、マリエルがアルベール様を襲おうとしたとき。
あのときは、本当のギリギリまで事態を把握することができなくて。そして、その結果。
事が起こる直前に、痛みとともに、夢の中での景色を思い出して。
そう。そのときのような、痛み。
理解しかけて。しかし、そこで疑問が走る。
事件は解決したはず。リリアーヌ様は制圧されていて。これ以上になにかが起こるわけが無くて――、
だがしかし。その瞬間に脳裏に焼け付いたその景色は……アルベール様が倒れている姿。傍らには、血溜まりが出来上がっている。
服装や周囲の様子から、今日のことであろうことは推測ができる。だが、不思議なことに――今までで初めての、夢で一切見たことがない景色。
それゆえに、一瞬判断に困る。はたしてこれが、これまでの夢と同じ予知なのか。それとも、ただのイザベラの頭痛が見せただけの光景なのか。
だが、しかし。その疑問を、即座に捨て去る。
考えを放棄したわけではない。思考は依然として回し続けている。ただ、結論がまだ出ていないだけで。
理屈などではない。ただの、本能。ただひたすらな、直感。ある意味、イザベラらしからぬ、その衝動に駆られて。
『イザベラ。君はとても聡明な人間だが。けれどもしかしたら、と考え込んでしまうところが欠点だな。だからこそ、困ったときはまず動いてみるといい』
いつか、どこかで聞いた。その言葉に。突き動かされるようにして。
イザベラは、アルベール様を突き飛ばした。
それと、ほぼ同時。タンッという甲高い破裂音がして。直後、肩口が熱を帯びる。
周囲から悲鳴が湧き上がり。遅れて、痛みが沸き上がってくる。
そこまで来て、理解する。ああ、今、狙撃をされたんだ、と。
狙われたのは、アルベール様。……おそらくは、過去二回に亘ってアルベール様とイザベラを狙ったであろう犯人。
「決してリリアーヌ様の制圧を解かないように! 私は問題ありません!」
痛みを押し止めながらに、イザベラはそう叫ぶ。
追撃の可能性はある、が。その前に事が収まる。一瞬ではあるが、ギルスが走っていくのが見えた。
それ以外にも、マリエルやミシェルが喧騒の中から必死に近づいてきてくれて。ルイーズは全体の統制をとってくれている。
「…………」
ついには声を上げることさえやめて、歯を噛むリリアーヌ様。……本当に、手強い相手だった、と。今になって思える。
最悪の場合を見越して、一矢報いる準備は用意していたのだろう。特にアルベール様が狙撃された――特に急所を狙われたともなれば、その処置を優先せざるを得なくなる。その一瞬で逃亡する手立てを用意していたわけだろう。
だが、その希望すら潰えた今、これまでの抵抗が嘘かのように大人しくなっていた。
「……今のタイミングの狙撃は、音を聞いてからでは反応が間に合わないはずよ」
リリアーヌ様が、恨めしそうにそう言う。
「まさか、この狙撃までもが織り込み済みだったとか言わないわよね?」
「いいえ、これは、全くの想定外です」
「でしょうね。そうだったら、そんなに焦ってないでしょうし」
なにせ、元よりリリアーヌも予定外だった行動。
この手の切り札は、ただ逃げるためだけの、後のことなど一切想定していない、本当の本当に奥の手であり。使ったら最後、元の地位はありえない。
「……てっきり、貴女は土壇場での判断。行動力には劣ると、そう判断していたのだけれども」
「いえ、その評価は間違いありません。未だに、躊躇うことは多いです」
ですが、と。イザベラは言葉を続ける。リリアーヌ様に対して伝えるために。そして、イザベラ自身に言い聞かせるように。
「この、一連の事件から。いくら考えても、いくら悩んでも。それだけではなにも変わらないし、変えられない。変えたければ、動かなければならないと、学びましたから」
当たり前なことですけれどね、と。どこか自嘲気味に、イザベラはそう言った。
リリアーヌ様が思考を停止していたように。イザベラも、行動を停止していたのだ。
だからこそ、最初に婚約破棄の予知夢を見せられていたときには、抵抗を諦めて、無理やりに自身を納得させようとしていた、
考えることしか、しようとしなかった。
「そう。……ほんと、お兄様とお似合いね。そういうところも含めて」
リリアーヌ様は、吐き捨てるようにそう言った。
嫌味に捉えられたのだろう。実際、そのように捉えれられる文面ではあった。
だが、そんな皮肉であったものの。しかし、イザベラにとっては、褒め言葉にも聞こえた。
「せいぜい頑張りなさい。地の底から、こっちに来ないか見守っておいてあげるから」
「ええ、ありがとうございます。ですが、残念ながらそちらに伺う予定はありませんが」
ふん、と。リリアーヌ様は鼻を鳴らすと。そのまま、衛兵に連れて行かれた。
騒然とした会場は、次第に少しずつ落ち着きを取り戻して。
こうして。一連の事件は、本当の意味で幕を閉じた。




