#29
「それでは、おやすみなさいませ。イザベラお嬢様」
「ええ、おやすみサーシャ。あなたも早くに就寝なさい」
「はい」
サーシャはそう言いながらに腰を折り、退室するために扉へと身体を向ける。
そんな彼女を見送りながらに、イザベラは少し、今日にあったことを振り返る。
タイミングとしては、まさしく偶然というものではあっただろう。イザベラが提出する資料を持っていったのはまさしくたまたまであるし、そのタイミングでリリアーヌ様がいらしたというのも、偶然の一致というものであろう。
ただ、その偶然を皮切りにして、リリアーヌ様からはお茶会の招待を受け。そしてその場で、様々なことについてを話した。
(……まあ、話の種類としてはいろいろなものがありましたが、そのほとんどはアルベール様に関わるものではありましたけど)
とはいえ、イザベラとリリアーヌ様は元々それほど絡みがあった関係性というわけではないし。ともすれば、元よりお互いについての趣味な嗜好を把握しているわけではないので、合致している話題を理解していることもなく。その結果として確実にお互いが知り得ている共通の話題としてアルベール様のことになるというのは自然な話ではある。
(しかし、思っていたよりもリリアーヌ様がアルベール様のことを気にしているようでしたね)
正直なところ、少し意外ではあった。
リリアーヌ様については、噂程度としてある程度の話は聞いていたし。それ以外では、アルベール様との歓談の際に、話題のひとつとしてあがったことがあるから、イザベラからの事前の評としてはそういった側面からのものにはなってしまうものの。しかし、その総評としては、リリアーヌ様はアルベール様のことを嫌いとまでは行かないまでも、好きではないだろう、と。そう思っていた。
当の本人であるアルベール様自身が、リリアーヌ様からあまり好ましく思われていないだろうと、そう判断されていたことだし、イザベラもそうなのだろうと思っていたのだが。しかし、今日の彼女の言動を見ながらに判断すると、一概にそう判断できることでもないのかもしれない、と。そう感じた。
(まあ、他人の心というものを正確に図りとるということは難しいことでしょうし)
イザベラも、今目の前にいる彼女――サーシャがどう思ってくれているのか、ということを十分には理解できていない自覚がある。
どうにも、サーシャは最近、イザベラのことについて気にしていることがあるように見える。
だがしかし、それは必然であり、道理であるだろう。
なにせ、以前のエルフェ邸にて、彼女はイザベラからの頼みに対して、無条件で頷き、協力をしてくれた。
だがしかし、あくまで付き従ってくれたのはサーシャがイザベラの従者であるからであって。彼女自身の興味であるとか、なぜかを疑うその気持ち自体は人の性分として当然のものだろう。
とはいえ、イザベラ個人の判断で不用意に話すわけにもいかないし。それに、話してしまえば彼女をイザベラの事情に巻き込んでしまうことになる。
「……ごめんなさいね」
イザベラがそう、ぽつりとつぶやいた、その瞬間。
パリン、という。なにかが割れる音がした。
* * *
イザベラお嬢様は、相変わらずなにかを気に病んでいるようです。
エルフェ侯爵家での一件のあと、しばらくは比較的以前の、いつもどおり、と称してよいのかはわかりませんが、平時のイザベラお嬢様に近い状態に戻られていたのですが。
王都に来てからしばらく。また、朝方にひどくなにかを悩んでいらっしゃる様子を見せられました。
それでいてサーシャたち侍女の前では平静を保とうとされていらっしゃるので、これを不躾に首を突っ込むべきではない、と。そうは思うのですけれど。
「…………」
今日、王城へと資料の提出をされに行かれイザベラお嬢様は、帰ってくるなり、なにやら考え込んでいる様子で。
とはいえ、こちらに関しては朝方の悩みのものとはまた少し別種のものであるような、そんな様子でした。
聞けば、どうやらこれは先述のものとは違って特段秘密にしなければならないことというわけではないようで、はぐらかされることもなく、仕事の帰りにリリアーヌ殿下とお会いされて、そして、そのまま歓談をされた、と。
それを聞いて、なるほど、と、少しだけ合点をしました。
たしかに、イザベラお嬢様とリリアーヌ殿下とではあまり馬の合う組み合わせ、とは行かないでしょう。無論、あくまでサーシャ個人の机上での推論でしかありませんが。
ベッドの上で、サーシャと就寝の挨拶をしたあとも。イザベラお嬢様はなにやら考え込んでいる様子で。どうやら、今日のリリアーヌ殿下との会話についてを考えているらしかった。
彼女から聞かれたこと、話されたこと。そして、それにまつわる様々な周辺の話。そういったものを整理されている姿を見る限り。おそらく、このままサーシャが退室したところでしばらくは入眠には至らないだろう。
とはいえ、サーシャがこのことについてをどうこう言える立場にあるわけではもないし。それに、イザベラお嬢様のことだから、無理な時間になるまで起き続ける、ということもないだろう。
なれば、サーシャはそのまま退室して。そのまま明日の準備に取り掛かろう、と。そう、考えていた、そのとき。
「……ごめんなさいね」
そんな、イザベラお嬢様の小さなつぶやきも、無論聞こえていた。
聞こえては、いたのだけれども。しかし、そんなもの、サーシャからしてみればどうでもいい事柄になっていた。
ほぼ、同刻。鳴り響いた甲高い音。
パリン、という。ガラスの割れるその音が聞こえたその瞬間、考えるよりも先に、サーシャの身体は動いていた。
振り返るとほぼ同時に地面を蹴り飛ばし、イザベラお嬢様と音がしたガラスとの間に身体をねじ込ませる。
飛来していたのは、矢。
護身用のナイフで矢を切り飛ばそうとした、その瞬間。
ガキン、と。金属同士がぶつかる音がした。
幸い、キチンと矢は堰き止められており。そのままナイフにぶつかった矢は空を回転して落ちる。
だが、問題なのは。なにがサーシャのナイフを止めたのか。
「……あなた、は」
「……驚いた、今のに反応が間に合ったのか」
サーシャのナイフと刃を交えられていたのは、暗器。それを持っている男に見覚えはないが、しかし、どうやら即座にイザベラお嬢様を害そうであるとか、そういう意思については見受けられない。
むしろ、彼の立ち位置を見る限り。どちらかというと今のサーシャと同じくな立場。つまり、イザベラお嬢様のことを守ろうとした、と。そう見ることができる。
……その存在が、男性であることが問題ではあるのだけれども。
「――ッ! 話は後です!」
ひとまず、目の前の彼からは脅威になり得るものは見当たらない。だが、それ以外についてはその限りではない。
「イザベラお嬢様、申し訳ありません!」
サーシャはそう断りを入れてから。あとから如何なる罰でも受けるつもりで、イザベラお嬢様のネグリジェをグイッと引っ張る。
そのまま転がり込むようにしてベッドの陰に隠れると、空を切った矢は、そのままベッドに突き立つ。
「襲撃、ですか」
驚いた様子のイザベラお嬢様は、伏せた状態のままでジッと考え込む。
「それも矢で、ですか」
飛来してきたその武器の詳細を見て、彼女はなにやら考え込む。
しかし、たしかに武器としての性能であれば、弓矢を使うよりかは銃などを使うほうが火力にも速度にも優れる。
それであってもわざわざ弓矢を使ったとするならば、なんらかの理由があると考えるべきだが。
「……ああ、なるほど。余程相手は足がつくのを嫌っているようですね」
「どういうことですか?」
「たぶん、もう大丈夫だと思います」
夜間であったとはいえ、パリンというガラスの割れた音はそれなりに周囲に聞こえている。
それゆえに、すでに周囲にはある程度の人が集まっていた。
「銃を使わなかったのは、隠密性に長けるからです」
イザベラお嬢様は、念の為。今もベッドから身を乗りださないように注意しつつも、そう語る。
弓矢での射撃も、無論ある程度の音がするとはいえ、銃の破裂音に比べれば随分と控えめである。
加えて、現在は夜間であり。銃の射撃時に起こる火花による閃光も、犯人の現在位置を知らせる要素になり得る。
大きな音と光とが発生すれば、どこかの誰かが気づくかもしれない。あるいは、今回のようにイザベラお嬢様を一撃で仕留めることができなかった場合に、逆に場所を探知されかねない。
その点、弓矢であれば。無論、飛来してきた方向などからある程度の絞り込みはできるものの、即座の断定というのは難しくなる。
それゆえの弓矢の選択であろう。……余程、犯人か。あるいはその糸引きをしている雇い主は、自身に足がつくことを嫌っているのが見える。
加えて、それだけバレるのを嫌っているのであれば。
これだけの衆人の監視がある中では、いくら弓矢であったとしてもそのなかの誰ひとりからも気づかれない、というのは難しい。だから、むしろあり得るとするならば。
「あの群衆の中に混じって、野次馬のフリをしてそのまま退散したことでしょう」
「つまり、犯人は追えない、と」
「でしょうね。……おそらく、この矢を追っても辿れないかと思います」
ここまで警戒に警戒を重ねている犯人が、矢なんていう現場に残りかねない武器から痕跡を辿れるようにしているとは思えない。無論、だからといってこちらからなにも動かないわけではないが。
「ひとまず、移動しましょう。サーシャ、護衛を頼めますか」
「もちろんです」
推定での脅威は去った、とは考えているものの。だがしかし、あくまでそれはイザベラお嬢様の推測の範疇。
まだ相手がこちらを狙って構えているかもしれないので、警戒は厳に。ひとまずお嬢様の私室から出て、可能な限り窓などが少なく、遮蔽性の高い部屋へと移動する。
その際に、いつの間にやら現れていた先程の男性も同行していた。サーシャが素性を尋ねようとしたのだが、イザベラお嬢様はひとまず安全を確保できてから話しましょう、と。
お嬢様がこうして謎の存在に対してはぐらかしているのは、これで二度目である。たしか、以前にエルフェ家でイザベラお嬢様の周りに感じ取った謎の気配についてをサーシャが進言した際にも同じくはぐらかされていた。
ということは、その時の人物と見ていいのだろうか。
ひとまず各自ある程度の落ち着きを保てる状況にまで立て直してから。イザベラお嬢様を挟んで、サーシャと、それから謎の男との三人が対面をする。
「さて。……できれば巻き込みたくはなかったのですが、こうなってしまってはサーシャ、あなたにも話すほかありませんね」
「お嬢様。私はお嬢様の側仕えの侍女です」
「……そうですか。本当に、頼もしいですね」
もう少し早くに話しておくべきでしたね、と。イザベラお嬢様はそうつぶやきながらに、改めて一度男性の方を見て、なんらか確認を取る。
「今回は緊急事態ということもあるし、サーシャ嬢を既に巻き込んでしまっている以上、話しても大丈夫だろう」
「ありがとうございます」
なにやら許可が降りた様子。
改めてイザベラお嬢様はサーシャの方へと向き直ると、サーシャにも「これから話すことについては他言無用ですよ」と、強くそう釘を指してくる。
そうして、イザベラお嬢様の口から語られたのは、想像を遥かに超える内容だった。
アルベール殿下が命を狙われていること。なぜか、イザベラお嬢様がそれについての夢を見ることで予知ができるということ。
そして、それらの凶手を禦ぐために、過去三度奔走していたということ。
それらの説明は、たしかに突飛で。まるで作り話のようで。
ただし。サーシャの中にあった疑問たちと混ざり合うことで、不思議と氷解していくのだった。
「そして、イザベラお嬢様の護衛としてアルベール殿下から遣わされているのが」
「私というわけです」
男。もとい、殿下の腹心である彼は、サーシャのその確認にコクリと頷き、肯定した。
「……お嬢様のプライベート空間に入り込んでいるのが。まごうことなき婚前の女性の生活空間に男が入り込んでいることに言いたいことはありますが。しかし、今回に限っては婚約者であるアルベール殿下からの命令……つまり許可があるということですし、不問としましょう」
正直、サーシャの個人的な感情としては今からこの男に対して暴力に頼った説教を行いたいところではあるが、サーシャも一応間に合っていたとはいえ、事実として彼がいたからこそより安全にイザベラお嬢様のことを守れたということも事実である。
「ですが、認めたわけではありませんからね」
ジッ、と。そんな視線を彼に向けながら、サーシャはそう、言い放った。




