1-1 思い出せない記憶
※新作です。しばらく連続投稿します。
じぃ、帰るぞ。
小声で呼びかけると、消しゴムを枕に昼寝をしていたそいつが眠たい目をこすりながら僕の制服の胸ポケットに入り込む。
そのタイミングで担任の先生から名前を呼ばれた。
「天明、ちょっといいか」
帰りの会が終わり、他の生徒は続々と教室を出ていく。
「はい」
席を立ちながら、呼ばれた理由はと考える。今日は日直だから何か用事を押し付けられるのか。いや、違うだろうな。
進路。
教卓まで行くと、案の定白紙で出した進路希望表を返された。
「高校へは行くんだろ?」
「まぁ」
そうは答えるが、何か釈然としない。
「じゃあ志望校くらい書けるだろ」
「どこでもいいです。受かるところなら」
「おいおい。三年間を過ごす大事な高校選びだぞ。どこでもいい、はないだろ。もう少し自分の将来に責任を持て」
その言葉に違和感を覚える。
将来、未来。それは今を生きるから在るものだ。将来に責任を持てと言うのなら、僕にとってそれは今を大事に生きることだ。
ただーーわからない。
僕の中の焦りがなんなのか。この苛立ちがなんによるものなのか。僕は何か、大切なことを忘れているんじゃないか。今やるべき、大事なことを。でもそれがなんなのか、わからない。
「剣道の推薦の話も来ているんだぞ。おまえにその気があれば面談を設定するが」
「剣道部には入りません」
「どうしてだ。小学生の頃から頑張ってきたんだろ。大会だって入賞するほどの実力だろう。辞めちゃうのはもったいないんじゃないか?」
小学生の頃からじゃなくて、ものごころついた時からです。大会では県大会で優勝しました。
と思ったけれど、訂正するまでもないからスルーする。
「もっと他にやるべきことがあると思うんです」
でもそのやるべきことがわからない。だから悩んでいる。
「まぁ悩むのは仕方ない。これは返すから、もう一度よく親御さんとも相談して、考えてみろ」
「はい」
僕は席に戻り、返された進路希望調査書を何気なく眺める。
おや?
白紙だと思ったその紙に、何か書いて消した跡がある。
「おまえ、まだそれ出してないの?」
剣道部仲間の関谷が後ろから話しかけてきた。それ、とは進路希望表。
関谷は夏を過ぎてもまだ部活を続けている。剣道の名門高校から推薦の話をもらって、進路はもう決まったようなものだ。
「んー。どうしたらいいかわかんなくて」
関谷がこちら向きになって僕の前の席に座る。
「剣道で高校行くってずっと言ってたのに、急にどうしたんだよ」
「言ってた」
それは覚えてる。でもどうしてそれをやめたのか、自分でもわからないから困ってる。
「なんかもっと他に、やらなきゃいけないことがあるような気がして」
「なんだよそれ。俺たちのやらなきゃいけないことは青春を謳歌することだろうよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。今日久々に部活出ていったらどうだ? どうせ家に帰ったって受験勉強なんてしないだろ」
たまに汗を流すのもいいか。そうすればこのモヤモヤした気持ちも一緒に流れていってくれるかもしれない。そう思った。
「まぁそうだな。防具もまだ引き上げてないし、後で顔を出すよ」
日直の仕事を終えて、部室に向かった。
部室には部員の道着袴が干してあり、消臭剤を駆使しても誤魔化しきれない汗の臭いと防具の革や染め物の独特な臭いが立ち込めている。
懐かしい、と思う。
県大会を最後に部活を引退したのは、つい一週間前のことだというのに。
一週間ーー。
ふと、胸に得体のしれない不安が過ぎる。
心臓の鼓動が大きくなっていた。
引退を決めてから干しっぱなしだった道着袴を身につけ道場に出る。
しん、とした道場に違和感を覚えた。
いつもと変わらぬ道場。
上座には「切磋琢磨」の書の額縁。太鼓。一週間前と同じ。だけど違う。違うのは、なにか。
人がいない。
道場には、誰もいなかった。
ほんとなら、先に部活に来ている部員たちが、各々準備運動をしている時間だ。関谷だって先に行ったはず。僕も入れ違いに道場に出て行った二年生の姿もない。
「みんなどこに行ったんだ」
声に出すことで不安を隠そうとしたのかもしれない。まさかそれに答える人がいるとは思わなかった。
「どこにも行ってはいない」
背後からの男の濁声に、一瞬背筋が凍った。
すぐ後ろには部室の戸がある。そこにはだれもいなかったはずだ。
僕は恐る恐る振り返った。けれどやはりそこには今僕が出てきた部室の戸があるだけ。
「そちらではない。こちらだ」
ハッとして前に向き直ると、長身の男が一人、威圧感を放って立っていた。
道着袴姿。だが剣道着ではない。黒の胸のところに紋が入った上着に黒い袴。明らかに面妖なのは、男が黒狐の面を着けていた。
「あの、あなたは」
「試しに名乗りは不要。エモノヲトレ」
男が何と言ったのか一瞬分からなかったが、壁に掛けてある木刀を指さしたので、それを持ってこいという意味だとわかった。わかったところで、不審人物の言うことをそのまま聞くわけにもいかない。
「どうしてですか」
「言っただろう。試しを行う」
「ためし?」
「そうだ。それによりおまえを生かすか殺すか決める」
さらりと男は言うが、その強い言葉が決して友だち同士で冗談混じりに使うモノと同じ重さでないことは男の威圧感から否が応にも伝わってくる。
殺されたくはない。
僕は言われた通り、壁の木刀を手にし、男を振り返った。
抜き身の刀を晒すように、だらりと提げた右手に男は木刀を持っていた。
既にここがいつもの道場でないことはわかっている。
男の手のひらの上にいる。
逃げることはできない。たとえここで男に背を向けて外へ逃げ出しても、意味のないことだろう。
逃げ道はないし、逃げようとしたところで、背を斬られて終わりだ。
こめかみから頬を伝って脂汗が流れた。
「賢明だ」
男の濁声が笑いを含んでいる。
子うさぎを痛ぶって遊ぶ獰猛な獣のような笑いだ。
目の端で、サッと何か小さなものが動くのが見えた。
じぃだろう。
ワイシャツの胸ポケットでまた昼寝をしていたが、異変に気づいて逃げ出してくれたのなら良かった。じぃを危険には巻き込みたくない。
「貴様のような者に試しをするまでもないが、一応しきたりだ。構えよ。試しを始める」
男が僕に向かって木刀を差し向けてきた。
「あの、防具はーー」
竹刀でなく、木刀を持たせられた時点で察してはいる。
「打たれねば良いことだ」
ですよね。
僕は諦めて木刀を正眼に構える。
「望むのなら真剣でも良いぞ。その方が痛みも少なく済む」
僕が木刀を取ったのは、このわけのわからない人と対峙する覚悟ができたわけじゃない。まして殺される覚悟なんてあるはずもない。
ただ本能に従って抗おうとしてるだけ。
「木刀でお願いします」
その方がまだ生き残る可能性がある。
「敢えて苦しむ死を選ぶとは」
黒狐の面の下から男の含み笑いが聞こえる。
楽しんでいる。歪んだ男だ。
「僕は死ぬ気も殺される気もありません」
僕がそう言うと、男が一瞬動きを止める。
「それは残念だな。おまえの思い通りにはならないだろう」
男が右手の木刀を僕に向けた。
身にまとう空気が変わる。その瞬間、僕は木刀は頭上に持ち上げた。
ガツンと衝撃が腕に落ちる。
「ほう。よく受けた」
男が目の前にいた。木刀が僕の頭上で交差されている。
咄嗟に木刀を持ち上げねば脳天をかち割られていた。
ゾッとするが、まだ難が去ったわけではない。
男が体重を乗せてくる。信じられないくらい重い。
僕は両手で木刀を支えているのに、男は片手だ。
体重や力じゃない。物理とは違うどこかで働く重圧が、木刀を通して僕にのしかかってきている。
なんでこんなことになっている。
ふと、冷静になった。
この世ならぬ者が見えるせいか。
でもそれは物心ついた時からだ。今さらなんだっていうんだ。
腹が立ってきた。
「僕が何したって言うんだ。何もしてないだろっ!」
怒りに任せて木刀を押し返すと、男が弾き飛ばされたように、後ろへと飛び退いた。
「なるほど。力はある。だとしたら、何もしてないのが罪だ」
独り言を呟き、男は再び僕に襲いかかってきた。
頭上に木刀をやり避けようとするが、衝撃が襲ったのは腹だった。
肋骨が割れたかもしれない。
息が一瞬出来ず、膝から崩れそうになるところを、二打目が襲う。男の動きが速す
ぎて目では追いつかない。
僕はなすすべもなく、後ろから肩を叩かれる。激痛が走り、その場にへたり込んだ。
だめだ。動かなきゃ。
男が僕を殺すと言ったのはハッタリじゃない。本気で殺す気だ。
でもなんで。なんで僕なんだ。
視えることのせいならその能力を呪う。視えることで得したことなど一度もない。
僕が欲しいと思った能力なんかじゃないのに。
「このぐらいで終わりにしてやろう」
朦朧とする意識の中、頭上から男の声が聞こえる。
動けない。
「刀なら一思いに死ねたものを」
だからーー。
「死ね」
死ぬ気はない!
男の木刀が僕の脳天に向かって振り下ろされる。
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