第十二章 森の王 5
「――ミス・ディグビー?! どうした、何が――」
フレデリックが慌てて振り返るなり、濃いブルーの眸を一杯に見張り、ついでまた火蜥蜴の背中へと顔を向けた
「おいサラ、落ち着け! ちょっと背後を見てみろ! 君の伴侶が水蛇に喰われかかっているぞ!?」
「何じゃ風の、騒々しい。案ずるな、ここいらの水蛇は――」
大型化した火蜥蜴は背後へ首を向けるなり、カッと開いた口からメロンほどもある焔の塊を吐いた。
「よせ危ない、彼女に当たるだろう! ――空気精霊!」
フレデリックが小型の空気精霊を呼び出して正面から焔とぶつける。
焔の塊が中空で弾け、キラキラと火の粉を散らしながら地面に落ちていった。
火蜥蜴は今や完全にエレンのほうに向きなおっていた。
いつもより大きなエメラルド色の眸に金の光が映っている。
「――お若いの、どういうつもりじゃ? 今すぐエレンを放せ」
「翼もつ焔よ、あなたが森の王を焼かぬと誓うならば」
サフィールの最も大きな首がエレンの頭の上で応えた。
シューシューと掠れた声とともに、たっぷりと水気を含んだ冷気がつむじの上を流れていく。首の左右からも四本ずつ、大小の鎌首が突き出して蠢いている。
そのすべてが冷たい湿気を吐き出している。
火蜥蜴の熱く乾いた吐息と水蛇の湿った冷気とが交じり合って霧を生もうとしていた。
両者のあいだでフレデリックが呆然と立ち尽くしている。
エレンは恐怖を感じた。
そのとき、首筋の右側に親指のさきほどのざらついた何かが擦りつけられるのを感じた。
〈怖イヨ〉
〈怖イヨ〉
〈焔ガクルヨ〉
〈ジゼル〉
〈ジゼルドコ〉
シューシューと掠れた囁き声の主はサフィールの最も小さな首だった。
――ルテチア語だわ。
エレンはそのとき唐突に気づいた。
このサフィールの理性ある頭は、さっきからアルビオン語を話している。
そうと気づいた途端に、傷ましさとないまぜになった歓喜が湧き上がってきた。
「――サラ!」
気が付くとエレンは叫んでいた。「お願い! 彼女の言葉を聞いて! 彼女はこの土地の言葉を話そうとしている! この土地の土地精霊となろうとしているの……!」
「焔の魔女よ、黙っていろ!」
〈ジゼル!〉
〈ジゼル! コワイヨ!〉
最も大きな首の叫びに重ねて、サフィールの小さな首たちが一斉にルテチア語で叫んだ。
理性の制御できない部分で、この若い――おそらくは若いのだろう――水蛇は心底から火蜥蜴を怖がっているのだ。
エレンは目頭が熱くなるのを感じた。
「サラ。お願い」
どうにか言葉を絞り出すなり、右目から涙が溢れた。
溶けた蝋のように熱い雫が頬から顎を伝ってサフィールの冷たい胴部へと落ちる。
「サフィール、ごめんなさいね。わたくしは熱いでしょう――」
小声でそう囁いたとき、淡い霧の向こうから火蜥蜴が諦めたような声で云った。
「お若いの。エレンを放せ。そなたがこの土地に根付くというなら、そなたの老いた前任者は焼かぬと誓ってやる」
「活ける焔よ、かたじけない」
サフィールが応じるなり、するするするっと胴体をくねらせてエレンの上半身から離れると、最後の一巻きだけ残って、マフラーみたいにゆったりとエレンの首に巻き付いた。
「――風の使役者よ! そなたこの土地の所有者と言うたな?」と、急速に小さくなったサラがエレンのほうへと羽ばたきながら呼ばわった。「その若い水蛇はそなたの所有地に棲まいたいそうじゃ! そのことに異論はないか!?」
「むろん無い! ――言葉持つ水よ、覚えておいてくれ! 私はエルフィンストーンのフレデリックだ! あなたが人に仇為さぬ限り、私はあなたの存在を尊重しよう!」
「分かった! 私はサフィールと名付けられている! わが死すべき伴侶とわれらの眷属に仇為さぬ限り、私もあなたの存在を尊重する!」
水蛇がそう答えた途端、いつの間にかすっかりと暗んでいた空にカッと一筋の白い閃光が走ったかと思うと、天から振り下ろされる白刃のように巨樹の梢へと落ちた。
雷光だ。
老いたる者を蘇らせる天の槌だ。
前任者がサフィールを新たな土地精霊と認めたらしい。
「――危ない! さがれミス・ディグビー!」
フレデリックが叫び、大股でエレンの駆け寄りなり、首に巻き付いたサフィールごと横抱きに抱き上げる。今までずっと右横に控えていた忠実な猟犬のオーリーが興奮してウォンウォンと鳴く。
次の瞬間、大音響の轟が鳴り響いたかと思うと、巨樹の太い樹幹が梢から根元へと、一刀両断にされたかのように割れ、メリメリメリっと音を立てて二つに裂け始めた。
「下がっておれ死すべき者らよ! 言葉持つ水よ、儂の伴侶を頼むぞ!」
サラが再び大きさを増し、赤く透き通る皮翼を一杯に広げてエレンたちを背後に庇った。
押し寄せてくる凄まじい熱気がサフィールの発する冷気で和らげられる。
エレンは全身から魔力が奪われてゆくのを感じた。
「サフィール、彼女を先に森の外へ」と、フレデリックが慌てた声で頼む。
「いいえサー」と、エレンは必死で拒んだ。「サラを待ちます。わたくしの無窮の伴侶を」
やがてドウっと音を立て、地を震わせて巨樹が左右に倒れた。
サラがたちまち小さくなりながらエレンたちのほうへと飛翔してくる。
「無事かエレン! すまんの、無理をさせた。どこぞ怪我はないかの?」
そう訊ねてくる声はうろたえ切っていた。
エレンは笑って答えた。
「大丈夫よサラ。ありがとう。おかげで助かったわ」
いつものように右掌を広げながら礼を述べると、火蜥蜴はポッと小さな焔を吐き、
「なんの。いつでも呼べ」
と、いつものように言い残すと、エレンの掌越しにどこかへと消えていった。
数秒おいてエレンの意識も途切れた。
エレンが最後に感じたのは、頬へと落ちる大粒の雨の感触だった。




