第十二章 森の王 4
「サラーー」
エレンは掠れる声で呼んだ。「お願い、正気に戻って」
「彼は正気だよ。十分以上にね」と、フレデリックが呟き、額に掌を翳しながらため息をついた。
「予想外ではあったが、この結末はそう悪くないかもしれない。あなたの火蜥蜴はあの厄介な〈森の王〉を完全に焼き尽くすだろう。――どうもあの土地精霊は、マスグレーヴ一族がこの森を所有する限りは人に仇為さないと契約を結んでいたようなんだ。どうにかしてその契約を私が引き継げないかと思っていたのだが――完全に燃やし尽くせるなら、それはそれで悪くない」
「それはそうかもしれませんけれど――」
エレンは何となく釈然としない気分で呟いた。
あの〈森の王〉は今や確かに人を害するもので、もしかしたら次第に活動領域を広げている――のかもしれない。
もしそうだったら、今以上の被害者が出る前に焼き尽くすのは、人間にとっては間違いなくそう悪くない方法だ。
火蜥蜴の姿は今や牛ほどにも大きくなっていた。
エレンの体は自分の意思ではもう殆ど動かなかった。
「――ミス・ディグビー、そのまま動かないでいなさい。オーリー、彼女の傍に」
フレデリックがエレンの体をそっと離すと、ビーグル犬を傍に押しやってから、〈森の王〉の領域すれすれへと足を進めた。
「――サー、何をなさいますの?」エレンは慌てて呼んだ。
「念のために風の防御を。北側の森が類焼したら村に被害が出る」
魔術師組合長は落ち着いた口調で答え、自分よりはるかに大きな何かを抱きとめるように腕を広げて呼ばわった。
「空気精霊! 南風を生じさせよ!」
声と同時に大小無数の鐘が振り鳴らされるような音が響き、空気全体が鳴動するような声が戻ってきた。
――承った主人……
空間がぐっと大きく歪み、フレデリックの金茶の髪がまさしく鬣のように逆立った。
同時にその腕のあいだから激しい風が起こって、火蜥蜴の輝きに照らされて赤く染まった巨樹の葉が、まるで千切れた紙片のように暗い空へと舞い上がっていった。
「ああ――」
エレンは思わず声を漏らした。
サー・フレデリックは風の性の魔術師だ。
土の息吹の濃厚すぎるこの森のなかでは魔力を表出させるだけでも相当の負荷を感じているだろうに――それでもこれだけの風を生じさせるとは!
この風とサラの焔の相乗効果では、〈森の王〉は確実に燃やし尽くされるだろう。
そう思ったとき、エレンはふいにジゼルの言葉を思い出した。
――ねえエレン・ディグビー。あなたの火蜥蜴はタメシス全域を燃やせる?
ええジゼル、勿論燃やせるわ――と、エレンは自嘲するように思った。
エレンは今まで心のどこかで、自分が間違った道を選んだときにはサラが止めてくれると思っていた。
だが、今こうして意のままにエレンの魔力を消費する幻獣の姿を見ていると、それは自分の勘違いだったと分かった。
――わたくしが頼めばサラはいつでもタメシス全域を燃やすでしょう。わたくしの体のことだけは気遣いながら、伝言を運ぶのと同じほど平然と、わたくし以外のすべての人を消し炭にするのでしょう……
そう思うと、不意に自分の持っている力が怖ろしくなった。
キューン、と右側でビーグル犬が鳴いた。
フレデリックの背の向こうで風と焔が猛っている。
サラが焔の塊を吐いたら森の王は焼き尽くされる。
それはまさしくエレン自身が命じたことなのだ。
ここまで猛ってしまった火蜥蜴の焔を相殺できるのは――おそらくは水蛇だけだ。
「――サフィール。あなたがいてくれたら」
震える両手でブリキの水筒を握りしめながらエレンが呟いたときだった。
「活ける焔の伴侶よ、私は此処にいるぞ?」
開いたままだった水筒の口からシューシューと細い声が聞こえたかと思うと、馥郁たる薔薇のような芳香と水の飛沫をまき散らしながら、鮮やかに青い九頭の水蛇が文字通り噴き出してきた。
「サフィール、あなたどうして?!」
「ジゼルに頼まれたのだ。そなたが呼んだら力を貸せと。焔の魔女よ、私は何をすればいい?」
サフィールがエレンの首にシュルッと巻き付きながら訊ねてくる。
その胴体は冷たいが、意外にも乾いていた。
右隣でオーリーがウウウ、と唸る。
エレンは右手で犬の頭を撫で、
「待っていなさい」
と、命じてから、改めて水蛇に頼んだ。
「サラを止めて。そして〈森の王〉を護って」
「引き受けよう焔の魔女よ」
水蛇はシューシューと息を漏らしながら応えるなり、何を思ったかいきなり大きさを増して、エレンの胴から首にかけて幾重にも巻き付きながら叫んだ。
「――こちらを見ろ活ける焔よ! 見ねばそなたの死すべき伴侶を食らいつくすぞ!」




