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第十二章 森の王 3

 声はエレンのよく知る響きのよいバリトンだった。


 間髪入れず、頭上からパッと濃い樹液の匂いが立って、乱れた前髪が激しいつむじ風に逆立つのが分かった。


 凄まじい速さの風の渦が、鋭利な刃物のように木の根を斬りつけたのだ。


 エレンの胴体を右腕ごとギリギリと締め付けていた根の力がわずかに緩む。

 エレンは渾身の力を籠めて右腕を引き抜くと、掌を広げ、頭上からのしかかってくる激しい圧迫感を堪えて口を開いた。


 パラパラと落ちてくる湿った土の破片が目にも口にも入る。



「――サラ、出てきて頂戴。この木に焔を吐いて……」



 震える声でどうにか呼ばわった途端、指先の戦慄く掌の上から淡い金色の光の柱が立ち昇って、赤く小さく輝かしい火蜥蜴が現れた。


 エレンは安堵した。

 


 ――これでもう大丈夫。何もかもうまくいくわ……



 ぼんやりとそんなことを思ったとき、火蜥蜴がエメラルド色の眸をキロキロっと動かしながら訊ねた。


「――エレン、わが死すべき伴侶よ。こやつは一体なんじゃ?」


 火蜥蜴が口から鮮やかな焔の塊を吐きながら訊ねるなり、エレンを拘束していた木の根が一気に離れ、シュルシュルシュルっと音を立てて地中へと戻っていった。


 ずっと中空に吊り上げられていたエレンの体が背中から地面にたたきつけられる。

 したたかに頭を打ち付けたエレンは声にならない苦悶の呻きをあげた。



「――ミス・ディグビー! 来い、早くこちらへ!」

 背後からさっきの男声が叫ぶ。

 エレンが最も尊敬する先達たるタメシス魔術師組合長の声だ。


「……サー・フレデリック、あなたがどうして――」

 エレンがどうにか起き上がりながらかすれ声で呟いたとき、


「下がっておれ男よ! エレン、そなたもな!」



 火蜥蜴が鋭く叫ぶなり、林檎ほどもある焔の塊を巨樹へと噴きかけた。

 途端に地中から無数の木の根が飛び出し、湿り気を帯びた土塊をまき散らしながら次々と焔を叩き落した。

「む、なかなかやるのう」

 火蜥蜴が面白そうに呟くなり、不意に輪郭を震わせたかと思うと、いつもの掌サイズから、いきなりレトリーバーほどにも大きくなった。


 エレンは凄まじい速度で自らの魔力が奪われていくのを感じた。


「――やめてサラ! お願い、そんなに大きくなられたらわたくしの魔力じゃ足りない……!」


「さがっておれエレン! 我らは対等な契約を結んでおるのじゃろう? 儂は儂の必要なだけそなたの魔力を求める! こやつは儂の死すべき伴侶を戒めた! この活ける焔の伴侶をな! それは分別あるやり方とはいえん!」


 サラが皮翼を広げて舞い上がりながら応える。

 その間にも少しずつ大きさを増しているようだった。


「――ミス・ディグビー、来い! その領域の外に出るんだ!」

 背後からサー・フレデリックが叫ぶ。

「人ならざるものに人間の理屈は通用しない!」


 エレンは信じがたい思いを抱えながらも立ち上がり、木の根に幾度も足を取られながら樹冠の陰の外へと出た。

 森の王の領域を抜けると、今しがたまで感じていた凄まじい圧迫感が消えた。


 落差のために目眩がする。

 ふらっと倒れ掛かったところを、継の当たった白いリネンのシャツに包まれた逞しい腕が抱きとめてくれた。


「大丈夫かミス・ディグビー? どこか怪我はあるか?」

 心配そうにこちらを覗き込んでくるのは、鬣のような金茶の髪に縁取られた古典的な美貌の男の顔だった。

 窪みのある顎と濃いブルーの眸。

 タメシス近郊二五七名の職業魔術師を束ねる魔術師組合の長、サー・フレデリック・エルフィンストーンだ。

 何やら微妙にサイズの合わないツィードのズボンとチョッキ姿で、傍にビーグル犬のオーリーを連れ、背には背嚢を追っている。

 手に猟銃を持っていたら、季節外れの兎狩りに勤しむ地方紳士そのものの姿である。



「サー」

 エレンは呆然と呼んだ。「なぜあなたがここに?」

「端的に言って、この森の今の持ち主が私だからだろうな」

 フレデリックは無造作に応えると、背に負った背嚢から小さなブリキの水筒を取り出し、栓を開けて手渡してきた。

「飲んだほうがいい。酷い顔色だ」

 促されるまま口をつけると、中身は冷たい水だった。

 思った以上に喉が渇いていた。

 ごくごくと音を立てて半分ほども飲み干してしまってから、ハッと思い出して巨樹へと視線を戻る。


 

 そこに大きな火蜥蜴がいた。


 輪郭をゆらゆらと揺るがせながら、少しずつ、少しずつ大きさを増している。


 その姿はまさしく活ける焔だった。

 そちらから熱い微風が吹き付け、眼球が熱に乾いた。


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