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第十二章 森の王 2

〈来い娘。昔話をしてやろう〉

 上王が梢を仰ぎながら言った。


 エレンは恐る恐る木漏れ日の中へと足を踏み入れた。

 途端に全身を押しつぶすように強烈な土の息吹(プネウマ)を感じる。


 樹冠の下は明らかに〈森の王〉の領域(テーメノス)であるようだった。

 根元に立つ上王の姿が薄緑の薄緑の光に包まれている。

 頭の上で木の葉のそよぐ音がするのに、上王の背に垂れる重たげに豊かな髪は一筋たりとてたなびいていなかった。



 やがて上王が口を開いた。

 言葉とともにサワサワと頭上の葉叢が鳴る。


〈人の子どもは昔これを崇めていた。レックス・シルヴァヌスと名づけ、祝祭のたびにこれの周りに集っては歌い、踊った――〉

 葉叢のざわめきが大きくなった。

 森総てが揃ってすすり泣いているようだ。


 エレンは目を瞠った。


 梢を仰ぐ上王の周りに、淡い琥珀色の光の靄のようなものがぼんやりと浮かんできたのだ。




 魔力を注いだ空気精霊(エアリアル)を思わせる人型の光の靄は、よく見れば古風なチュニカをまとい花冠を被った少女のようだった。


 幻の少女が踊りだすと、もうひとつ、背の高い青年のような人型が浮かび上がって少女の手をとった。


 それを皮切りに、次々と人の幻が浮かび上がった。


 幻はエレンの体を通り抜け、巨樹の周りで踊っているようだった。


 上王が目を細める。

〈我々もよく踊りに加わったものだ。大抵の人の子に我らは見えなかったが、いつも杯は余分に支度されておった。愉快な世だったよ!〉

 上王は声を立てて笑ってから、ハッと太いため息をついた。

〈しかし、南から来た司教か教会を建てると、人の子はこれを崇めなくなった。これがあまりに寂しがるから、友である一角獣(ユニコルヌス)はこれとともに人の世に残ることを選んだ〉



 気が付くと幻が消えていた。


 陽が陰り、薄暮が訪れようとしている。

 薄暗い木陰で、上王の輪郭だけがおぼろに白い光を放っている。


 初夏だというのに肌寒かった。

 エレンは腕の中のビーグル犬をきつく抱きしめながら訊ねた。


〈――その頃にはもう、あなたがたの世界と我々の世界は分かたれていたのですね?〉

〈然様。人の子はその一角獣を狩った。地峡(イストモス)の南を統べていた皇帝が角を欲したのだそうだ。森の王は怒り、その眷属も怒った〉

〈――怒りを鎮めたのは、教会の鐘の音だったのでは?〉

〈鐘は怒りを鎮めはしなかった。ただ隔てただけだ。森に踏み込めなくなった人の子は困り、かつて森の王の祭司を務めていた一族の若者を森へと送り込んだ。マスグレーヴのオーランドだ〉

 上王がその名を呼ぶと、肩にとまったカササギが鳥らしい鳴き声を立てた。

 エレンはぞっとした。


〈つまり、その鳥はもともと人だったと?〉

〈いかにも〉と、上王が頷く。〈これがオーランドだ。――人の姿であったとき、オーランドは私を訪ねて森の王の怒りを鎮める方法を問いにきたのだ。私が森の王に問うと、これは答えた。その若者の命を捧げよと〉

〈――では、マスグレーヴのオーランドは、かつての聖樹の怒りを鎮めるための生贄となったのですね?〉

〈然様〉

 上王が頷き、白い指で小鳥の頭を撫でた。

〈これの魂はどういうわけか地上に留まっている。常にカササギの肉体を借りてな。私はそろそろこれを解き放ってやりたいのだ。しかし、その術が分からぬ〉

 上王が傷ましげに囁いて小鳥の喉を撫でた。

 小鳥が小さなくちばしを開いて、苺、苺と囁いた。


 本当にそれしか話せないらしい。


 エレンはあまりの傷ましさに胸が苦しくなった。



――オーランドは〈カササギのオーリー〉だわ。オーリーには妻のリリーがいた。



〈そなたはこれの伴侶の名を知っているか?〉


 まるでエレンの心を読んだように上王が訪ねた。


 エレンは頷いた。



〈ええ。彼女はリリーでしょう〉



 その瞬間――


 上王の肩からカササギが飛び立ち、


 リリー!

 リリー!

 リリー!


 と、叫びながら空へと昇っていった。



〈ああ――〉


 上王がそのさまを仰いで、強靭な白い腕を掲げて叫んだ。


〈行けオーランド! わが死すべき友よ! 我ら無窮に在りつづけるものには決して行きへぬどこかへ、そなたは還るといい!〉



 上王の声は朗々たる鐘の音と似ていた。

 その叫びが終わるのと同時に上王の姿が消えた。


 まるでそんなものは全くなかったかのように。


 エレンは瞬きをした。



 ――どういうこと? 上王は何故いま消えてしまったの?


 考えかけてハッと気づく。


 カササギのオーランドだ。

 おそらくは〈彼〉の魂が媒体となって、今はもう分かたれているはずの上位精霊(エルフ)たちの異世界とこの世とが重なり合っていたのだ。


 そのオーランドが今解き放たれた――おそらくは妻のリリーの名を思い出したことによって。

 そのために上王も消えてしまったのだろう。



「――これにて一件落着、ということでいいのかしら?」

 エレンは何となく釈然としない気分で呟いた。


 腕のなかのオーリーがキューンと鳴く。

 小柄ながらも固太りのしっかりしたビーグル犬をずっと抱えているために、もうだいぶ腕が草臥れていた。

「ちょっとだけよ? 私から離れちゃ駄目だからね?」

 言い聞かせながら犬を地面に下ろしたときだった。



 左右の地面から太い木の根が踊りだしたかと思うと、小柄な犬を弾き飛ばし、両側からエレンの体に襲い掛かって一瞬で巻き付いてきた。


「……――レックス・シルヴァヌス!」

 ぎりぎりと胴体に巻き付く木の根に手をかけ、どうにか引きはがそうとしながらエレンは叫んだ。

「離しなさい! わたくしはダーム・ドゥ・フォンテーヌの知遇を得ているのですよ!」

 破れかぶれに叫んでも木の根の締め付けは勿論緩まなかった。

 そのままじりじりと上に吊り上げられてゆく。

 背後で犬の吠え声が聞こえた。



 オーリーだ。

 果敢なビーグル犬が身を低めて巨樹へと吼えかかっている。


 エレンは犬という生物の忠誠心に熱い感動を覚えた。


「オーリー! お前は逃げなさい!」


 命じながらどうにか木の根から腕を引き抜こうとする。


 右腕だ。

 右腕を引き抜いて掌を広げさえすれば契約魔を呼べる。


「――堕ちたる聖樹よ、活ける焔の伴侶たるこのわたくしを拘束したこと、必ず後悔させてやりますからね……?」

 心臓を外から握りつぶされるような苦しさを堪えて、エレンは怒りを籠めて梢を仰いだ。

 幾本もの枝が複雑に絡み合い、深淵へと続く孔のように葉叢がざわめいている。


 濃厚すぎる土の息吹(プネウマ)に脳髄がしびれるようだ。


 右腕は全く引き抜けない。



 ――こうなったらわたくしの全身から熱の形の魔力(グラマー)を一気に発散させてやる。



 目を閉じて呼吸を整え、全身に魔力をまとわせ始めたときだった。


 不意にまた背後から犬の吠え声が聞こえたかと思うと、澄んだ鐘音がいくつも重なって響くような音とともに、頭上を鋭い風の渦がよぎるのが分かった。



 ――え?



 同時に声が響く。


「……――無事かミス・ディグビー!?」

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