第十二章 森の王 1
エレンが流れを渡り切るとすぐ、カササギのオーランドは上王の右の肩にとまった。
此岸は明るかった。
左右に太いオークの幹が立ち並んで、足元は硬く、下生えの草はない。
背後から赤らんだ夕の陽が射し、前方からは無色の澄んだ光が射している――前を行く上王の輪郭を朧に包む光だ。
エレン自身は気づいていなかったが、ビーグル犬を抱えた乗馬服姿のエレンも、同じように自らの魔力であるシャンパンゴールドの微光に包まれていた。
もし遠くから彼女らを見るものがあったら、白と淡金の二色の光の塊が、大聖堂の身廊めいた樹幹のあいだを並んで動いているように見えただろう。
――ここは現世なのかしら? それとも上位精霊たちの住む異世界なのかしら……?
歩きながらエレンは不安を感じた。
腕に抱いた軟らかく重い犬の体のなかで、小さな心臓がトクトクと脈打っていた。
心細さを紛らわせるために犬を抱く腕に力を込めたとき、前を行く上王が一対の樹幹のあいだで足を止め、熔けた黄金のような髪を靡かせて振り返った。
〈見ろ娘。お前たちのレックス・シルヴァヌスだ〉
レックス・シルヴァヌス。
――森の王。
上王の鋭い灰色の眸に促されるまま左横に並ぶと、目の前に巨大なオークの古木が枝を拡げていた。
うねうねと隆起する太い根が地面一杯に盛り上がり、巨大な獣の筋肉のように絡み合いながら太い樹幹を形成している。樹皮を覆う鮮やかな苔がまるで毛皮のようだ。その上に巨大な円蓋を思わせる樹冠が被さっている。
その場には息が詰まるほど濃密な土の息吹が漲っていた。
目の前の巨樹から発される息吹だ。
腕の中でビーグル犬がキューンと鳴いた。
エレンはそのちっぽけな頭を撫でてやりながら訊ねた。
〈国王よ、この木が森の王なのですか?〉
〈然様。――案ずるな。ここはまだそなたら死すべき人の子どもの域よ。夏至の祭が近い故な、今ひとときだけわれらの世と重なり合っているだけだ〉
上王が話しながら樹冠から零れる木漏れ日のなかへと足を踏み入れた。
途端に背から発される光がほのかな薄緑を帯びた。
エレンもそのあとに続こうとしたが、足を踏み出すなり、右手の太い根の陰から、黒い細い蛇のような何かがヒュッと飛び出して足首に巻き付こうとした。
ビーグル犬がウォン! と吼える。
エレンが慌てて後ろへ飛びすさるのとほぼ同時に、上王が梢を見あげて、エレンには分からない言葉で何か鋭く叫んだ。
途端に樹木全体がざわめき、葉群の陰から無数の鳥が羽ばたきだした。
頭上を一斉に羽音が過ぎ、エレンの足元まで伸びてきていた黒い蛇のような根が、まさしく蛇のような動きでシュルシュルシュルっと太い根の陰へと戻っていった。
上王が額に乱れた髪を払いのけながら苦笑する。
〈すまんな。これは人の子全般に敵意を持っているのだ〉
〈――では、この頃森に踏み入った四人の人間も、この森の王に襲われたのですか?〉
エレンが慎重に訊ねると、上王は頷いた。
〈これというより、これの眷属たちに襲われたのだ。あの流れの向こうで、木の根に首を絞められているところをこのオーランドが見つけての。これは人の世とわれら無窮のものの世を自在に越えることができる故、私に報せに来た。苺、苺、苺としか報せぬゆえ、なにを申しておるのか全く分からなかったがな!〉
上王が愉快そうに笑って、右肩にとまったカササギの頭を指先でつついた。
エレンは少し考えてから訊ねた。
〈そうしますと、あなたが彼らを助けてくださったのですか?〉
〈無論〉と、上王は頷いた。〈オーランドに頼まれた故な〉
〈名忘れ草をお植えになったのもあなたですか?〉
訊ねながらエレンは妙な気分になってきた。
目の前に極めて、きわめて神話的な上位精霊の上王がいるというのに、会話がまるで警視庁の参考人聞き取りだ。
――詩と散文がしっちゃかめっちゃかに交じり合っている感じだわ……
エレンの内心のぼやきに構わず、上王は生真面目な顔で首を横に振った。
〈いや。それは私ではない。私はただこの森の王を訪ね、眷属たちに命じて人の子を放させるようにと説いて、オーランドに人の子を先ほどの流れの縁まで導かせただけだ。此岸と彼岸の交わるこの時期とはいえ、無窮なる身があの流れを超えることはできん〉
〈では、四人はそこからはどのように森の外へ?〉
〈おそらくはあの流れを近頃遊泳している水蛇が助けたのであろう〉
〈水蛇?〉
エレンはぎょっとした。〈サフィールですか?〉
〈名は知らん。美しい青い蛇だ。人の子を伴侶にしているらしく、呼ばれているときは自在に人の世を泳げるようだ〉
間違いないとエレンは確信した。
その水蛇はジゼルのサフィールだ。
三名――いや、四名のファンテンベリーの村人の行方不明事件は、どうやら互いにちっとも連動しない別々の人物〈?〉がそれぞれ勝手に動くことで図らずも生じてしまった事件であるらしい。
――ええと、情報を整理しましょう。
まず、マッケンジー老人を除く四名は、こっそり苺を摘むために南の森へと踏み入った。
そこで、名忘れ草の群生に出くわし、〈森の王〉に襲われたところを、カササギのオーランドに発見され、上位精霊の上王に助けられて、小川のほとりまで導かれた。
そこで、おそらくはジゼルのサフィールと思われる人間に好意的な水蛇に助けられて、それぞれの家に近い水の上へと送り届けられた。
ざっとこんなところだろう。
すると、残された謎は二つだ。
一つ目は、〈森の王〉はなぜ急に人に害をなすようになったのか?
二つ目は――名忘れ草を植えたのは誰かということだ。
――まさかジゼルじゃないわよね……?
名忘れ草の栽培は厳密な許可制だ。
無断で他人の私有地に植えるなど、魔術師を取り締まる月室庁裁判所に知れたらかなりの厳罰を科されるはずだ。
――まさかね。もしそうなら彼女は打ち明けてくれていたはず……
急に襲ってきた不安に駆られていると、
〈どうした娘? 四人目の男が気がかりか?〉
上王がなぜか眉を吊り上げて訊ねてきた。
明らかに怒っている。
エレンは慌てて否んだ。
〈いいえ国王。あなたがお助け下さったのですから何の心配もありません〉
〈そうか。そうであろう〉
上王は満足そうに頷いた。
上位精霊や幻獣たちに老成や諦観を期待するな――というのは、修業時代に師匠から繰り返し教わったことだ。かれらの心はつねに躍動している。要するに「結構怒りやすいから扱いに気をつけろ」ということだ。




