第十一章 ダーム・ドゥ・フォンテーヌ 3
青々とした夏草のあいだに、時折白い星のような四弁の花が見えた。
濃い緑のハート形の葉と蒼褪めた黄色い太い蕊。
白い花弁がごく淡いブルーグレイの微光を放っている。
名忘れ草だ。
ヒュノプシス。
あるいはサン・スーシー。
上古、上位精霊や竜の住まう域と人の子の領域とを隔てるために好んで植えられた魔術性の花だ。
花の匂いはほろ苦く甘く、独特の青臭さを含んでいた。
魔力の被膜で自らを護っていても頭がクラクラしてくる。
――この花を植えたのは、そういえばどちらだったのかしら?
死すべき人の子だったのか、それとも上位精霊たちだったのか。
隔てられることを望んだのはどちらだったのだろう?
考えながら歩いていると、不意に左右の木々が途切れ、目の前に音を立てて流れる清流が現れた。
こちら側の岸に一面の星のように名忘れ草が群れ咲いている。
橋はないが、流れのなかに点々と黒っぽい岩が顔を出していた。
対岸に花は咲いていないようだ。
黒く太いオークの幹が大聖堂の柱のようにまっすぐに立ち並んでいる。
名忘れ草の群生を出来るだけ踏まないように気をつけながら足を進めると、流れの際に一対の朽ちかけた小さな方尖塔があった。
膝をかがめ、気をつけてそっとビーグル犬を降ろし、左手で背中に触れたまま、右手で方尖塔の腹の苔を掃う。
文字列は殆ど摩耗しきっていたが、それでも辛うじていくつかのルーン文字は読めた。
ルーン文字ではあるものの、表記はごく普通の古典レーム語だ。
初めがRの三文字で、次の単語はSで始まっている。後ろ半分が崩れ切っているためにこちらの字数は分からない。
エレンはしばらく考えてから思いついた。
「レックス・シルヴァヌス。――森の王、ね」
そのときだった。
〈然様。あの忌々しい教会が建てられる以前、あれは死すべき人の子どもからそう呼ばれておった〉
不意に前のほうから深みのある声が響いた。
遥かに遠いどこかから聞こえる鐘の音のような声だ。
言葉は古典レーム語――今の西方世界では話し言葉としては死語だが、ある程度の古典教育を受けた人間なら聞き取れないこともない。
間違いなく人間の言葉ではある。
だが、その深すぎる響きは明らかに人外の何かだ。
ビーグル犬がキューンと鳴いて身を摺り寄せてくる。
エレンが恐る恐る顔をあげると、目の前の清流のただなかに背の高い人のような何かが立っていた。
純金を融かして液体にしたような輝かしい髪を垂らし、銀灰色の柔らかそうなローヴをまとっている。
額を飾るのは名忘れ草を編んだ花冠だ。
大理石の彫刻を思わせる貌に、澄んだ灰色の一対の眸が埋め込まれている。
〈それ〉は流れる水のただなかに静かに立っていた。
まるでこの世の初めからずっと立っていたかのように。
「……――ダーム・ドゥ・フォンテーヌ……?」
エレンは呆然と呼んだ。
無意識のうちにビーグル犬を膝に抱きよせていた。
目の前の何かはそのさまを見て声を立てて笑った。
〈然様。私はよくそう呼ばれておった。愕いたな娘よ。そなたは人の子なのだな? 何処とも知れぬ異界から今度は若い同族が紛れ込んだかと思ったぞ! 来い娘。そのちっぽけな獣もな。人の子ならばそなたに話したいことがある〉
目の前の何かは――おそらくは上古のファウンテンウッド大森林を統べたという上位精霊最後の上王は、一息にそれだけ言うと、不意に白く強靭そうな腕を伸ばし、
〈オーランド!〉
と呼ばわった。
途端、エレンの頭上を小さな鳥影がよぎったかと思うと、上王の白い手の甲に、腹が白く背が黒い小さな鳥が止まった。
カササギだ。
〈あの娘を連れてこい。そなたの待ち人だろう〉
上王が小鳥に顔を寄せて囁くと、カササギはすぐ飛び立ち、今度はエレンの肩に舞い降りて囁きはじめた。
――オイデ。オイデ。苺ガアルヨ。オイデ、苺ガアルヨ……
〈すまんな。此岸に苺はない。その鳥はそれしか話せんのだ。哀れなことにな〉
上王が微苦笑しながら言い、不意に眉をしかめて居丈高に命じた。
〈何をしている娘、早う来い! 案ずるな、あの活ける水の力を借りれば戻るのはたやすい〉
〈は、はい女王。今すぐ〉
エレンはどうにか遠い昔の少女時代に叩き込まれた古典レーム語の語彙を引っ張り出して答えると、再びオーリーを抱き上げて流れを渡りにかかった。すぐ前をカササギのオーリーが謡いながら飛び回っている。
――オイデ、オイデ、苺ガアルよ……
エレンは混乱していた。
――一番の混乱ポイントは上王の性別だ。
――ええと、わたくしたちの伝承では、西方世界に残った最後の上位精霊の上王は「ダーム・ドゥ・フォンテーヌ」――アルビオン語なら「レディ・オヴ・ファウンテンウッド」と呼ばれている……のよね? 貴婦人なのだから「女王」でいいはず……なのだけれど――……
――貴婦人? このかた本当に女性……?
渓流のなかの飛び石じみた岩を素足でひょいひょい踏みながら対岸へ渡ってゆく上王――おそらくきっと上王――は、エレンよりはるかに背が高かった。むき出しの白い腕は強靭そうで、声は低くて深みがある。
--正直なところ、どちらかといえば男性寄りのような気がする。
〈どうした娘。何を悩みこんでいる? 流れを越えるのはやはり怖ろしいか?〉
前を行く上王がまるで感情を読んだように――あるいは本当に読んでいるのかもしれない――訊ねてくる。
エレンは一瞬躊躇ってから答えた。
〈いいえ国王。怖ろしくはありません〉
〈そうか〉
今度は男性形で応えてみても上王は特に反応を示さなかった。
エレンはそれ以上の詮索を諦めることにした。
何と言ってもこの何かは上位精霊の上王なのだ。
きっといろいろ人知を超えた存在なのだろう。
そこまで考えたところでふと不安になる。
--そういえばサラって本当に男性形でいいのかしら……?
その点はあとで確かめてみようとエレンは心を決めた。
いつの間にか上王が対岸に降り立っている。
その背は間違いなく白く澄み切った光を発していた。




