第十一章 ダーム・ドゥ・フォンテーヌ 2
思いがけないことに、そちらの方角にはごく微かな道の名残のようなものがあった。
左右に妙に規則的に白樺が生えているのだ。
白樺は陽樹である。
おそらく、かつてはこの場所に道が通って、頭上から豊かな陽が射していたのだろう。
今も辛うじて道らしき幅をとどめた地面が、後から侵食してきたらしい細い木の根でごつごつと盛り上がり、頭上に梁を思わせる枝が組み合わさっている。
そろそろ夕方に近い時刻らしく、背の後ろから射す陽光が黄味を増していた。
どこかでカササギが鳴いている。
エレンのすぐ前を、白に茶と黒の斑の犬がピンと尾を立てて歩いている。エレンは自分に言い聞かせた。
――大丈夫、大丈夫。わたくしは独りじゃないわ。
「オーリー、あまり先に行かないでね……」
不意に襲ってきた寂しさに耐えかねて声に出して呼んだときだった。
左手の地面が突然盛り上がったかと思うと、黒く細く鋭い鞭のような何かがヒュッと飛びだしてきた。
ウォン! と、ビーグル犬が一声吼え、飛びすさぶようにエレンの右側へ戻ると、前足を揃え、頭を低め、歯をむき出してぐるぐると唸った。
犬の視線の先にあるのは――地面に盛り上がる樫の根だった。
うねうねと隆起する木肌が大きな蛇のようだ。
今しがた飛び出してきた何かはもう見えない。
黒く長く素早い、蛇のような何かだ。
――地面から自在に顕現する蛇体というと――……大地蛇? まさかそんな。
エレンは自分自身の想像に慄いた。
大地蛇は人面で肩から無数の蛇の鎌首を生やした幻獣だ。
混じりけなしの土の性で、竜と同じほど気位が高く、人間と契約を結ぶことは滅多にない。アルビオンに大地蛇の顕現する土地があるなどエレンは聞いたことがなかった。
ウウウウ、と犬が低く唸ってさらに頭を低める。
エレンは慌てて自らの全身を魔力で覆いながら命じた。
「オーリー、伏せ!」
よく躾けられた猟犬が動きを止める。
次の瞬間、太い木の根のあいだからまた黒い何かが飛び出してきた。
エレンは気づいた。
蛇ではない。
樹の根だ。
地面の下に張り巡らされた樹の根が、まるで生き物のように動いているのだ!
黒い何かはまっすぐにエレンの首元へ伸びたが、淡い金色の微光の被膜にはじかれて跳ね返った。
キャン、とビーグル犬が怯えた声を上げる。
「……――オーリー、逃げなさい!」
エレンが慌てて命じるのとほぼ同時に、今度は真後ろの地面がメリメリメリっと隆起して、男の腕ほどもある太い木の根が、地の底から這い出す大蛇のようにうねりながら盛り上がって道を塞いでしまった。
「嘘」
エレンは呆然と呟いた。
キューン、と犬が怯えた声を出す。
くぼ地へと戻る道は完全に塞がれていた。
開けているのは前だけだ。
どこかでカササギが鳴いていた。
次第に近づいてくる。
「オーリー、おいでなさい……」
心細さにかられて呼びかけ、よってきたビーグル犬を抱きあげてやる。
小柄ながらも骨太でしっかりした体格の猟犬の体は腕にずしりと重かった。
小さい頭を胸に押し付け、炒りたてのナッツみたいな匂いのする暖かい毛皮の匂いを嗅いで心を落ち着けたとき、不意にどこかから微かな笑い声が聞こえた。
空気精霊が耳元の空気を震わせて起こすような、風の音ととも葉擦れともつかない微かな、微かな笑いだ。
――オイデ。オイデ。苺ガアルヨ……
笑いに混じってそんな言葉が聞こえた。
エレンは全身の膚がふつふつと泡立つのを感じた。
腕の中のビーグル犬が怯えたようにフンフンと鼻を鳴らしてくる。
「大丈夫よオーリー、大丈夫」
エレンは自分に言い聞かせるように告げると、自らを覆う魔力の被膜を犬にまで広げてやってから、ビーグル犬を抱えたまま、唯一開けた道の先へと足を進め始めた。
歩くうちに左右の白樺の数が増え、足元が柔らかな夏草に覆われていった。