第七章 怪しい若当主たち 2
旧マスグレーヴ邸は、ファサードのある西棟の両端からひと棟ずつ翼が伸びて、北と南と西の三方が、広い石畳の中庭をコの字型に囲む形だった。
「南翼が生徒たちの寄宿棟なの。わたくしたち家族が暮らしているのが北翼。姪のフィリッパは、普段は寄宿棟で寝起きしているけれど、週末だけこっちに戻ってくるのよ」
銀の燭台を手にして螺旋階段を上りながらバーバラが説明してくれる。
エレンの後ろに続くのはジゼルだ。
アンは、今夜は寄宿棟のほうで宿直をするのだという。
「エレン、あなたのお部屋は二階の端から二番目にしました」
「わたくしの部屋の右隣ね」と、ジゼル。
深い藍色の絨毯を敷いた真っすぐな廊下の右手には縦長の窓が、左手には黒く重々しい扉がずらりと並んでいる。
「ここがわたくしの部屋。隣がアンとフィリッパ」バーバラが説明しながら廊下を進んでゆく。
「あなたのお部屋はこちら。これが鍵よ」
ずっしりとした古風な金銅の鍵を手渡してくれる。
「ありがとうバーバラ。しばらくお世話になるわ」
「どうぞゆっくりなさって。他所から友達が来てくれるなんて本当に久しぶりだわ」
バーバラは本当に嬉しそうに言った。
「それじゃ、おやすみなさいエレン。朝食は西の棟の一階よ。ジゼルもまた明日」
「あ、ええ!」と、隣の部屋のドアの鍵を開けようとしていたジゼルが、声をかけられたことそのものに愕いたような顔をし、なぜかきゅっと眉根を寄せてから、思いがけず微かな笑みを浮かべて答えた。
「おやすみなさい二人とも」
何となく恥ずかしそうな笑いだった。
エレンは胸の奥にぽつりと小さく暖かな燈を灯されたような気がした。
――ねえジゼル・ヴァリエ。あなたがこの土地で幸せになれるといいのだけれど……
ちょうど同じころ――
ファンテンベリーからは150マイル離れた海峡沿いの港湾都市カーリーの町屋敷の豪奢な寝室で、一人の若い放蕩者が奇妙な夢を見ていた。
赤っぽい巻き毛を寝汗に湿らせ、愛嬌のある丸顔をときおり苦痛に歪めながら幾度も寝返りをうつ若紳士の名はクリス・マスグレーヴ。
彼は夢のなかで森を歩いていた。
大聖堂の柱を思わせる太くまっすぐなオークの樹幹が幾本も並ぶ、深く暗い森だ。
季節は晩秋のようで、葉を落とした黒い枝枝がはるか頭上で複雑に組み合わさって、細かく不規則な隙間から、冷ややかに澄んだ灰色の陽射しが零れている。
その陽の斑がチロチロと踊る朽ち葉の積もった地面を踏むのは、こげ茶色のサンダルのような靴に包まれた脚だ。脛には灰色っぽいゴワゴワしたゲートルを巻き、膝までの丈の目の粗いこげ茶色の毛織のチュニックを着ている。
――洒落者で名高い港町の若紳士とは思えない服装だ。
つまりこれは俺ではないのだ――と、夢のなかのクリスは他人事のように思っていた。
夢のなかの誰か――自分でないことだけは間違いない誰か――は、背には背嚢のようなものを背負い、長弓を握って、腰には黒っぽい革の鞘に収まる重たい剣まで吊るしていた。
鞘は粗末だが十字型の柄は黄金色で、柄頭に赤い宝石が嵌まっている。
俺は戦士なのかな――と、思って、クリスは愉快になった。
きっと子供の頃に乳母から聞いたおとぎ話の戦士だ。
これから森の奥へと分け入って何かを退治するのだろう。
――森を歩む誰かは間違いなく何かを捜しているのだ。
何を捜しているのか、夢の外にいるクリスの理性には分からないが――全身を張り詰めた弓弦のように緊張させ、ほんの小さな兆候も見逃すまいとするように、耳と目と鼻の感覚を研ぎ澄ませ続けている。
やがて永遠に続くかに思われた木々の連なりがようやくに果てて、森の中の小さなくぼ地へと出た。
真ん中に枝を落とした灌木が群がり、その陰から泉が湧きだしているようだ。
コンコンと涼しい水音が聞こえる。
探索者は不意に喉の渇きを覚えた。
つま先に感覚を集中させると、右手の土が湿り気を帯びて軟らかくなっているのが分かった。そちらへ足を向けると、思った通り、泉からあふれ出した清らかな水がサラサラと流れているのだった。
流れに灰色の陽光が射して小波が燦めいている。
「ああ――」
探索者は歓喜の呻きをあげると、その場に膝をつき、両手で冷たい水を掬って口元に運ぼうとした。
そのとき、不意に後ろからすっと影がさして、遥か彼方から聞こえる聖堂の鐘音を思わせる深みのある小声が囁いた。
「飲まぬほうがいいよ、死すべき人の子よ。そなたの属する世界に再び戻りたいのならね」
声は優しげで朗らかで、微かな笑いを含んでいた。
それなのに聞くだけで寒気がした。
狼の前に引き出された兎の恐怖、強大な存在を前にした卑小な生き物の恐怖――
探索者はその恐怖をぐっとこらえ、掌のなかの水を名残惜しくこぼしてから振り返った。
すると背後に背の高い黄金色の髪の何かが立っていた。
冬の陽光を布にしたような銀灰色のローヴをまとい、黄金をそのまま熔かしたような眩い長い金髪を長く解き流している。
その目は鮮やかな碧だった。
眸のなかに星空が透けて見えるようだ。
「――〈美しきかた〉よ……」
探索者は震える声で呼んだ。
「あなたがたの上王に合わせて欲しい。私の名はオーランド。マスグレーヴのオーランドだ――……」




