#13 少女A
#13 少女A
※いつもAstiMaitrieを読んでいただきありがとうございます。
今回の話には一部暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。
この世の高校生は二種類に分類される。いじめる側の人間か、いじめられる側の人間か。
直接いじめに加担しているわけではないが、いじめを見て見ぬふりをして我関せずとしている連中も、この場合いじめる側の人間としてカウントする。
そして、私はあきらかに後者の人間だ。小学生、中学生、高校生とずっといじめられてきた。
高校生なんてまだまだガキだ。ガキがいじめる理由なんて単純だ。自分より下の人間を作ることで、そいつを落として自分の価値を上げたいからだ。いじめられる奴は大抵、背が低い、細い、デブ、ブス、なんか弱そうな奴、だ。みんな自分の位置を確立するため、自分は弱い人間では無いと確認するため、自分より弱そうな奴をいじめるのだ。
私がいじめられるのは、気弱で、引っ込み思案で、背が小さくて、可愛く無いからだ。
背中を丸めて、周囲の視線を気にしながらオドオドと歩き、壇ノ浦学園の西門を潜った私は下駄箱に向かった。西門は駅から一番近い側に面しているため、私は大体この門から登校している。
源 玉子と書いてある下駄箱を、震える手で恐る恐る開く。今日は上履きがある。靴に何か入れられている様子もない。
よかった。
とりあえず今日1番の第一関門を超えて私は胸を撫で下ろした。
この前は虫が入れられていた。上履きを手に取った瞬間、カマキリが手によじ登ってきてた時は背筋がぞくりとした。いまでもあの気色の悪い感覚を思い出す。
だが、今日は大丈夫そうだ。安心して右足を上履きに突っ込んだ瞬間に足の裏に電気が走ったような衝撃が走る。慌てて上履きを脱ごうとするが、焦ったせいですぐに脱ぐことができない。痛みからも逃れられず、不安定な足元でよろめきながらなんとか靴を脱ぐ。
下駄箱の隅で、私を見てクスクスと笑っている泉 達の姿が見えた。上履きの中を確認すると、奥の方に画鋲が入れられていた。針を上向きにして接着剤で上履きの底に貼り付けていたのだ。
私は爪を立て、上履きの底に張り付いている画鋲を取ろうとした。しかし強力な接着剤が付けられているのか全く取れる気配がない。数分の格闘の末、ようやく画鋲を剥がすことに成功した私は、重い足取りで2年B組へと向かった。
***
教室の後ろの方では、男子生徒たちの下劣な笑い声が響き、先生の授業などとても頭に入ってこない。
なぜスクールカースト上位の生徒は後ろの席に座りたがるのだろう。先生から最も距離が遠いからだろうか。教卓に立っている以上、先生の目線の先は必然的に教室後方になるはずだし、先生の視界から外れたいのであればむしろ前の方の席に座るべきではないだろうか。
いや、そうではない。この席順はまるでクラス内での立ち位置を示すように、目立たない人、いじめられっ子、浮いている人には座るべくして座る席がある。そしてクラスの王には王の座るべき席がある。
例えば前の方の席は真面目な優等生。または勉強は全くできないが比較的嫌がられる前の方の席を埋めるためだけに座らされている目立たないタイプかいじめられっ子。中央席は明るいムードメーカ。勉強はからしき駄目だが、そのバカさ加減がクラスにウケる。中央席の窓際寄りの席が浮いている奴。
中央席廊下側は不登校かノートに絵ばかり描いている陰キャ。この席はクラス内でも日が当たりずらく、日影の陰湿な雰囲気がよく似合う。
教室後方、窓側はすまし顔で大人しい風を装う美女かイケメン。廊下側はクラスの王の補佐。そして最後列中央がクラスの王。誰もこいつに逆らえない。そしてその席に、泉 美月が座っている。美しい黒髪にすらっとした長い足。端正な顔立ち。まさに王になるべく整った容姿をしている。だが、心の中ではクラスメイトを見下し、自分の都合のいいようにクラスを支配する魔女であることを私はよく知っている。
後ろの席は、前の席に座っている人に対して攻撃を仕掛けることができる。私はさっきから小さく千切った消しゴムのカスを後ろから投げられている。私の席は前方のやや廊下側よりの席だ。頭がいいわけではないので前の方の席を埋めるためだけに座らされているいじめられっ子。それが私だ。
授業を受けている以上、必然的に視界は前方のみとなり、後ろからなにをされても対処することもやり返すこともできない。私の黒いぼさぼさの髪に白い消しゴムのカスがフケのようにこびりついている。
クラス内では、メイクやネイルをしている者、友達と大声でしゃべって笑い転げている者などさまざまだ。真面目に勉強している奴など3割にも満たないだろう。先生はそんな様子を全く気にも止めない。淡々と授業を進めている。静かにしろ、しっかり授業を受けろと言ったところでこいつらが素直に言うことを聞くわけがないのだ。
「はい、じゃあここを坂本、解いてみろ」
「えー、だりぃ」
最高列中央席の坂本が指名された。つまり泉の隣の席。女王が泉なら、こいつは男子の王だ。そしてさっきから私に消しゴムのカスを投げていたものこいつだ。坂本はポケットに手を突っ込みながら黒板へと進む。私の席の近くに来ると消しゴムのカスがついた私の頭を見て「きったねえ」と短く告げて頭をぴしゃりと叩いた。
***
給食の時間になった。この学校は高校では珍しく、給食が出る。私立高校であるからこういった待遇はしっかりしている。
今日の給食はシチューだ。私はシチューを口にした瞬間、のどに張り付くような気味の悪いドロリとした感触と強い酸味を感じた。吐き出すわけにいかないが、あまりのまずさに飲み込むこともできず、お茶をひったくって無理矢理流し込んだ。
シチューになにか入れられている。これだ、本来サラダにかける胡麻ドレッシング。色も似ているので入れられていることに気づかなかった。後ろでくすくすと笑う声が聞こえる。泉。またお前か。ふと、別の男子がゴホゴホとむせているのが見えた。私と同じようにシチューに何か入れられている奴がいたのか。
さてこのシチューをどうしたものか。シチューは大好きだったので食べられないのは悔しかった。そんなことを思っていると突然ガシャンと音がして、女子の「キャッ」「えー、なに?」という悲鳴が聞こえた。見るとさっきゴホゴホとむせていた男子生徒が立ち上がっている。隣には坂本。肩からシチューがかかっており、お椀が地面を転がっていた。恐らく男子生徒がシチューに胡麻ドレッシングを入れられたことへ仕返しに坂本にシチューをぶっかけたのだろう。
「お前なにすんだよ!」
坂本は顔を真っ赤にしてぶちぎれた。男子生徒の制服を引っ張ってヘッドロックをかける。そして脇に抱えた男子生徒の頭をこれでもかというくらい殴りつけた。抵抗したくせにあっけなくやられている
「なにやってんだ!」
担任の先生である村上先生が怒鳴ってきた。その後、その男子生徒と坂本は先生に呼ばれ教室から出て行ってしまった。普段イキりちらかしている坂本が顔を真っ赤にして喧嘩しているのはなんだかいい気味で面白かった。
給食が終わると次の授業まで30分ほど休み時間だ。
「たーまこっ!」
泉美月が私の両肩に手を乗せ、親しげに声をかけてきた。彼女の声は死刑宣告のようだった。
「トイレ行こー!ね!」
私は視界がぐらりと反転するような絶望感を覚えた。最悪だ。今日もあるのか。
そう、これからが本当の地獄の始まりなのだ。
***
トイレの扉から一番遠い、奥の壁際に泉美月が腕を組んで、壁に寄っかかっている。
泉の向かって右隣に2人でくっつきながらクスクス笑っている二人組が安西と福島。
私の後ろを囲んで、出口を塞ぐように立っているのが金子、伊東、羽田。
泉のすぐ横で興味なさそうに自分の爪をいじっているのが近藤。他の連中より、泉と距離が近い。泉の側近のようだった。
泉は、私が持ってきた7千円をヒラヒラさせながら言った。
「これだけ?」
「ごめん・・・・・」
私の後ろに立っていた金子と羽田が私の両肩と二の腕を乱暴に掴む。
「持ってこれなかったら罰っていったよねえ」
今日も始まった。これだけは本当に嫌だ。靴に画鋲を入れられようが、消しカスを投げられようが構わない。これだけは許してほしい。
泉が足でトイレのドアを蹴り開ける。そのトイレに引き立てられ、便器と向かい合う位置に座らされると、金子と羽田の二人に頭を押さえつけられ便器に押し付けられる。
「うぅ‥‥」
うめき声を上げながら、便器に顔がつかないように必死に抵抗する。鼻がねじ曲がりそうな匂いをこらえながら目を瞑り、早く終わってくれと心の中で祈る。
「ほら!便器の水飲めよ!」
泉が私の髪を乱暴に掴み、便器に押し付けてくる。その拍子に便器の淵に口をぶつけた。唇を切ったのか、血が口の中に溢れる。
「ギャハハッ!こいつ便器に口つけたぞ!」
「キッショ!」
あふれ出そうになる涙を必死にこらえる。ここで泣いたらこいつらを楽しませるだけだ。
泉は毎日のように私に欲しい漫画や高い参考書をせびた。今回のように金をせびるときもある。
金が無いときは、両親の財布から金を抜き取った。時には万引きをさせられることもあった。これが毎日のように続いている。悪夢のような毎日だ。この女には絶対に逆らえない。この女は、クラスの支配者だ。
***
部活には入っていないので、学校が終わればすぐに家に帰った。私の家はこの辺では結構大きな一軒家だ。庭もある。両親は二人とも働いている上に一人っ子なので帰ってくると大抵一人だ。することもなく、ひとり庭に出る。
縁側に腰掛けてぼんやりと庭を眺めていると一匹のアリが私の足元を歩いているのが見えた。私はそのアリを靴で踏みつぶした。泉たちへの憎悪を思い出しながら何度も何度も踏みつけ、さらに地面にぐりぐりとこすりつけた。
靴を上げてみると、かつてアリだった黒い影のようなものしか残っていなかった。
***
アリを殺すようになったのは小学生の頃からだった。小学生の時はまだ親から家の鍵を持たせてもらえず、家に誰もいない時は家の中に入れず親が帰ってくるまで庭でぼーっとしてるしかなかった。その時ふと、トコトコと私の足元を歩いているアリをなんとなく踏み潰したのが始まりだった。
それから指でつまんで潰したり、レンガで押し潰したりして遊んでいた。ある時、アリを指でつまんで殺そうとした時、指先に電流が走ったような痛みが走った。アリが私の指に噛み付いてきたのだ。
途端に手を振り回してアリを離し、そこら辺にいるアリを(私の指に噛みついたアリかもわからないが)無差別に踏みつけた。「死ね!死ね!死ね!」と叫びながら何度も踏みつけた。「人間に逆らうと、こうなるんだ!」などと、アリに向かってわけのわからないことを叫んでいたのを覚えている。
それから、アリを色々な方法で殺した。今日は最近よくやっている溺死にしよう。アリを人差し指と親指でやさしく掴む。ここで傷つけて弱らせてしまってはいけない。これからすることは、アリができるだけ活発な状態、苦しみを与えた時に反応がいい状態でなれば面白くないのだ。
ポケットから安全ピンを取り出し、アリの腹部に針を通す。アリの腹部は柔らかく、針が通しやすい。次に水の入った瓶を用意し、その瓶の中へアリを入れる。するとアリは安全ピンの重さで瓶の底へと沈む。安全ピンをつけず、そのままの状態で水に入れても沈まず、水面を泳いでしまう。これでは面白くない。
底に沈んだアリは、最初はじっとしていたものの、しばらくすると呼吸ができずジタバタともがきはじめた。だが、腹に突き刺さった安全ピンの重量で水面へ上がることはできない。
私はそのままアリが激しく動きまわりながらもなすすべもなくゆっくりと絶命する様子をじっと見ていた。アリは最初の数分は手足をばたつかせて抵抗していたが、徐々にピクピクと動きが鈍くなり、やがて動かなくなる。空気のない状態でも長時間生きていられるのだと思った。人間であれば1分も経たないうちに苦しくなるだろう。
溺死に飽きてきたら、今度はライターを取り出す。以前、父のライターを持ち出してからバレていないので、アリを殺す時用に安全ピンと一緒に持ち歩いている。今度は別のアリを捕まえて腹部に安全ピンを突き刺す。左手に安全ピンを持って右手でライターに火をつける。アリを炎にゆっくりと近づけて、焼き殺す。この殺し方は、安全ピンにライターの熱が映ってやけどする可能性がある。
アリを色々な方法で殺す上で安全ピンは非常に便利であった。アリを動かずに捕獲できるし、安全ピンの部分を持っていればアリに噛まれる心配もない。だが、たまに体を捩って私の指を噛みにくる猛者もいるので注意が必要だ。
アリを殺すのに飽きてきたら、今度はダンゴムシを殺す。触ると丸まるダンゴムシ。こいつの頭とお尻を人差し指を親指でつまんで、ダンゴムシの背の方に向かってゆっくりとへし折る。14本の足と触覚がうにょうにょと蠢いている。気持ちが悪い。ゆっくりと力を込めると、ミシっという音を立てて、ダンゴムシが真っ二つに割れた。オレンジ色の体液が指についた。気持ち悪い
時刻は19時半になった。そろそろ母が帰ってくるのでもう終わりにしよう
***
学校ではひたすらいじめに耐え、家に帰ればアリをいろいろな方法で殺した。
小さな透明の容器にアリを入れ、家の冷凍庫にいれた。アリを冷凍庫に入れたらどうなるのか気になったのだ。もし親に見つかったらまずいため、ケースを布でくるみ、学校の理科の実験だから見ないでと嘘をついた。
二、三時間後、冷凍庫を確認してみるとアリはケースの中で元気に動いていた。冷凍庫くらいじゃ凍死しないのかなと思い、ケースを冷凍庫に戻した。その時点で私はアリを凍死させることに対する興味がかなり薄れていた。それから2日間くらい忘れて放置していた。ふと思い出して冷凍庫を確認してみると、霜が降りたケースの中でアリがカチコチに固まっていた。ケースからアリを取り出し、触れてみると頭部がポロリと取れた。
その頭部をアリの巣の付近に置いておくとどうなるのか気になったのでやってみた。すると、数匹のアリが頭部を巣の中まで運んでいた。なんとなくその行動が気に障ったので、頭部を運んでいるアリごと足で踏み潰した。
***
あの奇妙な老婆に出会ったのは昭和62年9月8日の出来事であった。
その日も安西、金子の2人に羽交い締めにされ、便器に顔を押し付けられていた。いままでは苦しさにうめき声を上げていたが、いまは何も反応せずただ目をつむり、唇を血が出るほど強く噛み締めて、ひたすらにこの時間が過ぎ去るのを待っていた。声を出したりもがいたりして反応すると面白がってより悪質ないじめに発展する。反応が悪ければつまらなくなり早く終わることに最近気づいた。
この時間に女子トイレに入ってくる生徒はいない。昼休みのこの時間は2年B組のやばい女たちがなにかやってるので、このトイレは近づくべからずという暗黙の了解がある。要するに誰もいじめに関わりたくないのだ。
やがて、昼休みが終わるチャイムが鳴った。その瞬間、全身から力が抜けたように床に崩れ落ちた。トイレの床であることも忘れて寝そべると、目を閉じゆっくりと呼吸と整える。
今日も終わった、今日も乗り切った。泉たちはそんな私に構わずつまらなそうに教室に戻っていった。
教室に戻っても後ろから消しカスやらゴミが投げられた。だが、昼休みのあの地獄に比べたら大したことはない。ふと机の引き出しの中に何か入っているのに気がついた。クシャクシャに丸められた紙だ。私はこんなもの入れた記憶はない。紙を広げてみると、今日やったテストの裏紙を使ってなにか書かれていた。
゛源、死ぬことに賛成の人、正正正正正正゛
賛成の人数を正の字でカウントしている紙が、わざわざ私の机の中に入れられていた。クラスの後方でクスクスと笑う声が聞こえる。おそらく安西と福島だろう
ふぅ‥‥
私はいまにも爆発しそうな憎悪を抑え、ゆっくりと息を吐いた。
教室の壁のあちこちには先生や生徒たちが作った、色鮮やかなポスターがいくつも飾られていた。青色の大きな紙に、漫画の吹き出しの形をした小さい紙を貼り付け、一人一人どんなクラスにしたいか、どんな一年にしたいか、目標が書いてある。吹き出しはピンクや黄色、緑などカラフルで、青色のポスターに実に色鮮やかに飾られている
お互いを思いやる、仲良く元気に過ごす楽しいクラス!
みんなで明るく思いやりのあるクラスにしたい!
〜一期一会〜助けあい、互いを思いやりのあるクラス。
はっ、私は鼻で笑った。
—————なにが絆だ。
—————なにが思いやりだ。
—————笑わせるな。
—————先生、よく見ろ。このクラスは
「ギャーーッハッハッハッ!!」
男子の大袈裟なくらい大きな笑い声が教室に響く。私の机の中に紙を入れた男子だろうか。何がそんなに面白いんだ。何をそんなに笑っていられる。私にはまったく理解できない。
—————狂っている。
その日は放課後もトイレで泉たちにボコボコにされた。おそらく昼休みのトイレでの私の反応が面白くなかった鬱憤が溜まっていたのだろうか。結局、無反応でいても早く終わるわけじゃない。それどころか、彼女らの神経を逆撫でしただけだった。
あまりに悔しかったため、学校から家までの帰り道にある赤間神社という神社でひとしきり泣いていた。
「痛いかい?」
突然後ろから声をかけられ、ビクッとして後ろを振り返る。
80代くらいの老婆が地面につきそうなほど折れ曲がった腰に左手を添えて私の後ろに立っていた。その姿勢をぎりぎり保つために握られた右手の杖は、なにやらブルブルと震えていた。立っているだけでもやっとのようだった。
「苦しいかい?」
声はガラガラでほとんど聞き取れなかった。多分、ホームレスの人なんだろうなと思った。息を止めたくなるほどの下水のような強烈な腐敗臭が鼻をついた。
「これを飲みなさい」
私はなにも答えていないのに老婆は勝手に話を進める。老婆は汚い器に入った赤黒い液体を差し出してきた。この液体を飲めと言うことだろうか。差し出された手は、肌が黒ずみ、皺が寄っていた。
怪しげな老婆に差し出された怪しげな液体など飲むはずがない。だがこの時の私は自分の体のことなどどうでもいいと思っていた。この液体がクスリだろうが、そのせいでここで死のうが、もうどうでもいいと思っていた。
私は老婆から器をひったくると一気に口に含んだ。錆びた鉄のような味がした。ドロドロと粘り気のある液体は飲み込もうとすると喉に引っかかるような不快感があった。体が飲み込むのを拒否しているのも構わず喉を鳴らして飲み込んだ。喉にいがいがとした不快感が残っている。気持ち悪いと思っていると、頭がくらくらとして視界が歪んだ。頭がガンガンと痛い、立っていられなくなるほどが。腕には、なにやら赤い斑点のようなものが皮膚に浮き出ていた。なんだこれ、私はきっとここで死ぬのだと思った。
「いまから君には特別な力を手に入れる。これは、世界を変える力だ—————」
老婆の声を最後まで聞くことなく、わたしは意識を失った。次に目を覚ました時には地べたに寝っ転がって空を見上げていた。何時間気を失っていたのだろう。空はすっかり暗くなっていた。そして、老婆の姿はどこにもなかった
***
それからというもの特に体に異常は見られなかったが、老婆と出会って3日ほど経ってから不思議なことが起きた。
それは泉たちに暴力を振るわれているときに感じた。傷の治りが異常に早いのだ。腹を蹴られようが、カッターで太ももや腕を切りつけられようが数分経ってもう一度傷口をみると傷が治っているのだ。青あざや切り傷はすっかり消え、代わりに綺麗な白い肌があった。まるで暴力そのものがなかったようにすっかり元に戻っている。それも傷をつけられてからわずか数分で。だが、殴られたり傷つけられた時の痛みは鮮明に残っていた。傷を治せるなら、痛みそのものを感じさせないようにしてもらえないものかと思った。
さらに1週間ほど経つと、なんだか体が大きくなったように感じた。勘違いではない。私はクラスの中でも背が小さい方だったが、背の高い泉と最近視線が近くなってきたように感じたのだ。
手足も以前よりなんだか太く筋肉がついたように思える。
—————いまから君には特別な力を手に入れる
わたしは老婆の言葉を反芻した。なんだこの力は
—————これは、世界を変える力だ
私はなにをされた————??
***
昭和62年 11月27日
私はこの数ヶ月の間で人生の転機とも呼べる二人の重要な人物との出会いを果たした。その一人がこの日転校してきた彼女である。
「東京から転校してきました。煌 玖美です。よろしくお願いします。」
端正な顔立ちにほっそりとした体つき。東京に住んでいる人というのはみんなこんななのだろうか。同い年とは思えない落ち着いた雰囲気のある人だった。特徴的だったのは、長い髪を二つに束ねてツインテールにしていることだった。大人びた彼女の雰囲気と対照的に子供っぽいあどけなさがあった。
最初は転校生になど甚だ興味はなかった。
煌と初めて関わったのは、彼女が転校してから一週間ほどたった昭和62年 12月1日のことであった。
その日は2時間目が書道の時間だった。皮肉なことに「希望」という二文字を何度も書かされた。
授業終了の十分前になると良く書けた一枚を提出し、片付けとなった。私は失敗した半紙に筆をベタベタと擦り付けて墨を可能な限り落とした。
こうしておくと、あらかたの墨は落ちるので、家に帰ってから筆が洗いやすいのだ。墨を落としていると、「あの・・・・?大丈夫?」と女子が話しかけてきた。大きな眼鏡をかけた地味そうな女だった。名前は確か‥工藤 妙子だ。私が普段からいじめられているのを見ていて、今更大丈夫か声をかけたのだろうか。だいたいお前は泉が怖くて何も言えないだけだろうが。お前もいじめる側だ。そんなやつと話すことなどない。
私が「別に」と冷たく言った次の瞬間、背中に水がかかったような冷たい感覚がした。
私をいつもトイレでいじめている7人組の一人、近藤が、私の後ろの席の女子の硯をひっくり返したのだ。墨が前の座席の私の背中に大きなシミを作っていた。机のあちこちに墨がかかり、私の隣にいた工藤 妙子の制服にも少しかかった。
「うわっ、ごめん転んじゃってさ」
と近藤は言った。嘘をつくな。わざとに決まってる。クラスがしんっと静まり返った。工藤 妙子は制服のスカートを握りしめながら必死に泣くのをこらえていた。こんなことで泣くな。わたしなぞ背中一面真っ黒なんだぞ。その時、クラスの静寂を切り裂くように声を張り上げる者がいた。
「ちょっとなにやってるの!」
転校生の煌 玖美だった。テレビのアナウンサーのようにハキハキとしてよく通る声だった。煌はほとんど机を蹴飛ばしながら近藤に詰め寄る。近藤はへらへらと笑いながら「だから転んだんだって」と言った。
「嘘!わたし見てたよ!近藤さん、源さんをチラチラみながらそこの女子たちとなにか話してた!絶対わざとでしょ!」
近藤はチッと小さく舌打ちをして、あからさまに面倒くさそうな態度を示した。煌が言っていたそこの女子たちとは恐らく泉たちのことだろう。先生は授業で使った水黒板を片付けに行っていていない。
煌は近藤にも一切ひるまず「謝んなよ!!」と声を張り上げた。クラス全員が近藤と煌の様子を見ていた。近藤はそれに耐えられなくなったのか、付き合ってらんねぇよと言い捨ててどこかに行こうとする。だが煌は逃がすまいと近藤の行く手を遮る。「謝れェ!!!」張り裂けそうな声で再び叫んだ。転校生の激昂に流石の近藤も少し怯んだのか、
「だから、悪かったって」
と謝った。すると今度は泉が二人の間に割って入る。
「ごめんね煌さん、ちょっと悪ふざけしてただけなの」
泉がなだめると煌は一気に力が抜けたようにすとんとその場に座り込んでしまった。煌が「私こういうの許せないの・・・・」呟いたのが聞こえた。泉の言葉を皮切りにクラスは元のざわざわとした雰囲気に徐々に戻っていった。
いじめを止めてくれたのはありがたいが、この女、終わったなと思った。この世は常に二元論的に事が進むのだ。白か黒か、正義か悪か、いじめる側がいじめられる側か。彼女はいじめを見て見ぬふりにしなかった。工藤 妙子と違って。彼女はいじめる側でなくなった。つまり、彼女が次のいじめの対象となることは必然だった。
***
次の日、クラスに行くと黒板に煌 玖美 死ね、ブス、消えろといった文字が白や赤といった様々な色のチョークで書かれてきた。他にもデブだのビッチだの色々と書かれていた。教室に入ってきた煌 玖美は黒板を見るなり「ちょっとなにこれ!」と叫び声を上げた。休み時間にはいつも私をトイレでいじめている泉、近藤、金子、福島、安西、伊東、羽田の7人に囲まれながら椅子に座らされ、泉がカッターで髪の毛や制服を乱暴に切り始めた。「やめて、やめてよ!」煌は子犬のようにわんわん吠えながら泣き叫ぶ。
その叫び声を聞いて、泉たちは大笑い。その様子を教室の後ろの方で見ている他の女子たちもクスクスと笑っていた。馬鹿か。そんな反応したら面白がられるにきまってる。煌の必死に泣き叫ぶ様子は泉たちの加虐心を大いにくすぐった。私は煌 玖美がいじめられる様子をただ黙ってじっと見ていた。
彼女がいじめられるのは必然だ。いつだって世の中は二元論だ。私を庇った時点で自分からいじめられっ子になることを選んだようなものだ。彼女が悪いのだ。
バカな女だ。本当に
突然泉たちの手が止まった。見るとある男子生徒が、泉に掃除で使う雑巾を投げつけていた。
この男子、見覚えがある。そうだ。以前坂本にシチューに胡麻ドレッシングを入れられたことの腹いせにそのシチューを坂本にぶっかけて取っ組み合いになった男だ。もっとも反抗はするもののその後の取っ組み合いではあっけなく坂本にボコボコにされたわけだが。
このクソ弱いいじめられっ子が、私の人生を変えたもう一つの出会い。彼の名は、平等院 霊示と言った。
男子側のカースト最下位はおそらくコイツなのだろう。雑巾を投げつける程度の行動が攻撃だと思っているのが何よりの証拠だ。
今度はこの平等院という男子生徒の叫び声がクラスに響き渡った。泉たちは平等院の両腕、両足を四人がかりで押さえつけ、吸っていたタバコの火を平等院の太ももにあてがった。「うぅ゛〜〜〜っ!」うめき声を上げる彼の様子を見て泉たちはまたもや大笑いだ。平等院は、背は少し高いくせに私よりも猫背であるため小さく見える。ぼさぼさで長い前髪に大きな眼鏡をかけた、いかにも貧弱そうな男だった。
放課後になった。今日は1日を通して泉たちからのいじめがなかった。ターゲットが煌たちに変わり、私には見向きもしなくなったのだろう。煌や平等院には悪いが、私にとっては良かったかも知れない。私が帰ろうとすると、誰もいない教室から声がした。
「ごめんね?私のためにありがとう」
このハキハキとしたよく通る声、煌の声だとすぐにわかった。誰と話してるんだろう。
「あ、あ、あ、あいつら絶対煌さんに嫉妬してるんだ。」
煌と話しているもう一人の声だろうか。なんだこいつの喋り方は。どもっていて気持ち悪い。2年B組の教室を覗いてみると、煌が平等院の火傷の手当てをしているのが見えた。さっきの声は平等院だったのか。しゃべっているところをほとんど見たことがなかったので気が付かなかった。いじめられっ子同士の馴れ合いか。くだらない。なんでわざわざ見にきたんだと後悔して帰ろうとすると「あ、源さん!」煌が私に気づいて声をかけてきた。
「源さんも辛かったよね。よく頑張ったね。」
「‥‥‥なにが?」煌の言っていることが理解できていないわけじゃないが、私はとぼけてみせた。
「だって、あの泉って人からひどいことされてたよね?今日だけじゃなくて、普段からから色々されてるってさっき霊示くんから聞いたよ」
こいつ、余計なこと言いやがって。
「私がいじめられてるのは、私が弱いからだよ。」
この二人と関わるつもりは毛頭なかったので、私は冷たく答えた。
「背が小さくて、可愛く無くて、弱そうだからいじめられるんだよ。私が泉みたいに綺麗で、背が高ければいじめられないよ」
煌は、少し悲しそうな顔をして私を見つめた後に、「そんなことない」とキッパリ言った。
「源さんは何も悪くないよ。悪いのはあいつらだよ」
少し低く、透き通るような彼女の声はなんだがそれが全て正しいことのように聞こえた。どんなに曖昧な理論でも、彼女の言うことはすべて善に置き換わるような説得力を感じた。
「や、や、やっぱり、せ、せ、せ、先生に言うべきだよ。ぼぼっ、僕明日担任の先生に言ってみるよ」
「そう!さっき村上先生にちゃんと相談してみようって霊示くんと話してたの!」
霊示くん。下の名前。いつの間にそんなに仲良くなってたのか。
「さあこれでお終い。帰ろう!お風呂入ったら絆創膏はちゃんと取り替えてね」
「あ、あ、ありがとう‥」
煌にそう言われて、平等院は俯いて耳まで赤くしていた。なんだこいつ、わかりやすすぎる。煌はパタパタと軽やかな足取りで教室を出て行った。私も帰ろうとすると「み、源さん」平等院に引き留められた。私は立ち止まり、無言で振り返る。
「ききっ、君はなんでなにもしないの?」
「は?」
「煌さんがいじめられてるのを見て、なぜなにもしなかったの?」
なんなんだ、こいつ。私はわざと「はぁーーっ」とめんどくさそうにため息をついてみせた
「あいつがいじめられるのは自分が悪いんだよ。自業自得だよ」
「‥‥どういうこと?」
平等院の鋭い視線を感じたが、かまわず話し続けた。
「二元論だよ。世の中には白と黒、善と悪、そして、いじめっ子といじめられっ子の二つしかないんだ。いじめの傍観者をいじめっ子の枠に含めた場合、煌がいじめを止めた時、煌は傍観者ではなくなった。いじめっ子の枠に当てはまらない彼女がいじめられっ子になるのは必然なんだ。そして近藤を止めることを選んだのは彼女自信だ。だから自業自得なんだよ」
「かっ、煌さんが近藤に突っかかったのは君を助けるためだよ」
「だから、そんなこと頼んでねぇーっつの!!」
あまりにネチネチと説教してくるのでイライラして声が大きくなった。駄目だ。たぶん私はこいつとは気が合わない「そういうお前こそ、煌 玖美のこと好きなのか?」頭にきたので平等院が触れられたくないであろう部分にあえて突っ込んでみた。平等院は途端にかっと顔を真っ赤にして「ち、ちちち違う!!!」と叫んだ。さっきからこいつの反応は予想通りというか、ボタンを押せば喋るぬいぐるみのおもちゃみたいな男だと思った。
「好きな女子を守って、褒められて、認められて、必要とされて、おまけに可愛い絆創膏まで貼ってもらって気がでかくなったか?」
平等院の鼻についている絆創膏を指ではじいて煽った。私がいじめられていることを煌に話していたこと、彼の気持ち悪い喋り方に対する不快感も相まってさらに追い打ちをかける。
「てめぇと私のなにが違うんだ?いままで傍観者で、好きな女子のために立ち向かっただけで自分だけは違うみたいな言い方しやがって」
平等院に詰め寄ると彼は後づさりした。だが壁まで到達するともう逃げられなくなった。私は彼の鼻息がかかるほど近くまで顔を寄せ、耳元で聞き取れるか聞き取れないかぐらいの声量でこう言った
「殺すぞ‥‥—————」
「二人ともどうしたの?帰ろーよ!」
煌が教室の扉から顔を出していった。私はすぐに平等院から離れた。平等院は眼鏡をかけなおすと「ととっ、とにかく先生に言えば、必ずなにか変わるはずだよ」と言った。
私は改めてこいつとは合わないなと思った。そして、先生に相談するという平等院の提案は最悪の展開を迎えることになった。
***
翌日、朝の会で担任の村上が、今日の五時間目の数学(担任の担当科目)の時間はクラスで話し合いをすると言った。昨日平等院が担任に相談すると言った直後のこのタイミング。私は嫌な予感がした。
「昨日、平等院からある相談を受けた。それは先生にとってとても悲しいものだった」
五時間目が始まると先生は話し出した。最初からあえて本質には触れない感じが癪に障った。普段からこういう喋り方をする男だった。担任は「このクラスでいじめが起こってる!」「煌 玖美がいじめられている!」と彼以外は周知の事実をさも衝撃の真実のように語った。
「先生はな、いじめが大嫌いだ!!先生は悲しい・・・・みんなに仲良く、楽しく学校生活を送ってほしかったのに・・・いま猛烈に悲しいんだ・・・・・・」村上先生は涙を流していた。いじめられているわけでもないのに、なんでこいつが泣くんだと思った。
「先生はな、ここでいじめっ子を摘発しようとか、なにか罰を与えたいわけじゃない!どうやったらいじめはなくなるのか、それをみんなで話し合うんだ!みんなで楽しく学校生活を送るために、みんなで力を合わせて考えてみよう!」
こいつは何を言っている。
いじめっ子を摘発しないだと?摘発しなきゃ何の罰にもならない。これはいけないことなんだと知らしめるんだ。いじめっ子を全裸で十字架に磔にして、みんなでナイフを一本ずつ刺していく。お前がやらなきゃいけないのはそういうことだ。
私がそんなことを考えていると、泉が手を挙げた。「じゃあ、いじめが起きてしまう原因について考えてみるのはどうですかね?」
「いじめの原因?」
「私は煌さん正直少し苦手なんです。東京から転校してきたばかりからかも知れませんが、なんとなく空気が読めてないというか。煌さんがクラスに馴染めないのは、私たちが煌さんを受け入れる準備ができてないからだと思うんです。もしかしたら私たちのそういう想いが煌さんを傷つけて、誤解させちゃったのかもしれません」
「なるほどな‥いじめられる方にも悪い部分があると‥」
すると先生は煌を呼び、教壇に立たせた。教室中の視線が煌に集まる。「みんなで煌の嫌なところ、直して欲しいところを言ってみてくれ!煌。みんなの意見をしっかり聞いてどうすればクラスに馴染むことができるか理解するんだ!」
私は席に座った瞬間の泉の表情をみていた。彼女はにやりと笑っていた。これだ。こいつはこうやって影からクラスを支配するんだ。自分の気に入らないクラスメイトをいじめて、陥れて、クラスを自分の王国にする—————
近藤が挙手をして「空気が読めないところ」と言った。それを皮切りに一人、また一人と手が上がる。
やめろ、みんなやめろ
クラス全員が堰を切ったように次々に煌の悪口を言い出した。
「喋り方が嫌い」
「顔が好きじゃない」
「髪型がダサい、高校生でツインテールとか、なんかイタい」
「頭から変な匂いがする」
「ニキビが汚い」
煌は必死に涙をこらえていた。すると先生は、「煌も辛いとは思うが、クラスのみんなで楽しく過ごすため、これはとても大切なことなんだ。煌もみんなと仲良くしたいよな?」
煌はうつむいたまま、「はい」と呟いた。
その後のクラス中からの罵声は続き、「男子に色目を使っている」という意見や、中には「生理の時の匂いがキツい」というとんでもないことを言ってくるやつもいた。しかも女子だ。これを言うことで煌がどんな気持ちになるのか分かった上で言ってるんだ。
煌はついにたえられなくなり、顔を両手で覆ってへたり込んでしまった。
「もうやめて‥」
先生が、煌の小さい両肩を掴んで、乱暴に揺さぶった。「立て煌!自分の欠点を突き付けられるのは辛いよな!でもここでみんなの意見を受け入れなきゃ、ずっとこのままだぞ!」先生はうなだれる煌を「立て!」と言いながら無理やり立たせた。そしてこの地獄のような時間は、五時間目終了のチャイムが鳴るまで続いた。先生は満足げに「これで煌もだいぶみんながどう思われているか理解できたんじゃないか?」と言った。煌はほとんど放心状態でうなづきもしなかった。「みんなも、これからは煌と仲よくしような!」
このクラスで、先生だけが妙な達成感を味わっていた。
***
次の日、煌は学校に来なかった。その次の日も来なかった。
もう彼女は学校には来ないかもしれない。そう思った。だがその方が彼女にとっていいかもしれない。だが、3日後に彼女は学校に来た。
「なんで来てるの・・・?」
私は彼女はもう来ないものだとばかり思っていたので、朝、下駄箱で彼女を見かけた瞬間、思わずそう言ってしまった。煌はなにか言うわけでもなくただニコッと作り笑いを浮かべただけだった。
——————ききっ・・君は、なんでなにもしないの?
平等院に言われた言葉が不意に頭をよぎった。煌を学校にいさせちゃダメだ。今日もきっといじめられる。明日の明後日も、卒業するまで何百回も何千回でも繰り返される。私は俯いたまま手を握りしめていた。その間にも煌が下駄箱で外履きから上履きに履き替えている。もう行っちゃう。今言わなくては気づけば私は煌の小さな手を掴んでいた。
「逃げよう、二人で」
***
私たちは隙を見計らって学校の外へ出た。学校を抜け出す時に煌がかなり不安そうな顔をしていた。たぶん学校をサボるなんてほどんどしてこなかった人なんだろうなと思った。
いきなり飛び出してしまったが、なにをしたらいいのかわからない。私たちはとりあえずバスに乗って新山口駅の方に向かうことにした。ひとまず学校から距離を取るべきだと思ったし、あそこなら色々遊ぶところもある。
「なんだか、遠足みたいね」
最初はびくびくしていた煌も徐々に学校をサボることの罪悪感が薄れてきたように感じた。そんな煌の様子を見て、私もなんだか、テンションが上がった。
「なにしてるの?」
私は鞄から教科書を引っ張りだした。「見てて」適用なページを開くと、ビリビリと乱暴に破いてバスの窓から捨てた。破れたページがヒラヒラと風に舞い、通りを自転車で走るレーサーたちを驚かせていた。
玖美ちゃんは最初驚いたように目をまんまるにして私を見つめていたが、やがていたずらっ子のような笑みを浮かべて自分のカバンからも教科書を取り出して、二、三ページを引っ掴むと一気にビリビリと破いて同じように窓から捨てた。
なんだがおかしくなって二人でクスクスと笑った。
その後はクラスメイト達の悪口や先生の悪口をずっと言い合っていた。新山口駅に着いたら、煌の提案でカラオケ店に入った。私はカラオケに行くのは初めてだったので勝手がよくわからなかった。煌は歌がとても上手だった。私はあまり歌うのが得意ではなかったが、煌が流行りの曲を何曲か入れてくれたおかげで私でも知ってる曲を二人で歌ったりした。
「あの‥煌さん」
私はずっと煌に言えなかったことを言おうとした。すると煌が「玖美でいいよ」と言った。「じゃあ、玖美ちゃん。私を助けてくれて、ありがとう」私は自分の足元を見ながらそう言った。自分の本当の気持ちを言うとき、私は人の顔がみれないのだ。大抵こんな風に関係ないところを見ながら話してしまう。「私、ああいうの許せないの。弱い人をいじめて、面白がってさ。いじめられた方の気持ちなんて考えない。自分勝手で、自己中心的で、弱い人間の醜い行動だよ」
玖美ちゃんは眉間に皺を寄せながら言った。玖美ちゃんはこんな表情をするのかと驚いた。普段のかわいい顔からは想像もできない怖い顔をしてた。だがすぐに元に戻って、「私も玉ちゃんって呼んでいい?」と頬を少し赤らめながら言った。「いいよ!」私も嬉しくなってそう答えた。
「これ、私の宝物なんだ!」
玖美ちゃんは学校のカバンから可愛らしい花柄の缶でできた箱を取り出した。中身を開けると水色や翡翠色の天然石が入っていた。色とりどりの美しい石が光輝いて本当に宝石箱のようだと思った。
「綺麗!これ全部玖美ちゃんが集めたの?」
そう聞くと玖美ちゃんは自慢げに頷いた。ちょっと子供みたいな趣味で可愛いなと思った。
お金があまりなかったので、カラオケは2時間くらいしかいられなかった。そのあとは二人で目的もなく歩いた。歩いてる間、玖美ちゃんの東京での学校の話をしたり、しりとりをしたりしていた。しばらく歩いていると二人とも足が痛くなってきた。革靴は長時間の歩行には向いてない。私たちは途中で靴を脱いで靴下のまま歩いた。スクールソックスが汚れるのも構わず、歩くのは気持ちが良かった。
二人で手を繋いで何キロも歩いた。
幸せな時間だった。
お腹が空いたら二人で近くのコンビニに入った。少ないお金を出し合ってお菓子やら菓子パンやら好きなものを買った。
それを食べながらまた歩いた。
この時間が、永遠に続けばいいと思ってた。玖美ちゃんと二人ならどこまでも行けると思った。どこまでも、どこまでも、自由に—————
もう何時間歩いただろうか。次第に空が暗くなってきた。私たちは近くのバス停のベンチに座った。12月の夜は寒い。私たちは二人で身を寄せ合って制服の上着にくるまっていた。しばらく二人で話をしていたが、次第に眠気にあらがえず、いつの間にか二人とも寝てしまった。
突然、夢から覚めるような煌々とした明かりに目が覚めた。寝てしまっていたのか。懐中電灯らしき灯りを向けられ、眩しくて全く見えないが、目の前に誰かいる。誰だ。肩を揺さぶられ何か大声で言われている。
「大丈夫か!?声は聞こえるか?」
「こんな遅い時間になにしてる?」
私たちは懐中電灯を持った警官2名に補導されたのだ。時刻は深夜1時を回っていた。私たちは近くの交番に保護され、親を呼ばれた。
「玖美っ!!」
先に玖美ちゃんの母親がやってきた。
「なにやってたのっ!心配させないでよ!!!」
玖美ちゃんの母親の金切り声が深夜の交番に響いていた。やってきたのは母親一人だった。玖美ちゃんの親はこんな時間にも関わらず顔に厚化粧をしていた。
「ごめんなさい」
玖美ちゃんはうつむいて蚊の鳴くようなか細い声でそう言った。
「もう‥お父さんになんて説明すればいいのよ・・・・・」
玖美ちゃんのお母さんは頭を抱えてそう嘆いていた。
「あんたからちゃんと説明しなさいよ!お父さんに!!」
玖美ちゃんのお母さんは、玖美ちゃんのことより父親にどう説明するかの方が心配だったようだ。
「もうお母さん恥ずかしいわこんなたくさんの方にご迷惑かけてもぅ・・・・・」そう言いながら警察には何も言わず玖美ちゃんを連れて帰ってしまった。
しばらくして私の親もやってきて私も家に帰った。私たちの家出はこんなにもあっさりと終わってしまった。
***
次の日、私は学校を休んだ。家に帰ったのは深夜2時過ぎだったので朝は当然起きられなかったからだ。
その次の日は午後から学校へ行った。
なんとなく玖美ちゃんに会うのが気まずかった。
玖美ちゃんはきっとあの後母親に叱られ、父親にも叱られただろう。
学校をさぼって二人だけで旅をするのは本当に楽しかったが、本当は楽しんでいたのは私だけで、玖美ちゃんには迷惑だったのかも知れない。あとで親にこっぴどく叱られると、気が気じゃなかったかも知れない。
学校についたのは12時半すぎで、今はちょうど昼休みの時間だろうか。2年B組の教室の前まで来ると、教室がなにやら騒がしかった。
扉は開けずに中の様子を見てみると、教室の真ん中あたりでクラスメイト達がなにかを取り囲んでいる。よく目を凝らしてみてみるとその中心にいるのは、玖美ちゃんだ。
私はその光景をみて発狂しそうになった。
和の中心にいる玖美ちゃんは椅子の上でバタバタと体をくねらせている。椅子から立てないのだ。
あれはボンド椅子だ。椅子の座面と背もたれの部分にあらかじめ接着剤をたっぷりとつけておく。気づかずに席に座るとボンドで皮膚や服が椅子に張り付き、椅子から立てなくなるという仕掛けだ。
きっと玖美ちゃんは、昼休みの間にボンド椅子をしかけられ、椅子から立てなくなったのな。ボンド椅子を仕掛けたのは、間違いなく泉達だ。そして今、クラスメイト達の笑いものにされている
「立ーて!立ーて!」
クラスメイト達の悪魔のようなコールが響く。玖美ちゃんはボンドのせいであまり動かせない体を必死に動かして、椅子の足を跳ね上げさせたりしながら体をはがそうと必死にもがいている。その滑稽な姿をみてクラスメイト達はさらに笑う。
壁には霊示が顔中に青あざをつけた状態で倒れていた。おそらくボンド椅子を止めようとして返り討ちにあったのだろう。私が玖美ちゃんから一瞬目を離したすきにクラスメイト達から「おお!」と声が上がった。
玖美ちゃんの体が椅子から離れた。だがその瞬間にビリビリと音がして玖美ちゃんの制服が破れた。制服の背中の部分は椅子にくっついたままだ。ボロボロの制服でその場で項垂れる玖美ちゃんは背中からブラのホックが見えていた。
その哀れな姿を見た男子たちは「きったねぇ!」と玖美ちゃんを指さして笑っていた。
私は、教室に入ることもできず、ただその様子を見ていた。足の裏が地面に張り付いたようにまったく動けないのだ。いま行ったら殺される。泉が怖い、いじめられるのは痛いのは嫌だ。便器に顔を押しつけられるのも嫌だ。
嫌だ嫌だ、怖い怖い—————
***
玖美ちゃんはその日の午後からジャージを着て過ごしていた。村上先生はそれについて特に何も言わなかった。みんな制服の中で一人だけジャージなのは明らかに浮いていた。ふと、私は、自分の机の中に何か入っているのが見えた。また誰かのいたずらかなと思ってみると綺麗に折りたたまれた手紙が入っていた。手紙の表には”玖美”とあった。中身を開くと
”放課後、学校の屋上に来て 玖美”
とあった。
放課後、私は屋上へ向かった。屋上の扉を開くと強い風が吹き抜けて私の髪を激しく揺らした。屋上は本来行ってはいけない場所で普段から鍵がかけてあり生徒はいけないはずだが、その日はなぜか鍵が開いていた。
屋上には初めて来たが、四方が高いフェンスに囲まれている以外は特に何もない殺風景な屋上だった。玖美ちゃんが校庭を見ながら立っているのを見つけた。そして彼女はフェンスよりも外側に立っていた。足を滑らせたら落ちてしまう位置で無表情で校庭を見つめている。私なんだか怖くなって玖美ちゃんに近づくことができなかった。
「玖美ちゃ‥」
「ここは牢屋みたい」
私の声を遮るように玖美ちゃんが言った。その口調はいつものアナウンサーのようにハキハキした口調ではなかった。ひどく冷たい、この世のすべてを拒絶しているような声だった。
「今日ね、学校に行きたくないってお父さんとお母さんに言ったら、甘えるな、何、子供みたいなこと言ってんだ、行きなさいって言われたの」
わたしは玖美ちゃんの母親のことを思い出した。あの日、玖美ちゃんは行方がわからなくなっていたはずだ。それなのにあの母親は玖美ちゃんではなく、父親のことばかりを気にしていた。きっと玖美ちゃんの家は父親が絶対権力をもっていて、母親はそれに従うしかないのだ。2年B組の王が泉であるように、玖美ちゃんの家の王は父親なのだ。クラス、会社、家族、きっとどんな組織にも王がいて、そいつには誰もさからえないのだ。
「わたしね。親が怖くてしょうがないんだ。なんで学校に行きたくないのか、学校でどんな目に遭ってるのかどうしても話せないの。だからどんなに嫌でも、親に行けと言われたら学校に行くしかない。お父さんは機嫌が悪いと物を投げたり、怒鳴ったりする人なの。お母さんはお父さんの機嫌が悪いのは私のせいだって言うの。私がちゃんと学校に行って、お父さんとお母さんの望む娘になれば、お父さんは怒鳴ったりしない。お父さんの機嫌がよければ、お母さんもイライラしたりしない。
学校に行けばいじめられる‥家にいても親にビクビクしながら、両親の機嫌を取って顔色をうかがいながら生活してる‥その生活から逃げようとしても、結局親や先生によって捕まる。どこへ、逃げても逃げても結局捕まる」
玖美ちゃんは校舎をゆっくりと眺めた。広い校庭に立ち並ぶ自らの学舎 を見て「そう、この学校は檻みたい。私たちを封じ込める巨大な牢獄・・・」そうぽつりと言った。
「玖美ちゃん、そんなとこいたら危ないって」
私は耐えられなくなって思わずそう言った。
「来ないで」
玖美ちゃんの声はどこまでも冷たかった。「それ以上近づいたら即飛び降りるから」今の玖美ちゃんは、親も、学校も、先生もクラスメイトも、私自身すら拒絶しているように思えた。私は玖美ちゃんにかける言葉が見つからず、ただ立ち尽くしていた。そんな私の様子を見かねてか、玖美ちゃんがニコッと笑った
「違うんだよ玉ちゃん。止めてほしくて呼んだわけじゃないの」
今度は視線を私から校舎全体に移した。
「玉ちゃん、わたし、この牢獄からどうすれば抜け出せるか必死に考えてた。玉ちゃんと逃げてる時、本当に楽しかった。ふたりでどこまでもいける気がした。でも駄目なんだね。
親からは逃げられない。学校からは逃げられない。私はまだ子供で、弱くて、働けなくて、親や先生がいないと生きていけないから‥だから逃げられないんだ。だから、もうこうするしかないの」
玖美ちゃんの体はゆらゆらと揺れていて、バランスを崩せば今にも落ちてしまいそうだった。
「自由になりたい、鳥みたいにどこまでも自由に飛んでいけたら、どんなに幸せかな」
「玖美ちゃん!お願いだから戻ってきて!!!わたしを置いていかないで!!!」
「そこに、私の宝物が置いてあるでしょ」
「ねえ・・・っクミちゃん!!」
私と玖美ちゃんの間に缶の箱が置いてあった。あの日、二人で学校をサボった日に玖美ちゃんが見せてくれた天然石がたくさん入った箱だ。
「それ、全部玉ちゃんに上げる」
玖美ちゃんは涙を流していた。
「お願いだから戻ってきて!クミちゃん!」
「私の大事なもの全部・・・、玉ちゃんに上げるの・・・!」
涙が夕日にあたってキラキラと輝いて見えた。次の瞬間、玖美ちゃんの体はふわりと宙を舞った。まるで天使が羽ばたくようにすっと落ちていった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
私は弾かれたように駆け出していた。玖美ちゃんが落下したあたりのフェンスにしがみついて狂ったように叫んだ。フェンスを意味もなくガシャガシャとゆすり、手が食い込んで血が出るのも構わずひたすら叫び続けた。フェンスに足を捩じ込み、必死でフェンスをよじ登る。フェンスの上まで来るとそのまま私も校舎から飛び降りた。
***
見上げた空から白い結晶が降ってくるのが見えた。雪だ。そういえば今日は12月24日、クリスマスだったと思い出す。
あれから何時間経っただろう
私は空を見上げで地面に寝転んでいた。隣には玖美ちゃんが頭から血を流して死んでいた。
動かなくなった体は、魂の抜けたただの人形のようだった。頭がひしゃげて豆腐のような脳みそがどろりと溢れていた。
私も死のうと思った。校舎の屋上から玖美ちゃんと同じように飛び降りたはずだ。
でも死ねない。
何度も何度も飛び降りた。地面に叩きつけられた瞬間は確かに死んだと思うほどの衝撃が体に走る。だか、地面に頭から落下して頭蓋骨が割れようが、首の骨が砕けようがすぐに修復し、何事もなかったかのように私は今も息をしている。
玖美ちゃんの血と泥で制服が汚れるのも構わず私は仰向けに寝そべり、魂が抜けてしまったようにぶつぶつとなにか呟いていた。
「ヒト・・・・オトコ・・・・オンナ・・・・」
なんで玖美ちゃんなんだ。
「カコ・・・・ミライ・・・・イマ・・・・」
可愛くて、だれよりも優しい私の大好きな玖美ちゃん
「キボウ・・・・ゼツボウ・・・・」
なぜ泉たちが生きてて、玖美ちゃんが死ななきゃいけないんだ。
「ミンナ・・・・ワタシ・・・・」
なんで玖美ちゃんがいない世界で私は生きてるんだ。なぜ死ねないんだ。
「セイギ・・・・アク・・・・」
死ぬべき人が生きてて、生きるべき人が死ぬ。
「イジメッコ・・・・イジメラレッコ・・・・」
なんだこの世の中は。
「ガッコウ・・・・ロウゴク・・・・」
絶対おかしい。
「センセイ・・・・セイト・・・・」
絶対に間違ってる。
「クミチャン・・・・レイジクン・・・・」
壊してやりたい。
「オトナ・・・・・・・コドモ・・・・・・」
この世の、気に入らないもの全部
「ウソ・・ホント・・・」
壊してやりたい。
「イズミ・・・・・アンザイ・・・・・カネコ・・・・・フクシマ・・・・・イトウ・・・・・ハネタ・・・・・コンドウ・・・・・」
私の右手には玖美ちゃんからの手紙が握りしめられていた。
玖美ちゃんから貰った宝箱の中に入っていたものだった。中身を見てみると、手紙というより遺書だった。
”
お父さん、お母さん、せっかく育ててくれたのにごめんなさい
玉ちゃん、霊示くん、私なんかと仲良くしてくれてありがとう
私はこの世が大嫌いです。この学校が大嫌いです。先生も、クラスのお前らも大嫌いです。
そして、2年B組泉美月さん、近藤 直美さん、福島 和子さん、安西 康絵さん、伊東 理沙さん、羽田 早紀さん、金子 愛さん
私はあなたたちを許さない。あの世で絶対に呪い殺してやる。もう誰もいじめるな。
”
玖美ちゃん。もういいんだよ。
天国に行ってまで、あいつらのこと考えなくていい。ゆっくり休んで。
これはきっと罪の告発だ。いじめっ子の名前を一人一人あげつらっている書き方に玖美ちゃんの恨みが込められている。自分がなぜ自殺したのか。それを知ってほしいんだ。
私が死ねないこと、これにはきっと意味があるはずだ。まだ私にはやるべき事があるのだ
玖美ちゃん、大丈夫。私があなたの代わりに
「殺してやる・・・・・!」
いつのまにか血が出るほど下唇を噛みしめていた。地獄の業火が顕現したかのような灼熱の憎悪が、私の中で制御しきれないほど膨れ上がっていた。
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【次回予告】
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目が覚めても、また同じ夢を見る。玖美ちゃんが私の目の前から消えたあの光景が。
大好きだったあの子は、私の手を離れた。玖美ちゃんは死ぬことを、私はナイフを握ることを選んだ。
そして、あの日がやってくる—————
次回、|AstiMaitrise #14 「君の涙」
あの日の私を否定するのなら、私はどうすればよかったのだ。その答えは、今もわからない
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