帰り師 向日葵の日常 2番地 ~ わたしはだあれ?
ゴトゴトと列車が通りすぎていった。
列車の進行方向のホームの端、後一押しすると零れ落ちてしまうようなところにその古い待合室はあった。
なんでこんな不便なところに作ったのだ、と思わなくもないけれど、駅の歴史を紐解くと事実は真逆だと分かってくる。
この駅のホーム。できた時はもっとずっと長かったらしい。そしてその頃は待合室もホームの真ん中辺りに位置していた。それが数年前に線路の複線化に伴いホームを縮小することになり、その結果、待合室は現ホームの端に取り残される形となったのだ。
だったらその時取り壊せば良かったじゃないか?
うん、その通り。取り壊す予定だった。だけどできなかった。
何故って?
そりゃ、出るからなのです。
「居ました、居ました。待合室の端の椅子に座ってます」
くすんだガラス戸越しにお婆さんがうなだれて座っている姿がはっきりと見えた。
「へぇ、日葵ちゃんにははっきり見えるの。すごいわ。涙香さんと同じなのね」
華薫さんは感心したという風に目を大きくて見開く。心の底からの嫌みのない賞賛に顔が赤くなるのを感じた。
「え、そ、そんなことないですよ」
「いえ、いえ、日葵ちゃんは当たり前と思ってるんだろうけど、それはね、すごい事なのよ」
と言いながら薫さんは待合室をじっと見つめる。
「う~ん、やっぱり私には見えないなぁ。
言われてみると端のところが他より黒ずんで見えるかなぁってぐらい。
これじゃあとてもじゃないけど私には帰り師は無理ね」
迷い道を見失ってしまい、帰るべきところへ帰れなくなってしまった霊たちに寄り添い、帰るべき道、すなわち帰道を示す人。
帰り師。
私はひょんなことからその帰り師をやることになった。今日のお仕事は駅の待合室にいるお婆さんの霊を帰る事だ。
「ほんじゃ、始める?」
薫さんは手に持った鍵束で待合室のドアを開けた。
この待合室は普段は閉鎖されている。
理由は夜、待合室で待っていると知らない間に隣にお婆さんが座っていたとか、ひとりでにドアが開いて閉まるとか、待合室から出てきたお婆さんが線路に飛び込むのを見て列車が急停車するとか、いろいろと不思議な事が起きたからだ。勿論その殆どがお婆さんの仕業であった。
錆びつき、滑りの悪くなったスライドドアを開けると、むわっとカビ臭い匂いが鼻をついた。薫さんはちょっと顔をしかめつつ、下がって私に道を開けてくれた。
薫さんは私のように霊を見ることはできない。でも、普通の人よりは霊感はあるので全く感じないというわけではない。霊を匂いで察知すると言っていた。匂いの雰囲気で霊の性質が分かるらしい。そもそも霊の匂いってなに? と思うけれどまだ詳しくは聞けていない。
一度深呼吸をして、待合室に入り、一番端のお婆さんが座っている隣へ黙って腰かけた。
しばらく無言でお婆さんをちらりちらりと横目で観察する。お婆さんはうなだれたまま、こちらに関心がないようで見ようともしない。縦縞の着物を着ていた。
「あの……お婆さん」
向こうからの動きがないのでこっちから話しかける事にした。お婆さんはゆっくりと私の方へ顔を向けた。目の焦点が少し合っていない。やばいなぁと内心思いながら、更に話しかける。
「暑い日が続きますよね」
我ながら間の抜けたセリフだと思った。
でも、幽霊に相応しい会話とはなんなのだろう?
幽霊と言っても私達とまるで違う存在ではないのだ。
むしろ逆。
当たり前だけど元は私達と同じ生きていた人間であった。
悲しいことがあれば泣き、嬉しいことがあれば笑う。やりたい事や、やりたかった事がある、いわば私達と地続きの存在なのだ。
「はぁ……そうですかねぇ」
お婆さんは記憶の中を探るような仕草をして曖昧に応えた。霊体は生きている時に比べて刺激が少ない。暑いとか寒いとか痛いなどを感じない。だから、今お婆さんは私の言葉に合わせてくれただけで、そもそも暑いとは何だったかと思い出そうとしているのかもしれない。
刺激の少ない環境で長い時間を過ごすと霊から生前の記憶が少しずつ抜け落ちていく。そうして大抵その人の記憶の一番強いもの、大事なものだけが残る。元は綺麗な記憶の点で描かれていた絵が特徴的な点だけで構成されたドット絵みたいになるイメージだ。限られた記憶と単純で純粋な要求に基づく行動パターンはいわば、右か? 左か? はたまた寝るか? みたいな大雑把な選択肢しか出てこないアドベンチャーゲームをプレイしているようなものだ。その霊の行動パターンが普通の人には奇異に見えたり得体の知れない不気味さを感じさせたりする。でも、生きている人も死んでしまった人も根っこは同じだからじっくり話せば分かるはずなのだ。そして、それが帰り師の真骨頂でもある。
「お婆さんはどこから来たんですか」
「はい、はい。家からです」
「そうですか……どこか出かける予定なのですか?」
普通の会話のようなやり取りから霊達が帰りたいと思うところを特定するのが帰り師の定石だ。
「……」
「あれ? お婆さん」
返事がないのでお婆さんの方を見てみるとお婆さんはぼんやりした表情で線路を見つめていた。
あれ、リセットしとる……
まあ、セオリー通りにいかないのが現実の辛いところ。でも、こんなことで挫けていては帰り師は勤まらない。
「えっと……お婆さん。私の名前は向日葵と言います。お婆さんはなんと言うお名前ですか?」
質問の方向性を変えてみる。お婆さんはじっと私の方を見つめてきた。
手応えあり、だ。
これで名前が分かればそこから死の直前になにをしようとしていたか分かる可能性もある。そうなれば帰り先を推定するのも容易くなるだろう。
「わたし……ですか?」
「はい、はい。そうです。お名前を教えてもらえないでしょうか」
「はぁ、なるほど。わたしは……」
「はい」
「わたしは……はて、わたしはだれですか……ね……」
「はいぃ~い?!」
街の盛り場から少し外れた古くからの閑静な住宅街。そのエリアのほぼ真ん中、しかし、なぜか人の注意を惹かない不思議な一軒屋があった。それが私の働く櫛雲商会の本店である。
櫛雲商会は表向きは海外の珍しい物を輸入して販売する貿易会社のような仕事をしているとなっているが実態は霊の祓いを生業としていた。
今では珍しい平屋の日本家屋。なんと江戸時代に建てられた歴史的建築物らしいのだけど、私達はその家屋の一室、中庭に面する八畳間に帰ってきていた。
「はぁ~、霊とナチュラルに会話ができちゃう超絶霊能者の日葵ちゃんでも今回は難しそうねぇ」
黒檀の机に頬杖をついたまま薫さんはため息混じりに呟いた。
「はい、さすがに目的どころか自分の名前すら忘れられていますとどこから手をつければ良いのか……」
同じくため息で返す。
亡くなった霊が長い間迷っている内に大事な記憶を無くしてしまう話は良くある事だ。だが、今回のお婆さんのように死んだ状況も生前になにをしていたのかも住んでいた場所、時代、おまけに自分の名前すらすっかり忘れてしまっているのは珍しい。駅でなんとか手がかりを掴もうと粘り強く話した結果、そう結論づいた。すなわち手がかりゼロという事だ。さすがに手の打ちようがなく、一旦戻って作戦会議となったわけだ。
「名前も生きていた時代も分からないとなると大変だわ」
薫さんはだるそうにタブレットをスワイプし続けていた。
「着物、着てましたね」
「和装かぁ。それだと結構昔のヒトかも知んないわねぇ。
取りあえず、あのお婆さんがいつ頃から噂になっているかをみてみましょうか」
その後、薫さんと一緒になってネットの情報や雑誌のバックナンバーとかを漁った。
「う~ん、この新聞に載っているのが一番古いのかな。昭和59年……」
「昭和って、江戸時代の次でしたっけ?」
「ああ、それ! そんな感じよねぇ~」
昭和のあるあるのネタで二人して笑っていると「あ、なぁ、た、たちぃ~」と、地の底から響いてくるような声がした。隣の部屋の襖がバタンと開くと、黒いものが部屋にゆっくりと入ってくる。一瞬なにかと思ったが、髪の長い女がうつ向いた状態で這ってくる姿のだと分かった。それはすなわち国民的女幽霊の○子さんのようだ。たしか、彼女は昭和生まれのはずだ。
「ああ、恨めしい、恨めしいわ。
若いからっていい気になって!
平成生まれがなんだと言うのよ」
貞○さんは呟きながら、ずりずりと這いよってくる。
「昭和生まれをバカにして!
呪ってやるわ!!」
突然、ぐわっと上半身を持ち上げる。土気色の顔色。こけた頬。血走った眼が私達を睨み付けた。
「「ひぃ!」」
私と薫さんは肩を寄せあい、恐怖で息を呑む。
「ウップ」
今にも襲いかからんばかりであった○子さんもどきは突然両手で口許を押さえる。みるみる額に玉のような油汗が浮かぶ。やおら立ち上がるとそのまま部屋が走り出ていった。
ドタドタと廊下を走る足音。続いてバタンとドアの閉まる音。そして、しばらくえずく声が続いた。大分経ってから○子さんもどきは這って戻ってきた。部屋に入ってくるとそのまま、うつ伏せてぐったりと横たわった。
「涙香さん、大丈夫ですか?」
薫さんが心配そうに声をかけた。○子さんもどきはこうみてえ櫛雲商会の代表取締役。すなわち私たちのリーダーであった。
体調を崩す事が多くよく寝込んでいる。ちなみにこの家の持ち主である。ついでに言うなら私はこの家の一室を間借りしているので、大家さんでもあった。
「ダメ……、頭痛い、気持ち悪い。吐きそう。さっき散々吐いたけど……。喉ヒリヒリする」
今日もすこぶる調子が悪いようだった。
「頭痛薬かなにか薬飲みます?」
「良いわ、どうせ利かないから。
いつもの奴よ、寝てれば治る」
涙香さんはうつ伏せのまま応えた。そして、顔を上げると私の方へ目を向けた。
「それよか、今度の件は大変そうね。
どうするつもり?」
「もう一度話をしてみるつもりです。
今は記憶が曖昧ですけど話していればなにか手がかりになりそうなことを思い出してくれるかもしれません」
私の言葉に涙香さんは、ふん、と鼻を鳴らすと、再び顔を畳に埋めた。
「良いけど、時間かかるわよ。それに危険」
死んだ霊と接触を続けると生命力を吸い取られ肉体的にも精神的に悪い影響を与える。いわゆる、あちらに引っ張られると言う現象が起こる。
勿論、それは知っている。帰り師になる時に最初に教えられる注意事項であり、自ら何度か経験もしていた。だけど……
「それは承知の上です。あのお婆さんはずっと1人で帰りたいと思っていたんだと思うんです。
このまま、ずっと帰れずにあそこで独りぼっちなんて可哀想です。だから、ちゃんと帰り届けて上げたいと思うのです」
「それね、日葵ちゃん」
薫さんが割って入ってきた。その表情は暗い。
「あのお婆さん、後そんなに長くはないよ。
あの待合室開けた時、ちょっとイヤな匂いがしたの。肉が腐ったようなヤツ。つまり、えっとね、悪霊化し始めているの」
「悪霊化……ですか」
お腹をぎゅっと潰されるような圧迫感を感じた。
悪霊とは人格を失った悪意を振り撒くだけの霊の事だ。生きている人を憎み、常に危害を加えようとする存在。人格を失っているためもうどこにも帰れないし、説得もできない。そうなってしまってはもう祓うしか救えなくなる。
元々ね、と涙香さんが薫さんの後を引き継いだ。
「元々ね、不穏な話が今回のお仕事の発端だから。
線路に飛び出して電車を停めるぐらいは可愛いものよ。
最近、目を離した隙にいなくなった子供を探していたお母さんが子供の手を引いて歩いている見知らぬお婆さんを見つけて、慌てて声を掛けたらお婆さんがすっと消えた、って話があるのよ。
子供は、『あっち』と『こっち』の境界があやふやだからね。その内お婆さんがどこかの子供の手を引いて電車に飛び込まないとも限らない。
そうなってからでは遅いの。
今回のお仕事を薫ちゃんと日葵ちゃんにお願いしたのはそういう意味あいもあるのよ。だから、決断時期を見誤らないでね。
うう……気持ち悪ッ!
やっぱ、私、寝ます。じゃあ後は宜しくお願いね」
涙香さんはそのまま這いずって部屋を出ていった。
薫さんの方へ顔を向けた。
薫さんは私のように霊をはっきり見たり、話をすることはできない。だから帰り師にはなれない。でも、霊を祓うことができる祓い師だった。
進むべき道を見失い彷徨う霊に帰り道を示してあるべきところへ帰ってもらうのが帰り師。対して、霊を強制的に浄化して祓ってしまうのが祓い師。両者は似て非なるものだった。
「後どのくらい時間はあるのでしょうか?」
薫さんは力無げに首を横に振った。
「はっきりしたことは言えないわ。
とりあえず、今日、明日は大丈夫だろうけど、1週間、2週間後も大丈夫と言いにくいわ。
ほら、霊って環境の影響を受けやすいから。悪い気に当てられるとあっという間に悪霊化するのは知ってるでしょう。
あそこ駅だから。ああいう人の出入りが激しいところは良い気も悪き気も集まりやすいから……ね」
決断時期を見誤るな
涙香さんの言葉が重くのし掛かってくる。あのお婆さんがなにを考えてあそこに居続けていたのかは分からない。それでも、なにかの思いがあるはずで、それを無かったことにするのはやはり間違っている気がしてならなかった。
「すみません、薫さん。私に1週間時間を下さい」
薫さんは小さく頷いてくれた。
それから1週間、駅に通いつめた。各時代の流行ったものとかを話題にして粘り強く話しかけた。どこかの話題に興味を示してくれたならそれを切っ掛けになにかを思い出してくれないか、或いは、お婆さんの生前の情報に繋がらないかと期待しての行為だった。けれどもどれも上手くは行かなかった。
今日は限界……
こめかみが脈打ち、その度に頭がズキズキと激しく痛んだ。全身に虚脱感があり軽い吐き気に見舞われていた。いわゆる霊障を受けている。
頼りない足取りで待合室から外に出た。
膝に力が入らず、よろけた。
「日葵ちゃん! 大丈夫?!」
危うく倒れそうになるところを支えてくれたのは薫さんだった。薫さんは少し離れたところで何かあった時にすぐに対応できるように待機してくれていた。
「だ、大丈夫ですよ。ちょっとぐらついちゃっただけです」
笑って答えたものの、額に脂汗をにじませ、肩で息をしながらでは説得力の欠片もない。正直ちっとも大丈夫じゃない。泣き叫んで全て投げたしたかった。なのになんで私はこんなことをしているのだろう?
「もう限界だと思う。このままだと日葵ちゃんが危ないわ」
「いえ、もうちょっとだけ。
切っ掛けさえ掴めば後はなんとかなる気がするんです」
嘘だ。
全然そんな気はしない。
そもそも切っ掛けを掴める気がまるでしないのだ。なのに、なんで私はこんなことを言っているんだろう?
「ねぇ、日葵ちゃん、なんでそんなに頑張ろうとするの?」
自分が自問したのと同じことを聞かれた。答えようと口を開いたけれど舌が痺れたように固まって動かない。
えっ? なんでって……なんでだろう?
自分でも分からなかった。ただ、そうしなければいけない気がするだけだった。なにも言えずにひきつった笑いを浮かべるしかできなかった。
「もう良いわ。ちょっとつき合いなさい!」
薫さんは怒ったように私の腕を掴むと、歩き出した。
あ~、足の伸ばせるお風呂って良いなぁ
ローズの香りに包まれたバスルームで私は湯船に浸かり掛け値なしに思った。
「日葵ちゃん、パジャマ置いておくわね」
「ありがとうございます」
「ゆっくりで良いけど、のぼせないでね」
「は~い。もう少ししたら出ま~す」
結局連れていかれたのは薫さんのマンションだった。そこで強制的にお風呂に入れられて今にいたるわけだ。最初はすごく抵抗があったのだけど入って正解だった。お風呂に入る前は、体の感覚がおかしくなっていて、寒くて体が震えていながらお腹の辺りには変な熱が籠った感じで嫌な汗が吹き出てくるそんな訳の分からない状態だった。それが今では全身がぽかぽかしている。こめかみの痛みもいつの間にか消えていた。
ローズの香りのお蔭か、それともこのバスソルトの効用なのかな?
うす緑色の湯船のお湯を手ですくって匂いを嗅いでみる。ローズとは違う香りが微かにした。少し渋い森の木の香りだった。鼻のところまで体を沈めて目を閉じるとまるで森の中にいるような錯覚に陥る。このまま、ずっと入っていたい気もするがさっき、のぼせないでね、と釘をさされたばかりだ。
「良し、出よう!」
意を決すると湯船から立ち上がった。
やけに肌触りの良いピンクのパジャマに感動しつつリビングに入って驚いた。
照明は消され、代わりに部屋中に色とりどりのロウソクが揺らめいていた。全てがアロマキャンドルで、良い香りがほのかに漂っていた。勿論一つ一つが良い香りなのだろうけれどそれらが混ざりあったものはなんとも表現できない香しさがあった。
「はい、そこにうつ伏せになる」
「ここに……ですか?
えっ? えっ? あぅ、うあぁ~」
薫さんが言われるがままリビングの真ん中に置かれたクッションにうつ伏せになると、薫さんが乗っかってきた。そのまま、肩の辺りを指で押された。肩甲骨に沿って規則正しく指圧される。その気持ちの良さに思わず声が漏れる。
「薫さん! 薫さん。ちょっと、それ、くぅ、効くぅ~、でも、ちょっと、止めて下さい。止めて、申し訳ない、くっ、な、ないですから~」
薫さんは卑しくも先輩にあたる人だ。その人の家でお風呂をいただいた上にマッサージを受けるなど恐縮してしまう。身をよじりマッサージから逃げようとするけど、薫さんは許してくれない。
「良いから…黙ってマッサージ受けときなさい」
指圧は既に背骨を経て腰のあたりに移動していた。
「ふぅ、やっと臭くなくなった」
「えっ? 私、臭いんですか?!」
年頃の女性としては聞き捨てならないワードが薫さんの口から飛び出てき。慌てて自分の腕の辺りの臭いを嗅いでみるが、さっきいただいたお風呂の香りが微かにするだけだった。
「違う、違う。普通の匂いじゃないからさすがの日葵ちゃんにも嗅げないでしょ」
「?」
「待合室から出てきた時の話よ。全身からお肉の腐ったような臭いをさせてたわ。お婆さんの移り香ね。明らかな霊障よ。だから、香りで穢れを祓ったの。あともう少しつき合いなさい。体内の中の穢れも絞り出さないとね」
「つき合えだなんて!
つき合ってもらっているのは私の方です
申し訳ない……ないと、……あっ、そこ! いい……」
気持ちの良さに変な声がでちゃった
「明日で約束の1週間になるわ。そろそろ決断時期だと思うのよ」
「……」
「日葵ちゃんは普通の人より霊との親和性が高いの。それは霊の影響をダイレクトに受けるという事でもある。その事をちゃんと理解してないと取り返しのつかないことになるのよ。分かる?」
「……はい。分かっているつもりです。
でも、なんとかしたいのです。ずっとお婆さんの隣に座って話をしてましたけど、はっきりした事はなにも分からないのですけど……でも、なにかすごく悲しいというか、後悔の念と言うのですか? それを感じるんです。
あのお婆さんは、あんな感情を抱いたまま、何十年も1人でいたんです。それをこのまま、全て無かったことにしてしまうなんて、そんなの本当に悲しいだけじゃないですか」
「それはそうなんだけどね。本当にそれだけ?」
「えっ?」
「自分の身を削って、さらに他の人に危害が加えられるリスクを負わせてまでこだわることなの?」
「それは……」
返す言葉がなかった。
「日葵ちゃんのこだわりのせいで、もしも取り返しのつかないことが起きたら、あなたは一生後悔することになるわよ。
ねえ、冷酷な言い方かもしれないけれど、私達がまず守るべきは生きている人だと思うの。決断時期を見誤らないように、と涙香さんに言われたの忘れた訳ではないわよね?」
「忘れてはいません……いない、つもりです」
香さんが言っていることが正しいのだろう。それは分かっている。だけど、どうしても諦める事ができないでいた。
私はずっと待っている。
地べたに座りこみ、夕日が沈もうとする一本道のずっと先を待っている。
あと少し、あと100秒数えればきっとオレンジ色の太陽を背に、帰ってくる影が見えるはず。そう思いながら、もう一度、1から数え始める。それが何回目の数え直しなのかはもう覚えてはいない。
なに、構いはしない。帰ってくるまで何度だって数え直すと決めていた。
だって、帰ってくるって約束したんだから……
誰と?
あれ、誰だっけ
『待ってて。きっと帰ってくるから』
その人は微笑みながらそういったのだ。顔がぼんやりしてる。口元が笑っているけど、顔が分からないと。懐かしい声。あれ、誰だっけ。思い出せない。なんでだろう? 絶対忘れるはずがない人なのに……
だから、私は待っている
帰ってくると約束したから
待っていると約束したから
だから、私は待っている
「……はい。そうですか。とりあえず良かったです……」
遠くで女の人の声がする
薫……さん?
そうだ、昨日は結局薫さんの家にお泊まりしたのだ。ああ、夢を見てたんだ
「……分かってます。今日やります。
日葵ちゃんですか? まだ、納得はしてくれてないです」
あれ、私の名前がでている
薫さん、誰と話してるんだろう……
布団から身を起こして、関節の鈍い痛みに呻いた。昨日のアロマテラピーとマッサージで大分マシになったけど、体の奥の方にダメージが残っているらしく、寝起きは体がガチガチに固まってかなり辛かった。
「日葵ちゃん、起きたの?」
薫さんは電話を切ると声をかけてきた。
「ごめんなさい。起こしちゃったかな」
「いえ、良いんです。それより、今のは?」
「涙香さんからよ」
そこで一旦言葉を切ると薫さんは私の正面に改まったように座った。その表情から良い事ではないのは分かった。
「昨日、あの駅でね、事故があったの」
どこか遠くで聞こえる雷鳴のようだった。耳には微かにしか聞こえないのに妙に心がざわつくような、そんな響きだ。
取り返しのつかないことが起きたらどうするのか?
昨夜の薫さんの言葉が蘇る。心拍数がぎゅっと上がる。
落ち着け、私。まだ、お婆さんが原因とは限らない
そう自分に言い聞かせるけど、手が小刻みに震えるのを止められない。
「男の子がね、ホームから落ちたの。あの待合室の近くでね」
お婆さんの仕業ですか、と言う一言がどうしても吐き出せない。
「幸い線路ではなくてホームの端から落ちただけで怪我ですんだけど、男の子が言うには知らないおばさんに連れられて歩いていたらホームから落ちたって言ってるの。
その意味分かるわよね」
薫さんはじっと私の目を見つめてきた。なにも言えないでいると、薫さんは立ち上がり、はっきりした声で宣言した。
「今夜、あのお婆さんを祓います」
一口に祓い師と言っても霊の祓い方は祓い師の数と同じくらい多種多様だ。薫さんは祓い方は特別な香木を焚いて霊を浄化させる。それだけに人の出入りの多い昼間に実行することはできない。本格的な祓いは真夜中、終電が終わってからになる。
薫さんは待合室の外周に香木の粉を置いていた。その粉は祓いが始まる迄にお婆さんが待合室に閉じ込め悪さをさせないようにするための結界の役目をするものだった。
「あの……薫さん。祓いをやる時間までお婆さんの横についていて良いですか?」
「日葵ちゃん……あなた……」
薫さんはそこで絶句した。恐らくは、まだそんなことを言っているの、と言いたいのだろう。口には出さないのは薫さんの優しさだ。
「祓いが始まる前までです。それまでお婆さんを1人にしたくないんです」
我ながら往生際が悪い、とは思う。薫さんの目が痛かったけれど、最終的には許してくれた。
「もう。仕方ないわねぇ。良いわ。でも、祓いが始まる迄よ。それから体調が悪そうに見えたら強制退場させるからね」
「はい。ありがとうございます」
お礼を言うと待合室へ入る。
お婆さんは相変わらずベンチの同じところに座って行き交う電車をぼんやりと眺めていた。
何度か話しかけてみたがどの話題も反応は鈍かった。今日の終電は夜の12時45分。残された時間は9時間ほどしかない。
落ち着け! 考えるのよ
じりじりとした焦燥感に居ても立ってもいられなくなるのを懸命に堪え、自分に言い聞かせる。
もう一度、分かっていることを整理してみよう
まず、お婆さんの噂が出てきた一番古い記録は昭和59年。その年から10年の間になくなっていると仮定してみた。でも、その当時の記録の駅の記録、特に事故関連の記録、を紐解いてお婆さんに該当する人は出てこなかった。つまり駅で亡くなったとは考えにくい。
ダメだ。もっとなにか別のアプローチはないのかしら?
お婆さん絡みと思われる話をもう一度おさらいしてみる。
待合室に出る老婆の話がほとんどで、たまにホームを歩いているのを目撃されていた。気持ちは悪いけれど人に危害を加えるような事は一切なかった。後はごくたまに子供の手をひいて歩く、ようなことがあった。
ふと、疑問に思った。なぜ子供なのか?
初めは、子供はこちらとあちらの境界が曖昧だからと思ったけれど、大人になっても霊感のある人は一定数いる。そもそも、お婆さんを目撃した人と言うのはそれなりに霊感を持っていた、あるいは波長があったから見ることができたのだろう。ならばお婆さんに手を掴まれた大人が1人2人いてもおかしくはない筈だ。
お婆さんは子供にしか反応しないのではないか?
もう一度、記事を読み返してみた。
子供を連れていこうとした記事は全部で3件。
『子供』、『少年』、『男の子』とあった。
昨夜の騒動も小学生の男の子かホームから落ちたらしい。となるとお婆さんは男の子にのみ反応している可能性があった。その理由はわからないけれど……
電車がホームに入ってきた。ドアが開き、人々が出てくる。中には子供も何人かいた。けれどお婆さんはぼんやりと前を向いたままで特に関心を示そうともしなかった。
反応しないなぁ。仮説は間違っているのかな、と思った。その時だ。お婆さんが突然立ち上がった。そして、ふらふらとガラス戸のところまで歩いていく。ガラス戸に手をつけ外に出ようと少し身じろぎをしたが、待合室の外周には薫さんが結界を張っていたため出ることはできなかった。
お婆さんが何を見ているのか、その目線を追う。
男の子がいた。小学生くらい。灰色の制服に帽子を被っていた。その子が待合室の前を歩いていく。お婆さんはガラス戸を挟んでその子になにかしきりに声をかけようとしていた。今までに見たことのない反応だった。
「お婆さん、なにが言いたいの?
きゃっ?!」
落ち着かせようと触れたとたん、私の体が弾かれた。無様に尻餅をついた私は呆然となった。
痛みのせいではない。
焦げついた臭い
走り回る人々とその悲鳴、怒号、泣き声
破損した電車……車内に人形のように転がる人達
年配の男の人、モンペ姿の女の人、そして、灰色の制服ぽい服装の男の子……
次々と見たことも経験したこともない画面が目の前に再現されて呆然となっていた。
なんなの、これ?
『藤太、藤太、ああ、ごめんなぁ、婆ちゃんがもう少し早くこりゃ、こんなことには……
ああ、勇太郎や早苗さんになんて詫びれば良いんだ、ああ、ああ、ああ……』
頭に誰かの声が響き渡った。
ぐらぐらと目眩がする。全身に悪寒が走り、吐きそうになる。
これはお婆さんの記憶だ
震える手で携帯を取り出し、検索をする。
自分が予測したものを探しすため何度もキーワードを変えたり、組み合わせたりして探す。そして……
「あった!」
ようやく目的の記事を見つけた。食い入るようにその記事を読み、待合室から飛び出してホームの端へと走る。
「ある、あった。あれか!」
線路が続く先に目当ての物を確認して歓喜する。
ようやくお婆さんを帰る道が見えたのだ。
「お婆さん、来て!」
待合室に戻る。男の子が見えなくなったので、お婆さんはいつものようにぼうっと椅子に座っていたけれど、手を取って無理やり立たせた。待合室から連れ出そうとしたが見えない壁のような物にお婆さんが遮られた。
薫さんの結界だ。
「薫さん、ご免なさい」
香料の粉で作られた結界を手で急いで崩す。そして、外にお婆さんを引っ張りだした。
「ちょっと、日葵ちゃん! あなた、なにをしているの!!」
背後から声がした。振り向くと払いの道具を抱えた薫さんがいた。間の悪いと言うかちょうど戻ってきたところのようだ。薫さんの目からすれば私が結界を壊してお婆さんを逃がそうとしているように見えるだろう。
「えっと、これは……」
「あなたは! 約束をやぶるつもりなの?!
そのヒトはいつ悪霊化するか分からないのよ!
いえ、もうしてるのかもしれない。それを外に連れ出すってどういうつもりなの?」
怒ってる。物凄く怒っている
薫さんの方が悪霊化しているように思えた。これは何をいっても聞いてもらえないだろう。
「ごめんなさい!」
一言叫ぶとお婆さんの手を引いて走り出す。
「あっ!? 待ちなさい!」
制止する薫さんを無視してホームの端まで走る。そっと下をみる。ホームって1メートルぐらいあるらしい。改めてみると結構高い。
でも!
思いきって飛び降りた。お婆さんと一緒に飛び降りたがさすがに霊体、お婆さんは綿毛のようになんなく降り立った。
「ホームの外に降りるなんて! 危ないでしょう」
ホームの上で薫さんが金切り声をあげる。
申し訳ないけれど今は構ってはいられない。ぺこりお辞儀するとお婆さんをつれて走る。そこは砂利道ですぐ横を線路が平行で走っていた。
ザシュ!
砂利を踏む音。振り向くと薫さんもホームから飛び降りたのが見えた。
「待ちなさい! そのお婆さんは危険なのよ!」
猛然と追いかけてくる。慌ててお婆さんの手を引いて逃げる。目的地はすぐそこだ。
「待ちなさい!」
あっという間に追い付かれた。自慢ではないけど私はどんくさいのだ。運動全般、得意でない。
かくなる上は、日葵、腹ぁ括れ!
「お婆さん、行って! 真っ直ぐよ、真っ直ぐ走って!」
お婆さんを前に押し出すと、振り返り薫さんの体に体当たりした。
「あなたねぇ、いい加減にしなさいよ。
いいわ! 今から祓うから。そこにいるのは分かっているわよ」
薫さんは霊を見ることはできない。匂いで感じとるだけ。だから大体の位置は分かるけど正確な位置は分からない筈だ。先に行かせないように渾身の力で薫さんにしがみつく。
「そんなことしても無駄よ!
大体の位置が分かれば祓うことはできるわ!」
薫さんは手にもった匂袋を私の後ろに放り投げた。辺りに白檀のような香りが立ち込める。薫さんは更にもう一つ袋を取りだした。香木と祓いの呪言で霊を祓うのが薫さんのやり方だけど、緊急時は香木の代わりに匂袋を使う方法もあると言っていた。今それを実行しようとしているのだ。
「待ってください。後ほんのちょっと待ってください!」
薫さんの腕にむしゃぶりついて必死に止める。
「もう十分待ったわ! このまま逃がすわけにはいかないのよ」
「そうじゃないんです。お婆さんは逃げません。だってここがお婆さんの帰るところだからです!」
「なにを言っているの?」
「全て分かったんです。お婆さんは電車に乗ってどこかに行こうとしていたんじゃないんです。もうずっと前から目的地についていたんです!」
「目的地についていた? だったら当の昔に帰られている筈でしょう。なのにお婆さんはずっと待合室にいたじゃないの」
「足りなかったんです」
「足りない……足りないってなにが?」
「駅のホームです。あれを見てください!」
背後の小さな祠のようなものを指差す。薫さんはそちらへ目を向けた。注意がそちらに向き、力が弱まった。一息を入れ、全ての事情を説明する。
「慰霊碑です。戦時中、機銃掃射で列車に乗っていた人達が犠牲になった事があったんです。その人達の慰霊碑です」
「慰霊碑……?」
薫さんは怪訝そうに辺りを見渡した。
「そんなものがなんで鉄道の敷地内の、しかもこんな中途半端なところにあるのよ」
「元はあの駅のホームだったんです。戦時中はこの辺までホームだったようです。で、暫くしてからホームを短くしたんですけど慰霊碑は移動せずにここに残したらしいのです」
「……、それで? この慰霊碑とお婆さんがどんな関係だと言うの?」
「犠牲になった人の中にお婆さんのお孫さんがいたんようなんです」
「孫……」
「ここからは頭に流れ込んできたお婆さんの記憶の断片からの私の想像なんですけど、お婆さんはお孫さんを迎えにこの駅まで来たのです。ただ、なにかの都合で迎えにくる時間が遅れた。そのせいでお孫さんが犠牲になったんだと思います。
その事をずっと悔やんでいたんだと思います。
その後、亡くなられた時にもう一度お孫さんを迎えに駅に来たんです。でも、その頃には駅のホームは短くなっていて慰霊碑に行くことができずにずっと待合室で立ち往生していたのです」
「まさか、そんなことが……あるっていうの?」
「はい。現に今……」
薫さんには見えないのだろう。けれど私にはしっかりと慰霊碑のところに男の子が1人立っているのが見えた。男の子は笑いながらお婆さんに手をさし伸べていた。お婆さんがその手を掴んだ次の瞬間、2人は光に包まれて消えた。
「今、お婆さん、帰られました」
「……そうみたいね」
薫さんはすんすんと少し鼻を鳴らすとそう応えた。
「ふぅ……」
一気に力が抜け、両膝から地面に崩れ落ちた。
そこに薫さんのカミナリが落ちた。
「日葵ちゃん! 全くあなたって人は……
今回はたまたま上手く行ったから良いようにものだけど、上手く行かなかったらどう責任取るつもりだったの? 自分勝手にやるんではなくちゃんと相談してください!」
「す、すみません。でも、薫さんはさっき物凄く怖かったから。説明する間もなく問答無用にお婆さんを祓ってしまいそうだったから、もう必死だったんです」
「もう! 人を鬼のように言って、失礼しちゃうわね」
「いえ、鬼より怖かったです」
「なにおぅ! もう、許さないわ。こっち来なさい」
薫さんは私の手を掴むと強制的に立ちあがらさせられた。
「罰として、お風呂に入れてからマッサージの刑に処すわ! さあ、キリキリ歩きなさい!!」
「ええ?!」
問答無用で薫さんに引っ立てられる。
そして、その夜もお風呂に呼ばれ、マッサージをしてもらい、晩御飯もご馳走になったのでした。
私の名前は向日葵
帰れなくなった霊をあるべきところへ帰り届ける帰り師をしています。
2023/08/01 初稿