猫背とみつあみ
pixiv、個人サイト(ブログ)にも同様の文章を投稿しております。
ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります。
【猫背の夜】
予備校の帰り、猫背の後姿を見つけた。とぼとぼ歩くまあるい背中は、同じクラスの砂村次郎のものだとすぐに判った。
薄いピンク色のティーシャツは首元がだるんだるんに伸びていて、肩からずり落ちそうになっている。
「砂村くん」
呼びかけると、猫背の後姿はピタリと歩くのを止めた。
ゆっくりと身体の向きを換え、砂村次郎はへらっと笑った。
「あー。せがわさーん」
間延びした調子で呼ばれ、肩の力が抜ける。
「じゅくー?」
砂村次郎は、ペタンペタンとゴムぞうりを鳴らし、私のすぐ目の前まで歩み寄る。
ビーチサンダルと呼ぶにはくたびれ過ぎているそれは、ペタンペタン、と夜の空気を乱した。
「うん。いま帰り」
私は彼を見上げる形になる。
茶色いサラサラの前髪から、笑った目が見え隠れしている。
「砂村くんは、どこへ行ってたの?」
「んーと。どこというか。どこへでも」
そう言って、砂村次郎は首を傾げる。
髪の毛が流れ、隠れていた耳たぶが覗く。
「散歩?」
尋ねると、
「そんなとこ」
と、彼はまた、へらっと笑った。
「いきぬきー」
伸びたティーシャツの首元からは鎖骨が丸見えで、私は唾を飲み込んだ。
砂村次郎の鎖骨は、きれいだ。とても。
猫一匹も見あたらない住宅街。
並んで歩くと、彼からは乾いたばかりの洗濯物の匂いがした。お日様の匂い。よその家の匂い。
あたたかいそれは、夜の冷たい空気に混じり、気持ち良く私の嗅覚を刺激した。
「せがわさんは、しぼーだいがくどこだっけ?」
砂村次郎は言った。
彼の発する言葉は、すべてひらがなに聴こえる。
私は、「瀬川さんは、志望大学どこだっけ」と、頭の中で彼の言葉を漢字に変換する。
その言葉から世間話が始まり、
「やっぱさー、もう、はんそでたんぱんじゃあ、さむいよねー」
という、全く関係のない話題で世間話は終わった。
受験生は焦る、十月。
センター試験まで、もう日がない。
確かに夜は、いつの間にか肌寒くなっていた。
「そうだね」
と私は頷く。
正直、世間話なんて右から左だ。全然頭に入らない。
その間、私はずっと、惜し気もなく露出された彼の鎖骨を見ていた。髪の毛からチラリと覗く耳たぶを見ていた。彼が喋る度に動く喉仏を見ていた。やわらかそうな唇を見ていた。ショートパンツから覗く膝小僧を見ていた。
ゴムぞうりがペタンペタンと空気を揺らす。
「みつあみって、さいきんあんまみないよねー」
砂村次郎は、私の髪形を見て言った。
「みつあみ、かわいいね」
「え」
邪魔な髪の毛をふたつに分けてまとめただけの、どうでもいい髪形を、砂村次郎は「かわいい」と言った。
変なやつだ。
眩暈がする。
ここ数週間、根詰めて勉強していたのもいけなかったのかもしれない。
私の理性は欲に打ち負かされた。
私は、彼の前髪から覗く目をじっと見た。
「え」
砂村次郎は一瞬たじろいだ。
「なに?」
まるまっていた猫背が少しだけ伸びる。
「砂村くん」
呼ぶと、
「うん」
と笑う。
「さわっても、いい?」
「う、」
うん、と言いかけたらしい彼の笑顔が凍りついた。
「え」
砂村次郎は、目をくるんと泳がせた。
「さわるって、どこ、を?」
動揺しているのか、目がくるんくるんと位置を変える。視線が合わない。
「いや、さわらせてくれるなら、どこでもいいよ」
さわりたかったのは鎖骨なのだけど、それを口にするのはさすがに憚られ、私は言葉を濁した。
「あ」
砂村次郎は口をぱくぱくさせながら、やっと私と視線を合わせる。
「あ、あ、じゃあ、」
と差し出されたのは彼の右手。
少しがっかりしたけれど、せっかくさわらせてくれるのだから、と顔には出さず、私はそれを左手で握った。
そのままふたり、歩みを進める。
ああ。なんというか。
繋いだ手から伝わる体温で、ただそれだけで、欲は意外と満たされるものだな、と思う。それどころか、日々ぐるぐるとつきまとう、「勉強しなきゃ」という焦りや苛立ちまでもが、なんだかどうでもいいことのように感じてしまい、少し怖くなった。
私は彼の手を強く握る。
そうしたら、彼が微かに震えたものだから、ごめんね、と思いながら、握る力を少し緩めた。
すると、今度は彼のほうから強く握ってくる。
一体どうすればいいのだ。
「しらなかった」
砂村次郎は言った。
「せがわさん、おれのこと、すきだったの?」
思わず、彼の顔を見上げる。
髪の毛から覗いた耳たぶが、ほんのり朱くなっていた。
「え」
今度は、私がたじろいだ。
「え」
砂村次郎もたじろいだ。
「え。ちがうの」
彼の目の奥が不安そうに揺れる。
「わからない」
私は正直に言った。
「えー」
砂村次郎は泣きそうな声を上げる。「ただ、エロい目では見てた。砂村くんのこと。ずっと」
さらに正直に言うと、彼は絶句した。
「ごめん」
謝ると、
「いや。うん……」
彼は、ふるふると頭を振った。
サラサラと前髪が揺れる。
そして砂村次郎は、
「ま、いっか」
と笑った。へらっ、と。
「おれもみてたし、せがわさんのこと」
「エロい目で?」
「え。いやいや、ちが……うこともないんだけど。うん、いや、やっぱりちがう、な」
「ふうん」
ま、いっか。
再びそう呟いた彼の声が、耳に残った。
そして、私は、やっぱり砂村次郎の鎖骨や耳たぶや喉仏や唇や膝小僧を見ていた。
そのついでに彼の顔を見上げると、視線がかち合って、お互いたじろく。
そんな時、鎖骨ではなく彼のまあるい猫背に目が行って、さらにはかわいらしいと思ってしまうのだから、不思議だ。
ペタンペタンと響くゴムぞうりの音が、なんだか照れくさくて、困る。
いや、もう、本当に。
【みつあみオオカミ】
五月の最初くらいだったと思う。委員会で帰りが遅くなった。
その日は、昼から雨が降り始め、学校全体が静かにまどろんでいるみたいだった。
すぐやみそうだけどな、と友だちと言い合って、傘を持っていなかったおれは、靴箱のところでぼんやりと突っ立っていた。
すぐやむと思った雨は、全然やまない。
しょうがない、と覚悟を決め、靴箱からバコンと靴を放るように出して、履く。
ぬれてかえるっきゃないですねー。と、空を仰ぐ。
その時、ひとの気配を感じて振り向いた。
「あ。せがわさん」
同じクラスの瀬川栞が立っていた。
きっちりと固く編まれた長いみつあみが、定規のようにスラッと真っ直ぐに垂れている。
「砂村くんも、傘ないの?」
瀬川さんは言った。
「うん」
おれは、笑って頷く。
「濡れて帰るしかないね」
瀬川さんは、感情のこもらない声で言った。
「学ラン、貸そうか。かぶってかえったら?」
おれが言うと、
「いいよ」
瀬川さんは驚いたように言った。
「砂村くんがかぶりなよ」
そう言って、瀬川さんは躊躇いもなく雨の中に飛び出した。
ひとりだけそういうのもなあ、と思い、おれは結局学ランをかぶらず、着たままで雨に濡れる。
なんとなくいっしょに走って、とりあえずいっしょにたばこ屋の屋根の下に駆け込んだ。
シャッターは閉まっている。
「良かった。やみそう」
瀬川さんが呟いた。雨が弱まってきている。
瀬川さんは、全身ずぶ濡れで、前髪からポタポタと雫を垂らしていた。
「あ。おれ、タオルある」
かすよ、と言う前に、
「大丈夫。持ってる」
瀬川さんは、カバンからタオルを出して見せた。美化委員会で花壇の手入れをする予定だったので、持ってきていたと言う。
「雨で中止になったけどね」
そう言いながら、瀬川さんは、みつあみの髪の毛を乱暴にほどいて、タオルでバサバサと水気を取った。それから、タオルをカバンに仕舞い、替わりにブラシを取り出して、これまた乱暴に梳かし始めた。
それが終わると、ブラシをカバンに突っ込むようにして仕舞い、髪の毛を後頭部でふたつに分ける。
瀬川さんは、右側のそれをぐいぐいと固く編み始めた。
おれも自分の髪を拭きながら、それを見ていた。
丈夫なロープを編む、職人みたいだ。
そう思いながら、ぼんやり眺めていると、
「砂村くん、手伝って」
瀬川さんが言う。
「え」
おれは、とまどう。
「左、編んで」
「え。で、でも、おれ、たぶんうまくできない」
「いいよ」
瀬川さんは、器用に手を動かしながら、そっけなく言う。
おれは、瀬川さんの髪の毛をおそるおそる編み始めた。
おんなのこのかみのけにさわったのは、はじめてかもしれない。
そう思ったら、心臓がばくばくと跳ねて、胃のあたりがきゅうっと縮むような感じがした。
おれは、無意識に瞬きを繰り返す。
なんだか涙が出そうだった。
瀬川さんの髪の毛は濡れて冷たくなっていて、風邪をひかなきゃいいな、と思いながら、おれはいっしょけんめい、瀬川さんの髪の毛を編んだ。
やっぱり、うまく編めなくて、
「ごめんね」
と謝ると、
「いいんだ。ありがとう」
瀬川さんは、鼻にしわを寄せて、にいっと歯を見せて笑った。
オオカミみたいなわらいかただな。
オオカミがどんなふうに笑うのかなんて知らないけど、そう思った。
ぼうっとしていると、瀬川さんの白い手が、おれの首元に伸びた。
「ここまで留めてたら、きつくない?」
瀬川さんの声をぼんやりと聴く。
雨のにおいと、瀬川さんのにおいが混ざり合って、くらくらする。
瀬川さんは、背伸びをして、
プチン。と、おれの詰め襟のホックを外した。
「あ、」
吐息といっしょに変な声が出てしまい、おれは赤面する。
瀬川さんは、おれの学ランのボタンをプチプチと外していく。
なにしてるの、と訊いても良かったし、じぶんでやるよ、と言っても良かった。だけど、おれはバカみたいに突っ立って、されるがままになっていた。
動けなかった。
「中は濡れてないね」
学ランのボタンを全部外し終わった瀬川さんは、おれのカッターシャツのボタンも、なぜだかふたつほど外して言った。
「良かった」
オオカミみたいに笑う。
「もう雨やんだし、学ラン脱いで帰ったら。濡れてて気持ち悪いでしょう」
瀬川さんは言った。おれは、
「ううん」
と首を振っていた。
「ボタン、とめて……」
溢れた言葉が、妙にあまえたような響きを含んでいて、驚いた。
おれ、こんなあまったるい声、初めて出した。
「うん」
瀬川さんは頷いて、学ランのボタンを下から順番に留め始める。
上までボタンを留めて、
「ここも、留める?」
と、ホックに指をかけた。
「うん」
おれは頷いて、瀬川さんが背伸びをしなくてもいいように、少し上半身を倒した。
カチ、とホックが留まる。
「風邪ひかないようにね」
瀬川さんは、にいっと笑った。
オオカミだ。
めまいがした。
それからだ。
それから、瀬川さんのことが気になって仕方ない。
目がゆらゆらと瀬川さんの姿を探す。
見つけると、それを追う。
頭の中が瀬川さんだらけで、どうしようもなく甘くて、息苦しかった。
それでも、受験生は勉強をしなくちゃいけなくて、頭の中の瀬川さんを無理矢理に押し出して、代わりに過去問をどんどん解いた。
瀬川さんのみつあみは、きっちりときれいに真っ直ぐ垂れていて、当然、もう、おれが編んだへたくそなみつあみではなかったのだけど、でも、あの日は、あの日だけは、あの、かたっぽのみつあみは、おれが編んだんだ。そう思うと、また心臓がばくばくと跳ねた。
身体の中のいろんなものが収縮しているみたいに、苦しい。
そして、それが時々、気持ち良かったりもするから、わけがわからない。
十月。
空にきれいな月が浮かんだ。満月だ。
遠吠えが聴こえてきそうに、きれいなお月さまだった。
瀬川さんに、あいたいな、と思った。
理由は、それだけで充分だった。
どこ行くんだ、と背中に兄貴の声を聞きながら、ビーサンを足に引っかける。気がついたら、玄関のドアを開けていた。
「ちょっと、散歩。いきぬき」
それだけ言って、外に出た。
半袖からはみ出た、何にも守られていない腕が寒い。短パンからはみ出たふくらはぎが寒い。
ちゃんとした格好をしてくれば良かった。ティーシャツの首元も、もう伸びきっていて、すうすうと風が通る。
ビーサンが、ペタペタと鳴った。
瀬川さんに、あいたいな。
ただ、思うだけ。別に、あてなんかない。
思えば届くなんて、そんなことを信じているわけではないけれど、でも、ただ思う。
寒くて背中がまるまった。その時、
「砂村くん」
と、背後から呼びかけられた。
ゆっくりと振り向くと、瀬川さんがいた。
瀬川さんの頭上には、お月さま。
瀬川さんが、にいっと笑う。
オオカミみたい。
「あー。せがわさーん」
おれはうれしくなって、瀬川さんに歩み寄る。
「じゅくー?」
「うん。いま帰り」
瀬川さんは、おれを見上げて言った。
「砂村くんは、どこへ行ってたの?」
と訊かれたけれど、まさか、瀬川さんにあいたくて徘徊してました、なんて、とてもじゃないけど言えるわけがない。
おれは、のらりくらりと誤魔化して笑う。
真っ直ぐなみつあみに、くらくらする。
頭の中が瀬川さんでいっぱいで、こんがらがって、ひどいことになっている。
たぶん、瀬川さんのそのみつあみに、おれのなにかもいっしょにからまってるんじゃないかな。
ああ。やっぱり、ちゃんとしたかっこうしてくればよかった。
寒さとは全然別のところで、おれは思った。
了
ありがとうございました。




