ホット・ショット
吐瀉物で汚れた口の周りを洗い流しつつ、毛づくろいをしているフルを眺める。毛皮に少しかかったようで、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら身を清める姿は、妙に可愛らしい。もちろん舌による毛づくろいではなく、水で洗ってから櫛で整えているようだ。
ちなみに貸してもらった水筒は、植物から水分を抽出濾過できる優れものらしい。優れものってレベルじゃないけど。聞きたいことがどんどん増えていく状況だが、眼下の街へ入ればそれも解決できるだろう。落ち着いて話せる場所ができたのは、非常に喜ばしいことだ。
「ふぃー……ったく、散々だぜぇ」
「そんなに気にしなくても、汚物程度で価値を落とす君の毛皮じゃないさ」
「あのなぁ……たっけえ指輪でもさ、一回便器に落ちたって聞いたらイヤだろ?」
「確かに。近寄らないでくれる?」
「誰のせいだと思ってんの!?」
「冗談冗談。でもほんとに匂いとかは残ってないぜ。変わらず良い香りさ」
「だから嗅ぐなってぇ…」
いや、僕も人の体臭を嗅ぐ趣味は持ち合わせていないんだけど……いかんせん、人を惹きつける匂いだ。朝方のパン屋さんに近付くと幸せな気持ちになれる──それと一緒だろう。少しのあいだ二人でワチャワチャした後、ようやく出発と相成った。
「さってと……先に言っとくけどよ、オイラもあの街の勝手はわかんねぇ」
「えぇ? 役立たずだなぁ」
「おぉい!?」
「ウソウソ、これ以上ないくらい感謝してるさ。それで?」
「ったく……一々質問に説明したくねぇから、まずは全部聞けよ? この世界の文明はなぁ、奥に行けば行くほど独自性がツエーんだ。“入口”付近は発展してるけどよ、この辺りになってくるとそもそも来れる奴があんまいねえから、ガラパゴスみてえなもんだ。そんで──」
「入口っていうのは?」
「全部聞いてからって言ったろ!?」
「じゃあまず『全部』の定義から決めていこっか」
「いつまでかかんだよ。ハァ……そ・ん・で──だ。基本的に、どこの集落も文化の大元は日本だ。大抵は日本語で喋ってっし、ここもそれは外してねえと思う」
「ふむふむ」
「わかりやすく言うとだな……んー……日本人が無人島に漂流して、そこで文化を築いたとするだろぉ? 外部との交流はほとんど無しで、数百年間かけて独自に発展した──っつー感じだ。訳わかんねえ決まりごとがあるかもしんねえし、ひょっとしたら外部の人間は受け入れてないってこともある」
「ほうほう……フルみたいな──獣人? を受け入れてない可能性もあると。すまない、君との友情もここまでみたいだ」
「手のひら返し! …まあもう慣れてきたけどよぉ。冗談は程々にしよけよなぁ、ったく」
「…」
「え? ちょ、冗談だよな…?」
「…」
「なんか言えよぉ!」
「あはは、冗談ですよフルさん」
「他人行儀になってる!」
まあ恩知らずになりたくはないし、彼に何か不都合があったのなら、僕は全力で助けになる所存である。ちょっとショックを受けているフルの頭を撫でながら、話の続きを促す。尻尾が安心したように揺れる──こういうところは子供らしくて可愛らしいな。僕との友情なんか、フルにとってはなんのメリットもないだろうに。
「『獣人』ってーのはなぁ、人によっちゃ嫌われるからやめとけよ? オイラたちみたいなのは“浮葉”って呼ばれてんだ……まあ場所によっちゃ違うだろうけど。それとなぁ、双樹みたいな原種の方がいまどき珍しいかんなぁ。地球だけでも七%くらいしかいねえし、他の世界も入れると余裕で一%切ってんなぁ。基本的に変種の方が優性遺伝なんだぜぇ」
「聞きたいことがまた増えた…」
「とにかく大事なことだけ伝えるとだなぁ……この“異世界”はオイラたち浮葉がいっちゃん多い。特に奥地まで行くとほぼ百%だろうなぁ」
「ということはつまり──」
「双樹のが少数派ってことだなぁ」
「尊い友情の復活だね、フル」
「調子良すぎねえ!?」
フルみたいな子が沢山いる街か……沢山っていうか全部? とにかく、ケモナーがいたら滂沱の涙を流すこと請け合いだろう。いや、ケモ度の嗜好によっては地獄かもしれん。なんて業の深い性癖なんだ。
「まあ……なんつーか、何が起きてもおかしくねえってことだな。場合によっちゃあ、とんぼ返りも充分ありえるかんなぁ?」
「肝に銘じとくよ」
「…人種差別とかは──たぶんないとは思っけど、一応注意しとけよなぁ」
「その言い方ってことは、ない方が普通なんだね」
「あー……ん、まあそうだな。特にこの世界だと、その……差別されて移ってきた奴らが最初だかんなぁ。『自分たちは絶対に差別しない』って考え方が根底にある──らしい。オイラもよくは知んねえけど」
「…獣の特徴があるから差別されたのかい?」
「いんや、逆だな。差別されたから獣になったんだ……ま、そのへんは追い追い教えてやるよ。あんま気持ちいい話でもないかんなぁ」
意味深な言葉を残すフル。大丈夫か? なんかこのまま死んじゃいそうなフラグを立ててない? もしくは重大な情報を秘めたまま失踪する人みたいになってないだろうか。なんか不安だし、できる限り引っ付いとこう。
「ところで、ここが待ち合わせ場所って言ってなかったっけ。離れて大丈夫?」
「『周辺で一番目立つ場所』だかんなぁ。どう考えてもあっち行くだろ」
「なるへそ……そういえば聞いてなかったけど、はぐれたお仲間さんって何人いるの?」
「二人だぜぇ。ルーチェとラリカってんだ」
「どっちもフルみたいな見た目?」
「いや、どっちも原種に近いタイプ。街に入ったんなら、聞き込みすりゃすぐわかんなぁ」
生存を微塵も疑っていないあたり、きっとその二人も強者にあたるのだろう。むしろなぜはぐれたのかが気になるところだ。吐き気の余韻を紛らわすため、ゆっくりと山を降りていくと、次第に街の雰囲気が見えてくる。
異世界かつ大森林の先にある街──というと、いかにもファンタジーな想像をしてしまうが、僕の目の前にある街は実に和風である。時代劇風味というか、まるで京都の映画村にでも迷い込んでしまったかのようだ。
ちょこちょことフルに抱えてもらいながら麓に到着し、街へと近付いたはいいものの……壁とか入り口が全く見当たらない。化け物みたいな野生生物が彷徨いているというのに、どういうことなんだ──いや、違うか。あんな大質量相手に壁なんか無意味だろうし、建てる理由がないんだろう。
そしてそれが意味するのは、少なくともこの周辺に住んでいる人々であれば、ドラゴンを討伐する術があるということだ。フルが特別というより“浮葉”が特別なのだろうか? 街の住人がみんなあのレベルだとすれば、軽く世界征服できそう。
壁はないけど物見櫓っぽい建造物はあるから、外敵の侵入自体は警戒してるんだろう。果たして僕たちを受け入れてくれるのだろうか? 既に視界には入っていると思われるが、特にあちらからのアクションはない。
そのまま真下まで行くと、浅黒い肌で犬耳を携えた男性が、気さくに声をかけてきた。僕と同い年くらいだろうか? 筋肉質でガッチリしていて、その手の人間から見ると非常に魅力的なタイプだろう。
「いよう、お疲れさん。アンタ──斬新なファッションだな」
「やあ、ありがとう。巷で話題の流行を取り入れた、プラントスタイルさ」
「マジで!?」
「うん。できれば剥がす方法を教えてもらえれば助かるんだけど」
「どんな強がりだお前…」
いまだに僕の背面と右側部分には、葉っぱが張り付いたままだ。時間が経てば粘着力も落ちてくるか──という期待と裏腹に、むしろ皮膚への馴染み具合が進んできている気がする。ちょっとした恐怖である。
「そいつは湯で洗えば取れるぜ。温度変化に弱いんだ……湯屋なら真っ直ぐ進んで、鐘塔の近くにある」
「ご丁寧にどうも。ついでにお金も貸してもらえると嬉しいな」
「ついでかそれ!?」
「なぅ……オイラたち外から来たんだ。ここは貨幣流通してんのか?」
「へぇ、そりゃ珍しいな。一日に二回も──っつうかお仲間か? ちょっと前にも一人、毛無しが通っていったけどよ」
「ほんとか!? どんなやつだった?」
「あー……なんつーか、ドスケベな格好してたな。長い黒髪の女だ」
「ああ、そりゃ間違いなくオイラの連れだ」
「えぇ…」
痴女が仲間だったとは、予想外にも程がある。フルとかは毛皮があるからまだしも、森の中で露出の激しい格好をする度胸が凄い。未開の地に住む虫に刺される恐怖はないのだろうか。巨大生物とかもあれだが、毒や病気も無視できるものじゃないだろうに。それとも無視できちゃうのかな。
「それと──ああ、通貨だったか。中心の方は使ってるけどよ、このへんは物々交換で問題ねえさ。湯で落としたらソレで払っちまやいい」
「…こんな葉っぱで大丈夫?」
「乾けばまた粘着力が戻んのさ。割と需要もあるし、入浴料にしちゃ上等だぜ」
「そりゃ助かるね」
手と尻尾を振って見送ってくれた兄さんに礼を言い、僕たちはお風呂へと向かった。明らかに嬉しそうなフルの表情から察するに、やはり毛皮から吐瀉物の匂いが抜けきっていないのだろう。もしかしたら嗅覚も普通より優れているのかもしれん。とりあえず『毛皮の汚れ>仲間の消息』という不等号なのは確かのようだ。
「…めっちゃ見られてるね」
「まあ一人だけ原種がいりゃぁな。つっても敵意はなさそうだし、気にすんなよ」
「そうは言っても、これだけ注目集めてると気になるよ。ここでいきなり裸になったらどうなるだろう、とか」
「頼むからやめてくれ」
道ゆく人々から好奇の目をさらいつつ、湯屋へと到着した。木造の立派な建物だ……というか、木造以外の建築物は全くと言っていいほど見当たらない。火事が起きたら街ごと全焼しそうな勢いである。加えて、金属らしい金属が使用されていないのも気にかかる。
「こんにちはー」
「あい、らっしゃい」
「ちょっとこの葉っぱを剥がしたいんだけど、いいかな? 代金代わりにこれは譲るって形で」
「お、バカグサの葉か。こりゃあ……おいおい、千切れてるとこ手でやったのか? すげえ馬鹿力だな、あんちゃん」
「でしょぉ?」
「オイ」
「服と葉は湯船にいれねえようにな。二人分と……二階も好きに使ってくれや」
靴を脱いで暖簾をくぐると、イグサの匂いが鼻をくすぐってきた。脱衣所を畳敷きにするとカビだらけになりそうなものだが、なにか工夫をしているのだろうか。広い空間には数人ほどが半裸で過ごしており、こちらに視線を向ける人もいれば、特に気にしていない人もいる。
“浮葉”とひとくくりにしても、その種類は様々なようだ。フルのように猫か兎に近い系統から、犬や狼、いまいちよくわからないような種類の人もいる。どういう遺伝の仕方をするのか、興味がつきない。
──そして目下のところ重要なのは、ここが混浴という部分である。脱衣所から既に男女兼用なのだが、狐耳の女性が恥ずかしげもなく裸体を晒している。なんとはなしに彼女を見つめていると、不意にバシリと目があった。彼女はほんの少しだけ口角を上げ、からかうような流し目で浴室へ入っていった……うむ、年齢は五十歳くらいと思われる。気っ風の良いおばちゃんって感じだ。
「…全裸に鞄とか、その年にして中々のフェティシズムだね。どの層に需要があるんだい?」
「なにが!?」
職人魂の感じられる籠に靴下を入れ、とりあえず着衣のまま、いざ入浴といったところで──鞄を斜めにかけ、前を隠すフルの姿が目に入った。タオルで隠すならまだわかるが、鞄で隠すのは斬新すぎるだろう。
「…あんなぁ、まだここがどういう場所かもわかんねえんだぞ? 治安がどんくらいかも知んねえし、用心しとくに越したことねえよ」
「ああ、なるほど。でも濡れちゃわない?」
ふむふむ、ほほう、完全防水とな。頑丈で汚れもつかず、防水性もある鞄か……確かに、仮に中身がなくたって価値がありそうではあるね。僕の貴重品といえば財布とスマホくらいのものだが、大して役に立たなそうだ。立たなそうだけど、一応フルの鞄に入れておいてもらおう。帰れた時に無くなってたら普通に困る。
「しかし暗いねえ」
「ん? ああ、奥地はだいたいこんなもんだかんなぁ。鉱物が少ねえから、提灯とか行灯で賄ってんのさ」
中心にやたら大きな行灯と、後はやたらと数の多い窓から光源を取っているようだ。薄暗さと、湿気を含んだ木の匂いが相まって風情を感じる。ぱっと見た感じ、お客さんは十人いるかどうかだ。まだ日も高いし、空いてる時間帯なのだろうか。
当たり前だがシャワーはないようで、桶で湯を汲んで体を洗うらしい。服を着たままの僕を訝しがる人が数人いたが、背中側を見ると納得したように視線を外していく。この暗さでバカグサとやらが見えるってことは、おそらく目の性能も優れているに違いない。優性遺伝というのも納得である。
ざばりと頭から湯を被ると、ブルリと葉が揺れて剥がれ落ちた。気持ち悪っ。え、なに、生きてるの? これ。ゾッとしつつも、解放された気分を味わいながら服を脱ぐ。今更ながらに気付いたんだが、着替えをどうしよう。乾くまでお風呂は流石に厳しいぜ。
とりあえず代金を払っていない状態は気持ちが悪いので、番台さんに葉っぱを渡しにいく。特に全裸を咎められることもなく、普通に受け取ってくれた。風紀が割と緩いのだろうか? 貞操観念がどの程度かはわからんが、少なくともムスリムなどとは程遠いようだ。
──戻ってみると、フルが体を泡だらけにして遊んでいた。いやまあ、遊んでいるわけじゃないんだろうけど……毛の生えている部分が多い関係上、全身シャンプーみたいな感じになるのだろう。白い泡が羊のようで、なんだか面白い。
「お手入れ大変そうだね」
「んー? まあ慣れたらそうでもねえよ。髪の毛よりゃ乾きやすいかんなぁ」
「背中の方、やったげるよ」
「ん……あんがとな」
猫や犬を水浸しにすると、ミイラになるのが基本だが──フルは短毛だからか、濡れても小さく見えたりはしないようだ。水を吸って泡立った毛皮は、滑らかで心地良い。思わず抱きつきたい気分である。
「うぎゃぁぁ!? ヤメロこらぁ!」
「まるで贅沢な巨大タワシだ…!」
「例え方!」
なんやかやで僕もだいぶ汚れていたし、街へ入ってすぐお風呂に入れたのは幸運だった。街並みは古い時代を思わせるが、水源は豊富なようで、お湯を大量に使用しても問題はないみたいだ。温泉ではないけど、かけ流しであるところを見るに、燃料はかなり安価に流通しているのだろう。
というか、かけ流しじゃないとドンドン抜け毛が溜まっていくんだろうな。人種が違うと様式も変わるという良い見本だ。
「いい湯だねぇ…」
「だなぁ…」
かなり熱いお湯だが、疲労を取るにはその方が良い。科学的に正しいかは知らないけど、気分的には正しいのである。ようやくリラックスできたこともあり、対面にいたフルの隣へ移動し、後回しにしていた諸々を聞いてみる。
「落ち着いたところで、色々聞いときたいんだけど……いいかい?」
「おう。オイラも聞きたいこといっぱいあるかんなぁ。交互に一つずつ聞いてくってことでいいか?」
「オーケー。じゃあまず──」
「──全員動くな! 盗っ人改めである!」
「…まず、あれが何か聞きたいな」
「オイラもわかんねえ」
いざQ&Aのお時間だと思いきや、厳つい男性数人がドヤドヤと浴室に入ってきた。面倒事とは常に間の悪さを伴うものだ。できれば穏便に終わってほしいところだけど──そう思えないのが、最近の僕の幸運事情である。