商人への道・その2
令和元年、おめでとうございます。
これからも「雪女になったから、氷を売りながら旅をします」をよろしくお願いします。
byアークメイツ
支部長の家に泊めてもらった翌日。
気持ちよく目覚めたユキは、呼びに来たお手伝いさんの案内で昨夜の食堂に案内された。
そこで昨日と同じように冷えた状態のトーストと軽いスープをご馳走になり、朝食の後に勉強として家庭教師が部屋に来るのだと支部長に言われたが、そこにエリザさんから待ったがかかった。
「昨日、お風呂に入らなかったでしょ~。入って綺麗になってからお勉強にしたらどうかしらぁ」
風呂なんてあるのかと驚き、科学も無いこの世界じゃ風呂は金がかかるんじゃないかと思って体を水で拭くだけでいいと辞退しようとしたユキだが、エリザさんの変わらぬ笑顔での「せっかく可愛いんだから、いつも綺麗にしてなきゃ駄目よぉ」という言葉から凄みを感じたので大人しく好意に甘えることにした。
好意とか、天然とか、そんなチャチなもんじゃあ断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったよ。多分、女としての重圧。
朝食を食べた後に白装束を脱いで、風呂に入らせてもらった。
キンキンに冷えたお風呂で気持ちよかったけど、湯船に浸かる前にお手伝いさんが来て、わざわざ腕を冷やしてまで洗うのを手伝ってくれた。シャンプーとかリンスとかはなかったが、石鹸があってそれを使って全身を洗ってもらえたので心身共にスッキリとしたけど……石鹸って絶対に安くないよね?
その後は部屋へと戻り、勉強用として運び込まれた机と椅子に座りながら、ユキは家庭教師が来るのを待つことにした。
しばらくボーッとして待っていたユキだが、何もしないと言うのも落ち着かない。暇なので、適当に時間を潰していると部屋の扉が勢いよく開かれた。
「ユキ・セツナは居るか!」
女性の大きな声によって声こそは上げなかったが肩を揺らして驚いたユキは闖入者に向かって非難の目を向けると、闖入者はそんな目も気にせずに部屋に入るとユキの目の前で立ち止まり、隠そうともせずにユキを品定めするようにユキの全身を見始めので仕返しと言わんばかりにユキも闖入者である女性を見る。
今から雪山に登るのかと思う程に防寒具で全身を包み込んでおり、まるで雪だるまのようだ。ユキに合わせて低い室温となっている部屋の中で、女性は早くも赤くなった鼻をすすりながらもう1つの椅子を引き寄せると座り、突然自己紹介をした。
「今日からお前の家庭教師を命じられたベルベット・イェンシュナイトだ。厳しく行くから覚悟しろ」
「もちろんです」
氷を水にし、手を抜くとユキはベルベットに向き合う。
真剣な目を向けていると、ベルベットは気に入らなさそうに鼻を鳴らしてから机に数冊の本を置いた。
恐らく、これが教科書なんだろう。学ぶのは知識と礼儀やマナーだから、まずはその前に物価や相場から……。
ドンっと本の上に本。
さらにドン。
その隣に同じ量の本をドン。
倍プッシュかよ。
2つの本の山(推定50cm)が机に置かれ、ユキの目に宿る光が消える。
「安心しろ。これは赤ん坊が一人前の商人になるまでに学ぶ全てで、お前が持っている知識によってはほんの数冊にまで減るかもしれないぞ」
「……そうですか」
それを聞いて、ユキは項垂れた。
前世で手に入れた知識はあれど、この世界の知識はほぼ皆無。1~2冊は減るかもしれないが、それ以上減ることはまずないだろう。
「まずは文字だ。地図の中心に描かれている五大陸などなら共通の世界文字を使っているが、極東の島国……邪藩紅では世界文字とは別で漢字と片仮名に平仮名という文字も使う。これがそうだな」
そう言うやいなや、ベルベットは子供が使うような文字表と実際に交渉に使われていそうな正式書類のようなものをユキへと見せて来た。そして後者の書類のようなものを見たユキは驚く。
それはどう見ても漢字と平仮名、そして商人の名前らしい片仮名。この世界にも漢字や平仮名もあるのかと内容を確認するとどうやら金や酒を輸出する為の許可状のようだ。
(漢字と片仮名に平仮名は日本と同じだな。世界文字は読めるだけで書けるかどうか分からないけど)
極東の島国こと邪藩紅が日本のような国という可能性が高くなったが、名前と同様に置いておいてユキはうんと頷いた。
「世界文字の方は読めます。書けるかと言われたら怪しいですが」
「漢字と片仮名と平仮名はどうだ」
「そちらの読み書きは出来ますね。手紙も書けますよ」
ユキの言葉を聞いたベルベットは唖然としていたが、すぐに戻って頭を抱えた。
「それなりに大きくなった子供に、商人としての礼儀やマナー以外に何を教える必要があるのかと思っていたが……お前の家庭教師を命じられた理由がよく分かったよ」
「あの、もしかして私……やっちゃいました?」
「あぁ。まず最初に邪藩紅とは五大陸の商人はまだ数える程度しか交易をしていない。そしてその全員は国に雇われてだ。その理由は……分かるか?」
「えーと、もしかして文字ですか?」
ユキの答えにベルベットは頷く。
「言葉は通じるが、文字は全くの別物。しかも一国で文字が3種類あるし、漢字は1つの文字で幾つもの読み方がある上に使用する方法で様々な変化がある。何より無理やり当てはめたような読み方まであって世界で最も難しい文字だと言われている」
「あー……」
確かに前世でも日本語は最も難しい言語の1つだと言われていたので、難しいとは思う。でも、世界で最も難しいかと言われると首を捻らざるを得ないと思うのは日本生まれだからだろうか。
そこまで考えたユキはとりあえずと、物の数え方を聞くとベルベットの答えは世界全体(邪藩紅も例外ではなく)前世と同じ数え方だった。なので、新しく数え方を覚えなくて良くなったユキはほっと胸を撫で下ろす。だが、まだ何も始まっていない状態だ。
ユキは気を引き締めてベルベットの指南に耳を傾けた。
ベルベットは邪藩紅がどんな国なのかを熱心に教えてくれて、それを前世の歴史と照らし合わせると江戸時代初期と同じ辺りなのではないだろうか。
前世の歴史と違うのは鎖国はしておらず、結構開放的らしい。ただ、一番近い東大陸の港町から船で何ヶ月もかけてようやく辿り着ける距離にあるので、邪藩紅のものは総じて高いらしい。
ユキが買った升もただの木で作ったものだが、邪藩紅産であるので金貨3枚というぼったくりらしい。ベルベット曰くあんなものはそこらへんの木工に頼めば銀貨2枚で作ってくれるので、あんなものを買う奴の気が知れないらしい。
……うん、買った張本人を前に言うかね普通。支部長から伝えられてないのか、それとも知っていていじめ……弄ってきているのかベルベットさんは気にしていない様子で升をこけ下ろす。ただ、木目の美しさや使い心地の良さは評価しているようで金貨1枚くらいなら良いんだけどなとフォローもしたのを聞いて、この人も商人なのかなとユキは思いました、まる。
ユキがぼったくられた現実から逃避するように感想を心の中で述べていると、ベルベットの邪藩紅の話が終わる。
というよりは我に返ったというべきか、ベルベットはわざとらしく咳払いをすると机に置いた本の1冊を手にとった。
「話が逸れたな。えーと、文字についてはそっちの文字表を見て自習しろ。大陸大陸って言っていたが、大陸については?」
「全く知りません」
きっぱり、正直に言うとベルベットは「だろうな」と呟いて手にとった本の最初のページを開いた。
そこには1つの大陸を拡大して国境が幾つも描かれた地図が載っていた。
「これが中央大陸だ。ページをめくれば他の大陸の拡大図もあるし、国ごとに詳細な地図もある。ちなみに平民には地図は全く必要ないが、その理由はわかるか?」
ベルベットの挑戦的な質問にユキは考えるが、全く思いつかない。なので、正直にそう言うとベルベットは本を閉じて答えを出した。
「人間ってのはな、余程なことが無ければ今の生活を受け入れてそこから動かないんだ。もし動いたとしても国は跨がない。冒険者や商人は場合によっては跨ぐことになるが、それでも年に1回あるかないか。余程の物好きか余程なことがあった奴じゃないと頻繁に国を跨いだりなどしない。つまり、一生国から出ない奴がほとんどだ」
「一生国から出ないのがほとんど……」
言われて見れば、確かにそれはそうだ。
前世は飛行機や船などの技術が発達したから気軽に国外旅行を出来るが、この世界ではそんな技術は無い……のかもしれない。よしんばあったとしても(この都市の文明力から察するに中世ほどなので)存在自体が国家機密レベルになるだろう。国民も国どころか村や都市から特別な用が無ければ出ること無く一生を終える……といったのがユキが抱いたイメージだ。
あっているだろうかとベルベットに聞くとまさにその通りらしく、税などは国が派遣した徴税人が都市や村を回って回収するし、貨幣も商人が足を運んで農作物などを買い取るので、余程のことがないと本当に外に出ることが無い。
ここまで徹底していると国の政策で行っているのかと勘ぐりたくなるが、住んでいた場所を移動したら国に報告する必要はあるが事後承諾でも構わないらしいし、別の国に引っ越したからと金品を徴収するということはない。むしろ、世界(五大陸)共通で婚姻や老いた親を引き取ったりしたら祝い金や援助金が出るらしい。
滅茶苦茶ホワイトでした。
「平民は世界地図なんて見ないし、見ても国境以上の情報を知る必要も無い。近場なら分かるし、それに少し調べれば地図を見ることが出来る」
知らないし、知る必要もない。でも、知ろうとすれば知ることが出来る。何の問題もない。
そうユキが納得したのを見てベルベットの次の単元に移る。
「で、次は……特産品や国や都市の特徴だな」
ベルベットの言葉で現実に帰ってきたユキの前に、推定数百ページほどある辞書のように分厚い本が2冊置かれた。表紙には世界国家都市一覧、特産品一覧とそれぞれ書かれている。
「これを全部覚えろっていうのは酷だからな、この2冊はお前にやるそうだ」
「ありがとうございます」
本というのは高いと思っていたが、ポンっとくれるということはそれほど高いわけじゃなさそうだ。ユキは支部長に感謝を捧げながらその2冊を手に取ると、ベルベットが手を差し出してきた。
「銀貨3枚な」
「ですよねー」
ただの見習いだろうとちゃんと代金をせびるなんて、徹底してるなぁと思いつつユキは本の代金をベルベットに支払う。
これでユキの所持残高は金貨1枚と銀貨4枚になる。
代金を払って晴れて自分のものになった本を、ユキはパラパラと流し読みする。見る限りでは全てのページに挿絵とびっしりと説明が書かれていて、読み終わるのに凄まじい時間がかかることになるだろう。
「ん?」
その中の1ページに書籍都市という都市の項目があり、そこには世界国家都市一覧と特産品一覧の定価がそれぞれ金貨10枚と金貨15枚と書いてあった。それを合わせて銀貨3枚で売ってくれる支部長はとても良心的だと気づき、とても期待されている……と思うことにしたユキは本を閉じてベルベットに向き合う。
「支部長にありがとうございますとお伝えください」
「あぁ、伝えとくよ」
「ありがとうございます」
「……次に行くぞ」
ぶっきらぼうではあるが頷いてくれたベルベットにもお礼を言うと、照れを隠すように講義を再開したのでユキはそれに意識を傾けた。
「以上で終わるが、質問はあるか?」
「ありません」
一日目の講義を終え、ユキはベルベットにお礼を言ってから見送り───と言っても部屋の扉までだけど───をするとすぐに復習を始めた。前世では復習はよくやっていたらしく、手馴れたものだ。
(まぁ、書き取りをするだけだけどね!)
講義の途中でベルベットが思い出したように出した寒冷地用の紙と鉛筆型の炭に麻紐を巻いた炭筆で書き取りをするユキ。傍目……いや、どう見ても頑張って勉強をする幼女だがユキは気にせずに世界文字を紙に書き写していく。
「は、ひ、ふ、へ、ほ。な、に、ぬ……「クーッキュルルッ」
しばらくユキのつぶやきと炭筆が紙を削る音だけの部屋に不意に鳴った可愛らしい音が響く。その音でユキは手を止めてフォークを手に取ると、机の隅に置いてある昼食として運ばれて冷め切った一口大の肉にフォークを突き刺し口に運びながら書き取りを再開するという、さながら徹夜をする受験生のような行為をするのは少しでも早く一人前になりたいからか。それとも長く世話になってはいけないという思考からか。もしくはその両方か。
ユキの商人への道はまだ始まったばかりである。