9.十六夜
部屋に戻った月玲は、そのまま寝台にうつぶせになった。しくしくとひとしきり泣けば悲しみは薄れ、だんだん腹も立ってくる。本当に、本当にあの男が気にくわない。もしかしたらあの男、月玲が庭に出ることまで見越して、服を贈り、見せつけるようにあの女と庭で過ごしていたのではあるまいか。まさかあのひともそれを知っているとか……。そこまで意地の悪いことは男もあの綺麗なひとも恐らくしないとわかっていながら、少女はひとりしゃくりあげる。
何て惨めなんだろう。ひとりで浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。ああ、それでも衣装には悪いことをした。これ以上皺まみれのぐしゃぐしゃになる前に脱いでしまおう。王女として過ごしていても、皺や泥で汚れた衣装を綺麗にするのが大変かくらいはよくわかっている。
そうして、ふと足元に目をやった月玲は心臓がきゅっと痛くなった。血の気が引いて顔が青ざめるのがわかる。真っ白な衣装のその裾に、かぎ裂きができていた。よく見ればわかるというようなものではない。せめて縫い目がほつれているだけならば良かったのに、なんとしたことか綺麗に布地が裂けてしまっている。きっと庭で転びかけたあの時だ。裾を踏んだか、あるいは欄干か床のささくれにでも引っ掛けたか。いずれにせよ、このまま放置していればさらに酷いことになる。早くどうにかしなければ。
破れた部分は、宝飾品で目隠しをすることも、生花で覆うこともできない部分だ。とはいえ、もともとそんな大層な品を持ってきたわけではない月玲には、もし仮に覆い隠すことがそれでできたとしても、結局選ぶことのできない方法だったのだけれど。ああでも当て布が必要なほどのものをどうすれば良いのか。
――もう、どうしたらいいの?――
誰かに相談しようと思い、けれど思い浮かんだのは先ほどまで庭にいたあのふたりだけだった。あのふたりは、裾を破った粗忽な少女のことをきっと見放したりはしないだろう。ただあのたおやかなひとは、可愛らしい妹でも見るかのように優しく微笑み、あの男はこれだから子どもはと言って笑うのだ。それがどれだけ惨めなことか、彼らにはきっとわかるまい。
月玲はずっとずっと大人になりたかった。初恋のひとを追いかけて、何度自分の歳を数えたことだろう。子どもだと思われたくなくて、早く対等になりたくて、精一杯、背伸びをしていた。そうやって生きてきたはずなのに、この国で出会ったひとはみんな自分を子どもだと言う。そうやって甘やかされてみると、その心地よさに堪らなくなるのだ。それでは今まで必死につま先立ちをしてきた自分は一体何だったというのだろう。あのひとも、大人ぶった自分を仕方がない子どもだと苦笑いしながら見つめていたのだろうか。
小さくため息をつきながら、月玲は裁縫道具を取り出した。ひとの心の内側などどれだけ考えたところでわからない。今やるべきことは、この服の修繕だ。この道具は、自分で用意した当面の品の中に入れておいたもの。だから特別上等な糸など持ってきてはいない。せめて少しでも似ている色合いのものを。そう思っているのに、白い色も赤い色も、東国のものとはどれも色が少しずつ違う。東国の夏よりも暑く、東国の冬よりも寒いこの国で染められた糸。その糸を見るたびに、お前は違うのだ、お前はこの北国にふさわしい女ではないのだと突きつけられているような気がする。
――触った分だけ布がほつれていくわ。みっともないわたしにぴったりね――
少女はそっと首を振った。あれこれと想いを巡らせながら選んだ糸で、東国の意匠をさしこんでゆく。北国独特の刺繍などできない月玲には、これが精一杯だ。縫い目は細かいとは言いがたく、花の刺繍も周りの華やかさに比べれば地味で味気ない。そもそも、この白い布地の上に咲いた北国の赤い花の名前を月玲は知らない。きっとこの国で生まれ育った女たちは、当然のようにこの花の名前を知り、刺繍として施すことができるのだろう。余所者の少女とは違うのだから。
「……っ!」
焦っていたせいだろうか、針が指先に刺さる。それほど深く刺したつもりはないのに、ぷっくりと赤い玉が指先に出来上がった。その指先を口にくわえ入れながら、月玲は目をつぶる。口の中に広がるのはどこか苦い鉄錆の味。じんじんと酷く痛むせいだろう、手が震えた。本当に痛んでいるのは針で刺してしまった指先ではなくて、きっと胸の奥にある柔らかな場所なのだろう。そうわかっていながら、少女はその事実から目を背けた。寂しいと感じるのはただの気のせいなのだと自分に言い聞かせて。