8.十五夜
月玲に贈り物が届けられたのは、真っ白な雪が北国をすっぽり覆ってしまったある日のことであった。
白地に一面赤い花の咲いたこの国の衣装は、北国に馴染めず日々を憂鬱に過ごす月玲でさえ思わずうっとりとしてしまうほどに美しい。東国の手法とは異なる刺繍は、素朴でありながら華やかで力強いものだった。
さらに東国の衣装と大きく異なるのは、女性であっても馬に乗ることができるようになっていることだろうか。東国の衣装であれば脚が丸出しになってしまうだろうが、北国のものであれば他人に脚を見せることなく馬に跨がり乗ることができる。裏地に羊の毛皮がつけられているのも北国仕様だと言えるだろう。とはいえ月玲はそもそも馬に乗れないのだが。
そこまで考えて、はたと少女は思い当たった。花嫁行列であの男に出会った日、自分はあの男の馬に乗せられたのではなかったか。あの日の少女は、東国らしい足元をふわりと覆うものを着ていたはず。その時にもしも脚がむき出しのまま持ち帰られたのだとしたら……。そこまで考えて、羞恥のあまり月玲は顔を朱に染めた。あの男のことだ、どうせ誰も子どもの脚になど興味はないと笑ったことだろうが。
――あのひとが、選んでくれたのかしら――
男の顔が思わず脳裏に浮かんだ。せっかくの贈り物だ。物に罪はあるまい。何よりこの後宮は冷える。北国らしい衣装は自分にとって必要なものだ。そう言い聞かせながら、袖を通す。やはり美しい衣装は乙女心をくすぐるとみえて、少女は自然と笑みを浮かべている。帯をほどいたときに落とした薬包を慌てて拾い、鏡の前で様子を確認してみた。なるほど、東国のものよりも着脱は簡単に出来ているらしい。わざわざ侍女を呼び、その手を煩わせる必要がないことは、きっと良いことなのだろう。帯を締めれば北国の馴染みの格好が完成だ。さて、どうせならば雪の散らつく庭でも行ってみようか。
あたりを見回せば、あの物静かな美しいひとをはじめ他の侍女も見当たらない。月玲が気を使わないように離れてくれている……というわけではないのだろう。あの男は、「態度に注意するように」と、少女に伝えたのだ。恐らくは、周りの人間たちに侮られているか、敬遠されているか。まあ、それならばそれで構わない。あのひとたちの隣は、なぜだか息がしづらいから。ひとりのほうが、気楽でいい。
――そうよ、寂しくなんてないわ――
東国と同じように造られた宮ということであれば、自ずと庭園のある場所は見当がつく。適当に足を伸ばせば、案の定小さな庭園にたどり着いた。この寒さの中では花が咲き乱れていることもなかろうが、緑のある場所で息を吸うだけでも気持ちが落ち着くことだろう。部屋のなかで閉じ籠っているよりもずっと健康的だ。そう思い、足を一歩踏み出そうとして少女は息を呑んだ。
庭の中ほどには、あの男がいる。そして、いつも月玲の身の回りを世話してくれているあの綺麗なひとも。ふたりが寄り添う姿は、まるで一枚の絵画のようだった。お互いを大切に想いあっているのがわかるような、そんな雰囲気が月玲にさえ伝わってくる。そこから離れた場所には数人の侍女たちも控えていた。侍女たちの小鳥のようなおしゃべりが、月玲のいる場所まで響いてくる。北国の言葉は月玲にはわからない。それなのに、なぜだか話しているのはきっとこんな言葉だと少女には想像がついてしまうのだ。ああ、似ていると月玲は思う。これは東国で見た両親を羨む、侍女たちの姿と同じだ。
「本当にお美しいこと」
「ええ、ええ、そうですとも」
「なんて幸運なお方でしょうか」
「本当ですわ」
「女性に生まれたからには、あのように愛されたいもの」
ああ、小さなさえずりが月玲の心をえぐる。悪意どころか東国語ですらないのに、その言葉がきつく、苦しく感じられてしまうのは、きっと自分が卑屈な人間だからだ。自分があのひとと同じくらいの美貌の持ち主なら笑って流せるだろう。父に、東国を捨てても構わないとさえ思わせた母のように。あるいは、伯父を手のひらの上で転がし、傾国とさえ呼ばれる西国の伯母のように。自分が誰かに愛されていたならば。
けれどおとぎ話は自分のもとには訪れなかった。初恋は儚く消え、夫になった男には既に愛するひとがいる。初恋のひとだけを想って生きていければそれが幸せだと思っていたのに、目の前で仲睦まじく過ごす二人を見て、自分の心はこんなにも千々に乱れている。寂しいと感じる自分が恥ずかしかった。切ないと感じる自分が哀れだった。何より、誰かに愛されたいと感じる己の浅ましさを見せつけられたのが耐えられなかった。自分はあの時、何を失っても構わないと、そう決意してあのひとに愛を乞うたのに。
きゅっと唇を引きむすんで、少女は踵を返す。やはり、自分は庭になど来るべきではなかった。人質は人質らしく、部屋の片隅で過ごすのがお似合いなのだ。正室などといって持ち上げられるのを本気にしてはいけない。
――……寂しくなんて、ないわ――
まっすぐ歩いているつもりで、途中で足がもつれて倒れそうになる。しりもちをつきかけて慌てて手をつけば、手のひらが床で擦れたのだろう、じんじんと痛んだ。ああ、本当になんて無様なのだろう。誰にも見られなくて良かった。誰かが側にいればそもそも転ばずにすんだはずなのに、そう月玲は自身を慰める。そのまま少女は泣き笑いの顔で駆け出していく。北国の風は冷たく吹きすさび、少女の髪をめちゃくちゃになぶった。