6.十日余りの月
春になるまで式は挙げない。そう言われていても、北国に到着してしまっているのだから、実質男の妻になったようなものだ。そうであれば、今夜男は新妻を抱きに来るだろう。好みでもない、男が言うところの乳臭い子どもに食指が動くことはなかろうが、形だけでも抱いてしまえば、後は心置き無く好きに過ごせるのだから。東国の姫として、それで男との子をなせたなら僥倖ですらある。そんな風に考えておきながら、ふたりが部屋から出て行った後からずっと、月玲は掛布にくるまって隠れるように小さく丸くなっていた。初めて会ったばかりの男にすべてをさらけ出すなんて。少女は指が白くなるほどに力を入れて、掛布を握り締める。怖いのだ。今にして思えば、初恋のひとのその温もりにすら、相当に緊張したのだから。
どれほどの時間が経ったのだろう。月玲はもう何度目かのため息をついた。だが、夕方になり辺りが薄暗くなっても誰も来ない。普通に考えて王のお渡りがあるならば、それなりに準備というものがあるはずだ。湯浴みなり、化粧なり、着替えなり。これはまさか本当に月玲の当初の予想通り、押し付けられた妻には興味がないということなのか。望んでいたことのはずなのに、出会ってからの男の言葉に振り回されて月玲は戸惑う。結局、月玲はどうすれば良いのだろう。まんじりともできぬまま、少女はそっと寝台から降りた。
そろそろと部屋を出て行こうとすれば、食事を持ってきた女にたしなめられる。その仕草さえたおやかで美しい。曰く、まずはゆっくりと身体を休めて旅の疲れをとるように王が仰せとのこと。つまり、今夜、あの男が月玲のもとに来ることはないということだ。「早く大きくなれ」と男が繰り返し言っていたことを思い出す。だが月玲の母も華奢で細い女人だ。どう転んでも月玲が艶やかな美女に育つことはあるまい。男は一体何を考えているのだろう。途方に暮れた少女がつい問いかけてみれば、彼女は少女が知らなかったことをひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
あの男には、既に妻がいること。それも大勢いること。何より、その妻たちは先王の後宮にいた者であること。どれもこれも初耳で、月玲は唖然とする。女に不自由したことはないと聞いてはいたし、側室が幾人かいるだろうとは思っていたが、まさかここまでとは。東国では、王が先王の後宮の女たちを引き継ぐことはない。血の繋がった母以外の女であっても、父の妻たちは子どもにとって母親として見なされるからだ。東国人たちが北国人を嫌悪するのも、この風習の強烈さが大いに関係していると言える。
それでも、あまりにも有名であるがゆえにそんな風習などとうに少女は承知していた。ここまで衝撃を受けたのは、きっとあの男に囁かれた言葉が耳に残っていたからだ。
「そして、あなたも王と特別な関係なのね?」
「……はい、ですが」
「いいの、それ以上の言葉は不要よ」
月玲は女の言葉を途中でさえぎった。何が「狼の番は一匹だけ」だ。後宮を築き、しかもその後宮の女たちは先王のものであったときた。不潔だ。ありえない。それこそ、甘い言葉で家の扉や窓を開かせ、子どもをさらっていく昔話の狼と同じ畜生ではないか。そう思わずにいられないのは、そう思わなければ身体が崩れ落ちてしまいそうだからだ。だいたい、この女もそうだ。王とただならぬ関係であろうに、どうして侍女の真似事などをやっているのだろう。
裏切られたと相手をなじるのはお門違いなのだとわかっている。輿入れ前に純潔を失った自分の方こそ、本来であれば花婿に対する大きな裏切りを犯しているのだ。けれど、あの男はそんなことなど気にしないと言わんばかりに振舞っていたではないか。これは愚かな月玲に対する罰なのだろうか。
まったく正直なのか嘘つきなのか、あの男の考えが少女にはさっぱりわからない。どうしてこんな風に自分のことを弄ぶのだろう。月玲はぎゅっと拳を握る。もういい加減にしてほしい。馬鹿な自分はすぐに舞い上がってしまう。初恋のひとに優しくされただけで、愛されているとすっかり勘違いしてしまったように。
ああ、いつまでも起きているから駄目なのだ。こんな時にはさっさと眠ってしまうに限る。朝になれば、このどうしようもない気分も少しはましになるはずだ。少女は、気遣わしげに自分を見守る女を追い出した。掛布を身体に巻きつけて横になっていれば、疲れがやはり溜まっていたのかすぐにとろりとした眠気がやってくる。
「月月……、寝ているのか?」
うつらうつらしていた月玲はその問いかけで目覚めた。とはいえ、そのまま素直に目を開けることなんてできない。用無しの新妻の元に、一体何をしにきたのやら。どうか男に気がつかれませんように。そっと少女は祈りながら、すうすうと寝息を立ててみせる。
「まったく呑気に寝るなど。お前は本当に子どもだな」
仕方がないというように大きくため息をついた後、寝台がぎしりときしんだ。あろうことか男は月玲の側に横たわったらしい。まるで愛おしむかのように、ゆっくりと髪をその手で梳かれる。
「月月、早く大きくなれ」
月月と呼ばれるたびに、大事な何かが磨り減ってしまいそうで少女は悲しくなる。自分のことを「月月」と愛称で呼んでくれたあのひとの声が、また少し遠ざかった。耳に残るのは、隣に横たわる嘘つきな男の声ばかり。ああ、髪を撫でる仕草まであのひとと同じように優しくて、またひとつ思い出が上書きされてしまうよう。やっぱりこんな男なんか、大嫌いだ。月玲はぎゅっと目をつぶる。何より嫌いなのは、この男の優しいてのひらを心地よく感じる自分自身だった。
大きくなれば自分ひとりだけを見てくれるとでも言うのだろうか。ちらりとさきほどこの部屋を出ていった綺麗なひとの後ろ姿が脳裏をよぎる。せんなきことを尋ねてしまいそうな自分が恐ろしくて、そのまま月玲は寝たふりを続けた。絶対に男の名を呼ぶことはするまいと心に強く念じながら。