5.十日夜の月
何だか長い夢を見ていたような気がする。きっと全部夢なのだ。だってほら、目を開けた先にあるのは東国で見慣れた宮中の天井だ。北国の蛮族は今もなお定住することなく、包にこだわり、家畜とともに移動しているというではないか。ふわふわの掛布に包まれたまま月玲がぼんやりしていると、たおやかな女がひとり、心配そうに月玲を覗き込んでいた。彼女が纏っている衣装は東国のものとは形も色合いも違う。何より東国の女たちは、髪をこのような布では覆わない。ああ、やはりここは北国なのだと、少女は気づかされる。
「よかった! 気がつかれましたか」
女の口から出たのは流暢な東国語だ。今思えば、あの男も月玲に向かって東国語で話しかけていた。どうやら少女は、男に抱えられている途中で気を失ってしまったらしい。疲れが溜まっていた上にあんな乱暴な扱いを受けて、よく怪我をしなかったものだと感心する。それにしてもと、目の前の女を見つめた。侍女を連れてくる必要はないと言われていたが、東国語がわかる侍女を用意してくれたのだろうか。だがしかし、この女の身なりはまるで……。
「喉は渇いていらっしやいませんか?」
そう言われて初めて月玲は喉の渇きを覚えた。考えることを一旦やめて、差し出された杯におずおずと口をつければ、ひんやりとした水の心地よさに思わず一気に飲み干す。そういえば花嫁道中はまともな旅路とは言いがたく、極力水もとらずにいたのだった。上品とは言い難い仕草だったはずなのに、目の前の彼女はそんな月玲を微笑ましそうに見守っている。そのことに気がついて、思わず少女は掛布を頭から被りたくなった。このひとから見てみれば、自分は庇護するべきただの小さな子どもでしかないのだろう。おそらく彼女は……。
「ここは?」
「北国の離宮でございますよ。さあ、お腹もすいていらっしゃるでしょう。粥はいかがですか」
差し出されたのは、乳粥だ。その匂いを嗅いで、月玲は小さく顔をしかめる。少女のことを「乳臭い子ども」と揶揄した男は、それを踏まえてこんなものを用意したのだろうか。実のところ、月玲はこの匂いが苦手なのだ。そういえば東国の父も乳粥が苦手だったから、そういうところは親子で似ているのかもしれない。
乳粥を見て思い出すのは、西国生まれの母が甘ったるい乳糜を作って若かりし頃の父にたらふく食べさせ、寝込ませたという昔話。ふたりの甘い思い出を話してもらうのが、小さな月玲はことのほか好きだった。まさかそんな両親にあっさり北国行きを命じられることになるとは。
「……ごめんなさい。何か果物はあるかしら。林檎や棗椰子のようなもので構わないのだけれど……」
月玲の言葉に、女の表情がくもる。差し出されたものを拒んだから気分を害したのだろうか。だが、嫌いなものは嫌いなのだ。湯気の立ち上る温かな器を前にして、少しばかり少女が意固地になる。そんな態度そのものが子どもの証拠なのだとわかってはいたのだけれど。
「ようやく起きたか、この寝坊助が」
あの野蛮な男が部屋に入ってきた。部屋の中だから、あの山賊まがいの毛皮は脱いできたらしい。さすがに毛皮をとれば王族らしい、昔話の化け物とは言い難い端正な顔があった。この国の主人だという男は、さも親しげに目の前の女にも声をかける。彼女自身も王の登場に嬉しさを覚えたのだろう、はにかんだように微笑んでみせた。
「子どもの面倒を見させて悪かったな」
男がその言葉に、胸がちくんとした。そっと首を振る女の仕草にも。よく見れば、少女がよく知る侍女と王族の関係よりも近い距離。ただの侍女とは思えぬ豪奢な装い。やはり彼女は……。
「目を覚まされたことですし、挨拶でも……」
「いちいちくだらん。とりたてて必要ないだろう」
ちらりと男が目の前のたおやかなひとに目を向ける。彼女も少しばかり困ったような顔をしながら、小さく頷いた。ああ、やはりそうなのだ。こんな踏み込んだ内容を相談されるだなんて。この目の前の美しいひとは、この男にとって「特別」なのだろう。どうしてだか、胸がじくじくする。愛妾や側室が他にいることなど承知していたはずだと言うのに、むしろそれを望んでいたというのに、どうして心が痛くなるのか。
挨拶すら不要だと言われる新妻。その意味するところを思い、少女は小さく笑った。別に男に愛されたいと思っていたわけではないのだ。ただ、ここでも自分は必要とされていない。それを明確に突きつけられた事実が悲しいだけ。ただきっと、それだけだ。そうやってひっそりと口をつぐんでいれば、男は手をつけられていない食事を見て、眉を寄せる。
「まったく、子どもは好き嫌いが多いから困る。だからお前は痩せっぽちなのだ。そのような身体では、式を挙げる春になっても子を産めぬぞ」
どうせ、自分なんか抱くつもりもないくせに。あんなに綺麗でたおやかなひとが隣にいるというのに、どうしてそんなことを言うのだろう。ああ、お情けで子種をわけてくれるというつもりか。なるほど孕みやすい時期に最低限の交わりを行えば、確かに子を授かることは可能だろう。東国との関係を考えれば、お飾りの妻と言えども完全に放置するわけにもいかないに違いない。そう思い当たって頬を膨らませる月玲に、男が小さく肩をすくめた。
「まったく、お前は。子どもと言えども、態度にはよくよく注意するがいい」
「陛下、お言葉が過ぎます」
「だが、事実だ」
寵を競うはずの相手に庇われるとは。その惨めさに少女は、両目がじわりと熱くなるのを覚えた。このふたりの前で涙を流したりしたくはない。王女としての誇りが、泣き出そうとする自分を何とか繋ぎ止める。
「もう少しだけ、休ませて。気分が悪いの」
それだけ喉の奥から絞り出すと、月玲はうつむいた。
――大丈夫、自分は大丈夫だ。ほら胸元には、ちゃんと大切なお守りがある。どうしても我慢できなくなったなら、その時は……――
下ばかりを向いていた月玲は気がつかない。胸を押さえる少女の仕草を、王たちが不審そうな眼差しで見つめていたことを。出されていた乳粥は手をつけられることもなく、すっかり冷めきってしまっていた。