4.上弦の月
月は欠け、またゆっくりと満ちていく。少女が東国の城を発ってから既に数日。ようやっと月玲たちは東国と北国の間に立ち塞がる山を降りようとしていた。国境を越えた場所に約束の出迎えもなく、それでも粛々と花嫁行列は進む。険しい山道だが、このまま行けば明け方には麓に辿り着くだろう。外はうっすらと雪が積もっているらしい。少女の吐息が、一時ばかり宙に漂い、幻のようにすぐに消えた。
――お前は何事にも思い込みが過ぎる。もっとひとの話に耳を傾けるように――
出立の前に贈られたのは些か厳しい言葉。母に言われずとも身の程はわきまえている。もとより愛情など望むべくもない結婚である。この婚姻は、双方の国益に合致すればこそ。王族の血を引く男と女でありさえすれば、ただそれだけで誰であろうと構わなかったのだ。そう、例え月玲のように王族の自覚に欠けた愚かな女だとしても、孕むことのできる腹さえあればそれで良かった。
とはいえ戦に負けた北の国にしてみれば、少女は和睦の証とは名ばかりの人質。所詮は厄介者に過ぎない。捨て置かれれば儲けもの、慈しまれることはあるまい。女の胎を持っていたとしても、精を受けなければ両国の楔となる子だってできることもないのだ。月玲は肉づきが良いとは言えない薄い体を、そっとなぞってみる。
大国の姫として生まれたからこそ、少女は己の立場をよく弁えていた。この国の王とやらは、生まれつき女に不自由したことがないのだという。愛妾や側室がすでにいるのなら、閨に呼ばれることもないだろう。日陰者で生涯を終えるかもしれない。
にも関わらず、少女はうっすらと微笑んでいた。小さな窓の向こうにあるのは細い月。広い背に出来た女の爪痕のようなその姿に乞い願う。夫君に顧みられないならば、いっそ本望だ。月玲は自らの腕で小さな身体をかき抱いた。もう二度と会うことのない、美しい想い人の残り香を思い出しながら。
たとえ未来は選べずとも。この心だけはただ己のものである。
行列の歩みが唐突に止まった。よもや野盗ではあるまいな。少女は小さく舌打ちする。ここで月玲が野垂れ死にでもすれば、ようやく終わった戦の火がまた上がる。この身を放り出した東国の父とて、娘が北国へ足を踏み入れることなく息絶えれば、さすがに剣を振り上げるだろう。東国の男たちは誇り高い。その誇りのためとあらば死すら厭わぬことを少女は知っていた。戦うべきか、それとも逃げるべきか。小太刀を持って僅かに迷ったその時だ。
「約束通り、迎えにきたぞ」
無作法にも輿の扉がこじ開けられると、朗々とした声が響き渡った。どうみてもまともとは言い難い男が、下卑た笑みを浮かべている。身にまとっている毛皮のせいか、酷く饐えた臭いがした。思わず月玲は後ずさるものの、狭い輿の中には逃げ場などあるはずもない。なぶられるくらいならばいっそ。胸元に隠しておいた例の薬に手を伸ばそうとすれば、その手をそのまま捕まれ外に引きずり出された。幼い頃に大好きだった昔話の狼と同じだ、そう少女は思う。
「一丁前に警戒などしおって。この国を担う男ぞ。心配せずとも、乳臭い子どもに手を出すほど落ちぶれてはおらぬわ」
からかうような男の物言いに、少女は顔をひきつらせる。信じられぬことに、盗人に思われた男こそが、この国の主であるらしい。乳臭い子どもで悪かったな。心の内で少女はそっと毒づく。
「まったく、早く育って俺の子をさっさと産め」
このやせっぽちが。粗野で気品のかけらもない、蛮族の長はそうのたまう。無遠慮に頬や肩を撫で回されて、少女は苛立たしげにそっぽを向いた。ごつごつとした掌も、どこかかすれた低い声も、初恋のあの美しいひととは何もかもが異なるというのに、この腕を振りほどけないのはなぜなのか。
「全部忘れさせてやる。さっさと俺のものになれ」
ああ、この男はどこまで知っているというのだ。心の内にこうもあっさりと踏み込まれるとは。自身の馬に乗せようというのだろう、少女の身体は簡単に男に抱えあげられる。結い上げた髪の飾りがしゃらりと音を立てて揺れた。
それが不快ですらないことが哀しかった。すべてを相手に預けたくなってしまうほどの力強さが悔しかった。か弱く、愚かな、世間知らずの大国の王女。侮り、嘲るような男であれば、どれほど良かったか。いっそ白々しく素知らぬふりをしてくれたならば。
俯いて唇を噛んだのを泣いていると思ったか、おとがいを無理矢理、上に向けられた。男の焦げ茶色の髪が、風になぶられている。少女と真っすぐに向かい合う男の瞳は静かに光り、その様はどこか地を這う獣にも似ていた。
「喜べ。狼の番は生涯にただ一匹だけだ」
だから何だと言うのだ。睨みつけてやれば、まるで愛おしいとでもいわんばかりに逞しい腕の内に囚われる。大切にしまいこんでいたはずの甘い香りが、知り合って間もない男の濃い草いきれの匂いにかき消された。
「口を閉じていろ。舌を噛むぞ」
呆気にとられる東国人たちを置き去りにして、男の馬は山を駆け下りてゆく。馬の背から見る景色はあっという間に流れてしまい、ただ雪の白さだけが少女の目に残る。
――ああ、どうして――
少女の言葉は聲になることもなく、夜はしんしんと更けていく。月玲の愛する美しい夜明けは、遠い。