3.三日月
月玲は意を決して、宮中の薬師の元を訪れた。なんとも都合の良いことに侍女たちは皆、月玲の前から姿を消している。普段ならば大勢いるお付きという名の監視が誰ひとりとしていないとは。侍女たちは月玲が北国へ行くことを知り、我が身に災難が振りかかるのを恐れているのかもしれない。そんな心配などせずとも大丈夫なのにと、少女はため息をつく。どうせ父は人身御供の自分にともなどつけることはないと言ったのだ。侍女たちを無理に北国へ連れて行くことはしないどころか、できないというのに。どうやら自分は男心を知るどころか、同性の人望を集めることさえできなかったらしい。
枯葉が舞い散る細い道をひとり進んでいく。薬師はどこかうらぶれた、朽ちかけた花園近くに居を構えていた。もっと華やかな場所に部屋を持つこともできるだろうに、この薬師は先王の時から頑としてこの花園の側から離れないのだという。貴重な植物がこの花園から採取できるのかもしれない。月玲が朽ちかけた木製の扉に手をかければ、まるでその気配を感じ取ったかのように人影が現れた。こざっぱりとして服装を鑑みるに、目の前の男こそがお目当の薬師らしい。
ふわりとした癖毛とつり目がちな瞳もあいまって、どこか猫のような雰囲気を持つ薬師の男は、月玲の姿を見て訝しんだようだった。青年と言えそうな若さにも関わらずひとりでここを取り仕切る彼はきっとかなり優秀なのだろう。それならば人付き合いもそつなくこなしそうなものなのに、あからさまに眉をひそめ、不審そうな表情を隠そうともしていない。確かにここは王女が来るような場所ではない。そもそもここを薬師が住まう場所と知って訪れる人間がどれほどいるものか。そうわかっていた月玲は、薬師の態度に戸惑うことはなかった。とある筋から耳にした特別な品はこの薬師からでないと手に入れられないはず。少女は回りくどい挨拶は抜きにして望みを口にする。
「お願いがあるの。『ひと思いに楽になれる薬』とやらを、どうかわたしにわけてくださる?」
唐突な少女の頼みに、薬師の目が爛々と光った。そんなところも猫のようだと、月玲は場違いにも感心する。毛を逆立てていないことがむしろ不思議なくらいだ。とはいえ、薬師は少女の態度には興味などないらしく、静かに問いただす。
「それを君に教えたのは誰?」
不敬と言われるような話し方も、この薬師にはなぜか似つかわしい。月玲は問われるままに答えようとしたものの、そのまま制止された。なるほど、薬師にとってみれば毒薬を只人に分け与えることなど皆無に等しい。薬の譲渡先など、すぐに思い浮かぶようだ。
「いや、もういい。やんごとき女人にあんなものの存在を漏らすような粗忽者は、あの馬鹿男くらいなもんだろう。どうも、こんな場所まではるばるお越しくださいました」
とびきり優雅に美しく。現国王の一番上の兄を馬鹿男呼ばわりした薬師の礼はお手本通りで、それ故に月玲のことをこれっぽっちも敬っていないことが丸わかりのものだった。先ほどまで見せていたうろんな表情もうってかわって、人懐こい笑みになっている。その変化にむしろ月玲は薄ら寒さを覚えた。父に代替わりしてからは国の体制も変わったものの、祖父である先王は暴君としても有名だった。王族に対して腹に一物抱えている人々は月玲が考えるよりも多いのかもしれない。
「それで、どうしてそんな物騒な薬が必要なのか教えてもらえるのかな、お姫さま」
名乗りもしていないのに、薬師には月玲の身分がわかったらしい。追い返すこともなく、さりとて恭しく持ち上げることもなく、薬師の考えが少女にはわからない。少女は小首を傾げながら考える。月玲にとって今一番重要なのは、男が例の薬とやらを月玲に譲ってくれるかどうかだ。薬の必要性と言われれば、月玲は黙り込むより仕方がない。人質として差し出される王女が自死してしまえば、それは外交問題なのだ。最悪戦争が起こる。だから本当に死ぬわけにはいかない。それでもそんな危険な薬が欲しい理由……それは。
「お守りかしら」
これがあればいつでも楽になれる。人生を簡単に終わらせることのできる手段が手の内にある。そう思えば、きっと自分はもう少しだけ頑張って生きていけるはずだ。そうやって騙し騙しでも時間を伸ばしていけば、気がついた頃にはすっかり老婆になっているだろう。そう思って微笑めば、いかにも気にくわないという様子で薬師がこちらを見つめている。やはりこんな答えでは薬をもらうことはできないだろうか。
「ふうん、まあ僕には関係のない話か。それにしても君たち王族って本当に愚かだよね」
そんな、誰かに聞かれでもしたら極刑ものの文句を言いながら、男は後ろに備え付けてある扉に手をかける。ずらりと並んだ薬壷の中から取り出したのは、ほんのり青みを帯びた粉薬だ。降り出したばかりの粉雪にも似ている。それを無造作に男は薬さじで掬う。掬い損ねた薬がはらはらと床に落ちた。
「本当は水薬にするのが効果が早いんだけど。持ち運ぶなら粉のままの方がいい。どうせこっそり持っていくつもりなんだろうし」
薬包に包んだそれを月玲に差し出すと、薬師は言う。
「その薬を使うなら、本当によくよく考えて。自分が飲むにしろ、相手に飲ませるにしろね。一度使ったら最後、もう元には戻せないよ」
それはそうだろう。死んだ人間を生き返らせることなどできはしない。それこそ、天界におわす天帝でもない限り。だいたいこれは「お守り」なのだ、誰かに使うつもりなんて毛頭ない。だって自分自身に使う勇気だってないのだ。だから月玲は受け取った薬をそっと胸元にしまって小さく微笑んだ。恐ろしい力を持っているはずなのに、胸元はほんのりと温かいような気がする。言い聞かせられたはずの言葉は、もうどこかに行ってしまった。
「ええ、わかってるわ。本当にどうもありがとう」
久方ぶりに頬を薄紅色に染め、生気が満ちた顔をした少女は足取りも軽く部屋を去る。その後ろ姿を、薬師はただじっと見つめていた。先程までの人懐こい笑顔はつるりと剥げて、ぞっとするほど冷たい顔をして。







