2.繊月
父の前から下がった月玲は、部屋の中でひとり寝台に横たわっていた。自分が思っていた以上に父の言葉に衝撃を受けたことが可笑しくて、少女は諦めたように笑う。輿入れが決まったというのに母が娘のもとを訪ねてくることもなく、少女はただぼんやりと視線をさまよわせていた。
――会いたい――
父の言葉を幾度となく反芻する中で想い出すのは、夜明けの空のような美しい男のこと。初恋のひとに抱きしめられて眠りについたのはつい先日のことだったというのに、まるで遠い昔の出来事のような気さえする。ひんやりとした敷布からは、あの時の熱はもはや感じない。
ふた回りも年の離れた男は、両親の古い友人だった。男に初めて会ったのは月玲が生まれた時。父の腕の中でむずがる自分は、祝いに駆けつけた男の手に抱かれるなり、けらけらと笑いこけたのだという。殻を破ったばかりの鳥の雛が目の前のものに懐くのと同様に、少女は生まれたばかりの自分に祝歌を捧げてくれた男に好意を持った。
「叔叔、大きくなったらお嫁さんにしてくださる?」
好きあった男女は夫婦になりともに暮らすのだと、そう知ってから幾度男に尋ねたものだろう。しきりに言い募った自分の、何と稚いことか。今になって思えば、幼子の戯言をどこか静かな目で見守っていた母の考えもよくわかる。この時ばかりはささやかな夢を見させておけばよい。そんな風に思われていたのだろう。王族、特に王女というものは所詮政治の道具。駒には心など必要ないのだ。
何より、少女が愛する男は一処にとどまることを望まないひとだった。いつもふんわりと微笑むばかりで、何を望んでいるのやら。近づけばひらりと躱され、追えば幻のように消えてしまう。欲しくて欲しくてたまらぬ男の心は、決して少女の手には届かない。会いたいときに自由に会えるわけでもなく、けれど諦めようと思っていると月玲の目の前に現れて甘やかしてくれる、そんなずるいひと。
年も身分も見ているその世界さえ違う男に恋をしたと最初に気がついた時、少女はそのどうしようもなさに少しだけ笑った。想いが通じることなど考えられない相手なのだ。だからこそ、このまま男の隣にいられるだけで幸せだと思っていた。多くを求めなければ、確かに男は少女を可愛がってくれる。男女の色恋ではないけれど、男は少女に対して何らかの情を持っていたはずだった。
ささやかな幸せを感じるだけでは堪えられなくなってしまったのは、北国への輿入れの話が出たからだ。東国の王族に連なる姫たちはみなまだ幼い。少女でさえ未だ十と半分を数えるほど。王が愛するのはただひとりの王妃だけ。後宮に寵愛を受ける側室などもいない以上、輿入れに最適なのは自分しかいないと月玲は気がついていた。初恋のひとに北国への輿入れを祝われ、歌のひとつなど贈られでもしたら、きっと自分は泣いてしまうに違いない。
だから、一歩踏み出した。もう気が遠くなるほど昔から焦がれた恋に、終わりを告げなければ。何事にも深入りすることを嫌う男は、きっと少女の前に二度と姿を現さないだろう。それをわかっていながら、月玲は男に愛を乞うた。後悔なんてするはずがない。もとより叶うはずのない望み。たった一夜とはいえそれを手にすることができるのならば、全てを差し出してもかまわない。
そんな月玲の心を見透かしたように、男は少女の誘いに応じてくれた。それだけではない。自分のことを「小さな姫君」としか呼ばなかった男は、あの夜だけは「月月」と愛称で呼んでくれた。綺麗になったねと、そう呟いた男の一言を少女は絶対に忘れない。愛を告げる言葉ではなかったけれど、少女に贈られた最大の賛辞は上等の蜂蜜よりも甘く尊いものだった。
――会いたい――
後悔なんてしていない。それなのになぜか止まったはずの涙が、またぽろりとこぼれてくる。少しだけ塩辛い水は敷布に染み込んで消えてしまい、あっという間に見えなくなってしまう。いっそこのまま身体ごとすべて溶けて水になってしまえばいい。そうすれば、かの巫山の女神のように、朝には雲となり、夕方には雨になってあの男の元に行くことができるだろうに。
「会いたい」
小さく、恋しい男の名を呼んでみる。ずっと呼びたくて、決して呼べなかった男の名前。もちろん返事などあろうはずもない。寝台の上に月玲はひとりきり。寂しくて、切なくて、それでもあの男に愛されたことが嬉しくて、少女はそっと自分を抱きしめた。甘い香りが少女を包むように残っている。
北国へ行く前の最後の願いだと男に愛を告げたはずなのに、心はどうしても言うことを聞いてくれない。好いた男の香りを身にまとったまま、別の男の元へ嫁ぐのがこんなにも辛いことだったなんて。愛のない世界に生きる、それは王族ならばとりたてて珍しいわけでもない普通のこと。当然のように理解していたのは頭だけで、心から納得していたわけではないことにようやく気がついた自分は、何と愚かな子どもなのだろう。そんな自分のことをあのひとはどんな風に見つめていたのか。
この恋を懐かしい想い出として苦味を感じなくなるくらい大人になったなら、あの男の心がわかるのだろうか。ああいつかそんな日が訪れるのだとしたら……。
――いっそわたしは……――
月玲の言葉は涙とともに溶けていき、誰かに聞こえることもない。