17.三十日月
息苦しいと思って目を開けてみれば、隣には寝台を占領する勢いで北国の王が眠っていた。月玲を逃がさないとばかりに、ぎゅうぎゅうに抱え込んでいる。そんなふたりを呆れたように見つめながら、薬師の男は少女に白湯を渡してくれた。
「馬鹿じゃないの。そもそも毒薬なんて、薬師が王族の姫君に渡すわけないじゃないか。見世物気分で人を踏みにじるような、どっかの横暴な国王陛下にならともかくね。まったく、君のせいで憧れの西国へ行き損ねちゃったよ」
薬の影響もあってか一晩横になった翌日のこと。朝早くから、月玲は北国の王とともに、あの薬師から診察という名の小言を聞かされていた。少女に持たされていた粉薬は致死性のある毒薬などではなく、自白剤に近いものだったらしい。酒精に近い成分で心の内側に溜めているものを吐き出しやすくする効果があるそうだ。
「君の伯父さんたちも色々と勘違いしていたみたいだけどねえ、まったく」
この薬、月玲の伯父たちも使ったことがあるらしい。一体何に使ったのかは考えないようにして、少女は目の前の薬師を見つめた。薬師は父を含め東国の王族と懇意にしているようだ。そう言えば、母は言っていなかったか。西国から東国に逃げ出してくるときに、ふたりを手助けしてくれた人間は複数いたのだと。ひとりは西国の宰相に娶られた伯母である。伯母はその昔西国一と呼ばれた妓女だったのだという。もうひとりは盲いた妓楼の主人。その主人は死にかけた西国の宰相を救ったのだとか。ただの男娼上がりの男には見えないと伯父から聞いたことがあるが、もしかしたら薬師が言っていた人物とは……。
ああ、申し訳ないと月玲は思う。また王族の面倒事に巻き込んでしまった。けれど月玲がいくら祖父の横暴を詫びたところで、この薬師の心には届かないだろう。薬師の男が再会を心待ちにしている相手が住む、西国へ逃がしてやる力もない。そもそも東国の王族の秘密を知っているのであれば、父の追っ手がかかるだろう。東国から北国へ来ることができたのは、ひとえに月玲のことがあったからに違いない。それが少女が持っていた薬のせいだったのか、本当に薬師が言う通り「秘蔵っ子」だったからなのかはわからないけれど。何とも言えない表情をしていた月玲を見て、薬師が肩をすくめる。
「別にあんたに謝れっていってるわけじゃないし」
そっぽを向く薬師が妙に可愛らしくて、月玲は思わず笑った。大の男がこんな仕草をしていると、少女でさえついからかいたくなるのだ。見た目も子どもである月玲が、背伸びをして大人のように振舞っていたのははたから見てさぞ滑稽だったことだろう。だからこそ北国の王は、月玲のことを必要以上に「子ども」と呼んでいたのだ。
子どもだから、無理をするな。
子どもだから、もっと素直になれ。
子どもだから、泣いたって構わない。
子どもだからという理由をつけなければ、きっと意地っ張りな月玲は初恋に固執して、新しく夫になった男を受け入れられないと気がついていたのだろう。そして、王族だから仕方がないと最初から諦めてしまう月玲に、子どもらしく素直になれと教えてくれた。貪欲になるのは怖いのに、もっと欲しがっても構わないと言う。
「何だ、離せと言っても離してやらんぞ。子どもはすぐに迷子になるからな」
隣にいてくれる男は優しいひとだった。いや、この男だけではなく、父も、初恋のあのひとも、薬師でさえもみんな月玲に優しくしてくれた。みんながそれぞれ月玲のことを考えてくれた。だから、少女はきちんと選ぼうと思う。自分の道を。自分がこれから共に歩いていく相手を。
最初からもっと誰かに助けを求めて、たくさん話をすれば良かったのだ。月玲はまだ子どもなのだから。あの頃は受け取ることができなかった優しさだけれど。今なら与えられたものに素直に感謝し、喜ぶことができる気がする。
「ナラン、ありがとう」
ようやっとまともに呼んだ男の名前。やはり別れの挨拶で名を呼ばれるよりも、ずっとこちらの方が良いということだろう。北国の王は目を見開き、それから輝くような笑顔で笑った。こめかみに落とされた口づけは、温もりに満ちている。
「見ろ月月、細氷だ」
窓の外は北国らしい極寒の朝。よく晴れた空からは、男のようにまばゆい太陽が覗いている。小さな氷の粒がきらきらと輝き、まるで金剛石が降り注いでいるようだ。月玲は空に向かってその手を伸ばした。
――このひとと一緒なら、きっと大丈夫――
寂しがり屋の月は太陽とともにあるから輝ける。何と言っても夜に輝く他の星とは違って、昼間にさえ白くその姿を現すくらいなのだから。ゆっくり大人になろうと決めた月玲は、そのまま男に抱きついて頬ずりした。
長い間争ってきたとされる東国と北国は、東国のとある姫君が輿入れしてきた時期を境にして、互いに友好的な様相を見せるようになった。東国の歴史書では悲劇の姫君として書き記されている月玲公主だが、北国の歴史書では大変仲睦まじい夫婦であったと書き残されている。
北国文字の保護に取り組んだのはこの姫君を娶った王の功績とも言われている。北国の文字が残っていなければ、東国の歴史書だけが残り歴史の一側面しか知ることができなかったであろうことは容易に想像できる。
北国では伝統的に行われてきた逆縁婚や順縁婚であるが、この風習は時代が下るにつれて廃れていった。この背景にも、月玲公主の存在があったのではないかと囁かれているが、詳細は不明なままである。
草原地帯を横断するようにして流れている聖なる川は、今もなお、滔々と流れている。かつて北国と言われた場所に住む人々は、春になるとこの川のほとりで結婚式を挙げているのが伝統となっている。川の流れが見える小高い丘には、辺り一面が雪で覆われる冬であっても、緑に囲まれた美しい広場がある。そこに謎に包まれた月玲公主が眠っていると言われている。