16.有明の月
喉が焼けるかと思いきや、そんなこともない。ただ少しばかり目が潤んで、頭がぼんやりするだけだ。「ひと思いに楽になれる薬」と言うのは、即効性の毒ではなかったのだろうか。地面にへたり込んだままだというのに、まるで酒でも飲んだかのようにふらふらと身体が揺れる。ふわり、ふわり。これから死ぬとは思えぬ、なぜか笑い出したくなるような似た心地好さだ。
「月月!」
地面に倒れこもうとした月玲を、さっと男が抱き上げた。本当にこの男は。さっきあれほど少女の心を抉ったばかりだというのに、こういう時ばかり壊れ物のように大切に扱ってくれる。そういうところが気に食わないのだ。ええいままよ、どうせこのまま死ぬのなら、言いたいことをぶつけていこうではないか。
「あなたなんか、大嫌い」
男の顔を真っ直ぐ見つめ、指を突きつけて言い募れば、男が苦痛を堪えるかのような顔をする。どうしてそういう顔をするのだ。泣きたいのは月玲の方なのに。獣の毛皮よりも滑らかな焦げ茶色の髪が好きだ。自分を優しく見つめる太陽のような琥珀色の瞳が好きだ。草いきれのような男の匂いも、広い胸も、自分を抱えて馬に乗れるその逞しい腕も、好きだ。くしゃっと笑うその笑顔も、狼の遠吠えのように良く通る声も、何もかもが好きだった。
「狼の番は一匹だけとか言うくせに、側にはいっぱい他の女の人がいるじゃない! 嘘つき!」
口を開けば、後から後から言いたいことは溢れてきた。物わかりがいいように見えたって、本当は嫌だった。理由なんてない、嫌なものは嫌なのだ。王族だから。国のためだから。我慢するしか方法を知らないただの子どもだから。ただじっと堪えているだけ。本当は月玲だって誰かの特別になりたかった。それが無理だと夜明けの空のようなあのひとに思い知らされたから、分相応に慎ましく生きようと思っていたのに。
「ちょっと優しくしておけば、子どもだから誤魔化せると思ったのね。何よ、ひとを馬鹿にして。子どもだって胸が痛くなるのよ」
抱き抱えられたまま、月玲は男の胸を叩く。こうやって抱きしめられるから、しがみつきたくなる。笑いかけてくれるから、一緒に笑っていたくなる。手放すつもりがあるなら、最初から少女のことなんて放っておけば良かったのに。本当に酷い。また、自分ばかり好きになるなんて。どうしてだろう、今まで蓋をして閉じ込めていた気持ちが溢れてくる。まるで聞き分けのない子どもみたいに。
「どうしてわたしばっかり!」
「つまりは、俺のことが好きで好きでたまらないわけだな、この意地っ張りの子どもは」
男の言葉に月玲は困惑する。はて、自分はそういうつもりで言ったのではなかったはずだが……。大体死にゆく少女に対して、この男はあまりにも嬉しそうにし過ぎではないか。どうして、月玲のことをそんな優しい目で見るのだろう。これではまるでこの男は。
「お前が聞かないから言わなかったがな、先王の女たちとは寝てないからな」
ぐすぐすとしゃくりあげる月玲を抱えて、やれやれと言わんばかりの態度で男は告げる。
「北国で生まれ育ったとはいえ、俺の母親は東国人だ。しかも、祖父が死んだその日に父に妻として引き継がれた。さすがにその嘆きを側で見ていては、同じようにする気持ちも起きんよ」
ああ、だからこの男は北国の王のくせに東国語が流暢なのかと月玲はぼんやり思う。それでも少女には言いたいことがまだたくさんあった。それならば、いつも男の隣で微笑んでいた、あのたおやかなひとはどうなのだ。
「でも、あのひとは特別じゃない」
「あれは、母の妹だ。早くに亡くなった母の代わりに、先王との間で順縁婚が結ばれたからな。特別なのは当たり前だ。考えてもみろ、母代わりの実の叔母を、妻に娶るわけがないだろう」
挨拶をする必要がなかったのは、目の前に血をわけた肉親がいたからということか。それならばどうして言ってくれなかったのだろう。そもそも通うことのない側室たちというのなら、後宮をなくしてしまえば良かったのだ。
「お前の言いたいことは良くわかる。だがな、国の仕組みは簡単には変えられない。俺が放り出せば、あの女たちは野垂れ死ぬことになる。それとも何だ、お前は王が死んだ後の側室たちは、下駄の鼻緒飾りの内職でもして糊口をしのぐ方が幸せだと思うのか。」
読書が好きだと言った月玲のために、わかりやすい例えを出してきてくれたのだろう。何も言えずに、少女はそっと目を伏せる。
男が言うように、後宮の女たちを次王が引き継ぐのは、この厳しい国ならではの優しさだ。それでも、月玲は嫌だった。貞女二夫に見えずと言いたいわけではない。それならば、はなから少女の選択は間違っていた。ただ月玲は、母のように、伯母のように、自分だけを見てくれるひとの側に居たいだけだった。
男の告白が温かくて、嬉しくて、月玲はふんわりと微笑んだ。男の腕の中はやっぱりいつものように心地良い。ここにいればきっと大丈夫だと根拠もなく思えるくらい。ひと思いに楽になれるはずの薬は、なぜかたっぷり男と話をする時間を少女に残してくれた。今は、それを嬉しいと思う。もっと早くから、男とよく話をしておけば良かった。
――お前は何事にも思い込みが過ぎる。もっとひとの話に耳を傾けるように――
――その薬を使うなら、本当によくよく考えて。一度使ったら最後、もう元には戻せないよ――
――いろんなことを見て、聞いて、考えろ、月月。勉強する時間なぞ、子どもにはあり余るほどあるだろう――
受け取ってきた言葉の意味を、月玲はようやく知った。自分は本当に愚かで、どうしようもない子どもでしかなかった。
薬のせいだろうか、酷く眠い。とろりとした思考はすべてこぼれ落ちてしまい、ちっともまとまらない。目をつぶればもう二度と世界を見ることは叶わないかもしれないが、何も怖くはなかった。止んでいたはずの雪が、またひらひらと降り始める。それなのに寒いどころか、身体はほんのりと暖かい。真っ白な雪に覆われた離宮の片隅で、ふたりはそっと唇を重ねた。世界はまるでふたりきりであるかのように、静かだった。







