15.下弦の月
早く、早く、返さなくては。
お守りなどと言ってこんな薬を持っているから、後ろめたい気持ちになるのだ。人の目をまっすぐに見て話すことができぬものなど、持ち歩くべきではない。薬師を追いかけて、月玲はいつぞやの庭園に突き当たった。あの男とたおやかな女が仲睦まじく過ごしているのを見て以来、一度も足を向けていなかった場所だ。久しぶりに見た庭園は、すっぽりと雪に覆われている。少しだけ見える木々も、寒さをひたすらに堪えているようだ。
薬師は何をしているのだろう。東国と違う国の庭ならば、珍しい植物でも生えているとでも思ったのかもしれない。そう思いながら月玲が足を進めれば、どこか楽しそうな薬師の声が聞こえた。
「ねえ、陛下。東国の姫君とはうまくいきそうなの?」
「うまくいっていないとわかった上で、俺にそういうことを言っているだろう。腹の立つ奴だな」
「王様だからって、何でもできるわけじゃないんだねえ」
思わず、足が止まる。先日のことを思い出し、どきんどきんと心臓が嫌な音を立てる。あの時は小鳥のようにざわめく侍女たちの声が怖かった。言葉はわからなくても、言っているだろうことはおおよそ予想がついたから。けれど、今感じている怖さはその比ではなかった。薬師に合わせて交わされている会話は東国語だ。これでは勘違いや聞き間違いだと自分を慰めることさえできない。それなのに、凍りついたように月玲の足はまったく動かないのはなぜなのか。どうして、耳を己の手でふさぐことさえできないのか。
「あの子ども、言うに事欠いてこんなことを言いおったわ。『妻』にはなれぬが、ともに暮らす『仲間』にはなれるとな。まったくこちらの気持ちも知らずに馬鹿なことを」
「あの方は、まだ幼くていらっしゃいますから」
どうしてここにまたあの綺麗なひとがいるのだ。大事な時には必ず彼女があの男の側にいる。その意味を考えれば、月玲の浮き立っていた気持ちもあっという間にしぼんでしまうようだった。それでも月玲は、庭から逃げ出すまいと前を向く。だって愛される妻にはなれなくても、国を守る仲間にはなれるのだと思っていたから。ああ、それなのに。
「へえ、『仲間』かあ。いい言葉じゃない」
「あの子どもを、『仲間』などと思えるはずがないだろう」
「じゃあ、東国側の要求通り西国へ逃すの?」
「馬鹿なことを。ようやっとかっさらって来たのだ。手放すつもりはない」
くすくすと笑う薬師に、渋面が想像できる北国の王の声。月玲は思わず息を呑んだ。だって、あの凍りついた川を見た時に男は優しく語ってくれたはずだ。降り注ぐ星空の下で、新しい国を一緒に作って欲しいと男が言ったはずだった。それは、少女を仲間として認めてくれていたのではないのだろうか。あのすべてが偽りだったなんて。月玲の足がようやく感覚を取り戻した。そのまま前も見ずに走り出していく。ただひとりになりたくて。あの男を感じる場所にはもうほんの僅かでも居たくはなかった。
――あの子ども、言うに事欠いてこんなことを言いおったわ。『妻』にはなれぬが、ともに暮らす『仲間』にはなれるとな。まったくこちらの気持ちも知らずに馬鹿なことを――
やはり自分は、東国と北国を繋ぐ架け橋になどなれるはずもなかった。呆れ果てたような男の声音を思い出すだけで、月玲は胸が痛くなる。走って、走って、外に出ようとしたところで、少女は自身の愚かさに笑いたくなった。そうだ、この宮殿は東国と同じように造られているとわかっていたではないか。つまり、離宮から自分は勝手には出られない。きっちりと閉められた門を見て、少女は思わずへなへなと地面にしゃがみ込んだ。ぼんやりとしていれば、いつの間に追いついたのか男が後ろに立っていた。この北の国の王が。
「一体何をしている。お前が突然駆け出したと、侍女が慌てて報告に来たぞ。いくら子どもとはいえ、むやみやたらに突拍子も無いことをするものではない」
「……放っておいて。ただ、外に出たいと思ったの」
「何だ、薬師の言う通り、そんなにこの国と俺が嫌か」
やれやれと言わんばかりのその仕草が気にさわった。この国が嫌ならば、どんなに良かっただろう。目の前の男のことが嫌いなままだったなら、むしろ月玲は先ほどの言葉を聞いたとしても平気でいられたはずだ。本当はその逆だった。まだ出会ってほんの少ししか経っていないはずなのに、もうすっかり恋に落ちていた。認めよう、少女は男のことが好きなのだ。
初恋のひとを想った時間は十年以上。一生に一度の恋だと、そう想ってこの身を捧げたのに、もう自分の心は違う男に傾いている。その自分の浅ましさが嫌だった。淫売のようなだらしなさが恥ずかしかった。何よりまた同じように、目の前の男に愛されないだろうことが耐えられなかった。
「そんなに西国に行きたいというのであれば……」
「違うの」
男はちっともわかっていないと、少女は笑う。やっぱり自分は必要とされていなかった。初恋のあのひとが自分を置いて何処かにいってしまったように、この男も本当は少女のことなどどうでも良いのだ。これ以上、夢を見るのは嫌だった。優しい未来を想像しては心の臓が潰れそうなほどに胸が痛む。その繰り返し。もう無理だ。何度も耐えられるほどに、月玲は強くはない。
月玲は胸元から例の薬を取り出した。強い風が吹けばすべてとんでしまうのではないかと思ったけれど、不思議なことにこの一瞬だけぴたりと風が止んだ。まるで月玲に、最後の情けをかけてやろうと言わんばかりに。
だから月玲は躊躇うことなく薬を口に含んだ。変色していてもまだそれはやはり粉雪に似た滑らかさを保っている。そして見た目と同じように、あっという間に少女の口の中で溶けていった。今なら男の名前を呼んでも許されるだろうか。初恋のひとにこっそり立てた誓い……他の男の名を呼ばないという誓いを破る。
「ごめんね、ナラン」
「ありがとう」でも、「さようなら」でもなく、どうしても伝えたかった言葉が「ごめんね」の理由が自分でもよくわからないままに、月玲は微笑む。太陽を意味する名前の王が、何かを叫び駆け寄ってくるのが見えた。