12.居待月
宴で北国の歌を歌ってから、月玲を見る周囲の目が変わった。それが少女には不思議でならない。もちろん、あからさまに意地悪をされていた記憶はないが、面倒臭くて関わりたくない相手と思われていたような気がする。北国側が用意してくれた侍女たちは少女の世話はしてくれるけれど、必要最低限の交流しかなかったはずだ。それが、月玲の目が合えばにこりと微笑まれたりすることが増えた。時折、この曲はご存知ですかと聞かれることだってある。そう少女が言えば、男は当然だと言わんばかりに頷いた。
「いくら自分たちも理解できるとはいえ、東国語しか話せないお姫さまと、自分たちが生まれた北国の言葉を知っているお姫さま。どちらが好まれるかなんて自明の話だろう?」
そうだ、言葉というものはそういうものだ。ただ単に意思を伝えるだけではなく、心を伝えるもの。そう言えば、自分はあの美しいひとが生まれた国を知らない。言葉を知らない。歌を知らない。自分と話す時のあのひとは常に東国語だったけれど、東国語では伝えられない感情もたくさんあったのではないだろうか。月玲に歌を歌ってくれる中で、自分は何を見ていたのか。一体あのひとの何を知った気でいたのだろう。
恋をしていた自分は、きっと自分のことしか考えていなかった。黙り込んだ月玲に男は手を差し伸べた。ごつごつとしたてのひらは、あくまで優しく少女を包み込む。
「遠乗りでも行くか」
そう言うなり、いつぞや月玲が北国に来た時に見たような大仰な毛皮を被せられた。お洒落さとは程遠い羽織りものだが、なるほど暖かい。もこもことした帽子を被せられると、帽子が大きすぎるせいで視界が遮られてしまう。あたふたと毛皮の中で慌てる月玲のことを、男は目新しい生き物を観察するかのように眺めているのがわかった。
「馬には乗れるか?」
月玲がひとりで乗れないことを知っているくせにこの言い草。少女は頬を膨らませながら、文句を垂れる。初めて会ったとき、人拐いをしたばかりの野盗のように、少女を抱えて馬に乗っていたくせに。
「何を今さら。乗れるわけがないわ。知っているはずよ」
「ならば、俺とともに来るがいい」
当然のように男の馬に乗せられて、月玲は再び馬上のひとになった。少女の意思を無視して馬に乗せられた花嫁行列の時とは違い、今はきちんと前を向いて座っている。横坐りとは異なる安定感に、少女はそっと息を漏らした。ふと男の顔が気になって後ろを振り返れば、雪原をまっすぐに見つめる瞳がすぐそばにある。ふわり、草原の匂いがした。
どうして急に遠乗りになんて誘ったのだろう。まるで月玲が悲しんでいることに気がついたみたいに。けれど聞いてみたところで、きっと男は聞いても何も答えない。子どもが難しいことを考える必要はないと、そう笑い飛ばしてしまうに違いないのだ。
馬が駆ける。景色はどんどんと流れてゆく。月玲の目に映るのは、辺り一面、真っ白な銀世界だ。一体どちらに向かって進んでいるのか、皆目見当がつかない。目印になるものなど一切ないが、男には進むべき方角がわかっているらしい。
「お前、勝手に城の外に出たりするなよ。雪が吹くと、慣れていない人間は絶対に迷う。まあお前は子どもだから、雪が降らなくても迷いそうだがな」
からかうような声音で言われて、月玲はそっぽを向く。どうしてこの男は、自分の気持ちを逆なでするようなことばかり言うのだろう。離宮の外にひとりで出て行ったりしない。ただでさえこの国に疎い自分が、冬の時期にひとりで城外を彷徨うなど死ににいくようなものだとわかっている。
「ほら、ここだ」
男がいきなり馬を止めた。目の前にあるのは、凍てついた川だ。氷の川は雪原と一体化していて、自由に往来ができるらしい。この近くの住人たちだろう、犬ぞりで荷物を運んでいるのが見えた。どうしてこんなところに連れて来たのだろう。いくら慰めるための遠乗りにしても、ここにはとりたてて面白そうなものはなさそうだが。
「ここは、北国の聖なる川だ。春になって式を挙げると言っただろう。それはこの辺りだ。今は凍てついた川だが、春になればここを通って雪解け水が山から草原に行き渡る。そうするとこの辺り一面が緑の草原として再び蘇るのだ。美しいものだぞ、北国の春は」
男の言葉に合わせてまぶたを閉じてみれば、氷に閉ざされた世界とはまったく別の景色が見えるようだった。真っ白な雪原が、辺り一面緑の海になる。この凍てついた川が命を運び、北国に春をもたらすのだ。この男と同じ草いきれがきっと国中をおおいつくすのだろう。
「月月、寒くはないか」
寒いと答えたなら、男は強く抱きしめてくれるのだろうか。あの夏の匂いが立ち込める腕の中に。そんなことを考えながら、月玲はひとつ小さく頷いた。どこか遠くから、北国の人々の祖先だと言われている、狼の遠吠えが聞こえる。