11.立待月
夜を迎え始まった宴で、月玲はあの白い北国の衣装を着ていた。できるだけ自分で手直しをした場所が目立たないように気をつけて座っていたというのに、男は大声で自分の隣に座るように月玲を呼び寄せた。目立ちたくない月玲からすればいい迷惑だ。しかもおそるおそるやってきた少女に、わざとのように問いかけてみせる。
「ああ、よく似合っている。どれ近くで見せてみろ。いつまで経っても何も言わないから、気に食わないのかと思っていたぞ」
そう言えば、きちんと礼を伝えていなかったことに気がつき、月玲は慌てて腰をかがめた。いくら男のやり口が気に食わなくとも、東国で叩き込まれた礼節くらいはわきまえているのだ。言い訳をさせてもらえるならば、服を着たあの日は庭園で目の前の男が別の女性と過ごす姿を見て逃げ出し、先ほどは山羊の生首に話をすべて持っていかれたのだから仕方がないと少女は内心ぼやく。
「この度はかようなお心遣い、誠にありがとうございます」
「良い、子どもが無理をして大人の真似などする必要はない」
礼を言ったそばからそんな風にあしらわれては、また月玲もこめかみがひくついてしまう。礼を言っても言わなくとも結局一言あるとは。まあ確かに、普通の大人ならば少女のように指摘されなくても贈物の礼に文の一筆でもしたためるのが当然なのだろうけれど。
「おや、この部分自ら繕ったとみえる。何があった?」
しかもだ。気がついたのなら何もこんなところで聞かなくても良いだろう。ただ立っているか、あるいは座っていれば見えない場所だったのに、中腰になったせいで見つかってしまったらしい。
他の女たちに意地悪をされて繕う羽目になった。そんな後宮にありがちなことだと思ったならば、人目がある場所で尋ねたりはしないはずだ。それくらいの観察眼はある男である。ということは、男は少女がうっかり自分で服を破ってしまったことを知っているとみえた。ここ最近持っていた男への好感が瞬く間に失われていく。少女の粗忽さに気がついたならどうしてそっとしておいてくれないのだろう。一瞬うつむきかけた後、男がじっと自分を見ていることが気になった。これはつまり、どう答えるのか確かめようとしている……?
思わず月玲の負けん気に火がついた。きっとそんな反応を示せば、男はそういうところが子どもなのだと笑うのだろうけれど。きゅっと口を引き締めて、できるだけ凛々しく聞こえるように少女は前を向く。
「実はわたしの不注意でこんなことになってしまいました。北国の衣装に東国の刺繍を施したとあっては、お見苦しいところもあるでしょう。とはいえ、衣装にさした花の刺繍が時を経てやがて馴染んでいくように、東国から参りましたわたし自身もしばらくすればこの国に馴染めましょう。それまでどうぞお見守りくださいませ」
あてつけのように丁寧にのべて、ゆるゆると東国流にお辞儀をしてみせる。ちらりと見た男の顔は、面白がっているように見えた。本当にそういうところが嫌いなのだ。宴の席でふくれっ面をするわけにもいかず、さりとて笑顔を作ってみせるのも難しい。これで男と会話をしなければならないとなると面倒だ。そう思っていれば、何ともちょうど良いことに楽人による演奏が始まった。
「まったく、子どもなら子どもらしく素直に言えばよいものを。こういう時ばかり口が達者になるとは」
腹が立つ男の言いぐさなど聞こえない振りで、目の前の演奏に集中する。
東国の二胡とは異なる楽器が、優しい音を奏でた。違う楽器のくせに、まるでひとの声のような音を出すところが良く似ていると思う。ぼんやりとその音に耳を傾けていれば、馴染み深い曲だということに月玲は気がついた。これは時々、初恋のあのひとが少女に聞かせてくれていた歌だ。言葉がわからないせいで歌詞の意味など理解できなかったけれど、諳んじてしまえるほど長く聞いてきた曲。あのひとは北国の出身ではなかったはずだけれど、旅の途中で聞き覚えたのだろうか。少女が小さく口ずさんでいれば、すぐ近くにいた男が驚いたように目を丸くしていた。
「お前、歌えるのか」
「ずっと昔に教わったことがあるの」
その驚き具合に月玲はつい、いつも通り返事をしてしまう。自分が歌うことが似合わないとでも言うのだろうか。少しだけむっとしていれば、立ち上がって歌うように命じられた。急にそんなことを言われても。そう文句を言いかけて、少女は渋々立ち上がった。宴で王の命をはねのければ多くの人間から不興を買うだろう。わざわざ自分の住まう場所での立ち位置を自ら悪いものに変える必要はあるまい。
何をする気かと訝しんでいた他の家臣たちも、月玲が楽に合わせて歌い始めた途端に何とも言えない顔になった。まったく、下手くそな歌だと罵りたいのならば、さっさとやめさせれば良いものを。舌打ちしたくなった月玲だが、歌い始めてみれば思ったよりも興が乗ってしまう。何よりあの美しいひととの思い出が溢れ出してきてしまい、ついつい気持ちがこもってしまうのだ。少しずつ声も大きくなる月玲の側で、男は真剣な顔をしている。
「知っているか、月月。それはこの北国に昔から伝わる、家族と故郷を想う歌だ」
ぽつりと男のつぶやきが聞こえた。あのひとはどんな思いでこの歌を自分に聞かせてくれたのだろう。もはや見ることのない家族の顔を思い浮かべたのか。月玲を家族のように思ってくれていたのか。あるいは、月玲がこの国に嫁ぐことを最初から見越して教えてくれていたのだろうか。多くのものを持つことを嫌うくせに、面倒見が良くて優しい初恋のひと。その優しさが甘くて、少しだけ苦くて、切なくて。思わず少女の目は潤む。
月玲は歌う。
もう二度と会うことのないあのひとにまで、どうかこの歌が届くようにと願いを込めて。