10.待宵月
いつもは夜にばかり少女のもとを訪れる男が、珍しく昼間に部屋に来た。手には馬乳酒も例の骨の骰子もない。この男は一体何をしに来たのだろう。そもそも抱く気もない女の元に昼までやってくるのは、王として生産性がないのではないだろうか。この間庭園で見た光景を少しばかり根に持って、月玲は王に問う。
「わたしのところにばかり来ても子は生まれないわ。他のひとたちのところには行かなくてもいいの?」
物わかりの良い妻のようなことを言う月玲に向かって、男はにやりと笑った。ほら、この顔。月玲はうんざりする。あたかも自分に心を砕いているかのようなその笑顔が嫌なのだ。
「なんだ、やきもちか。子どもは子どもなりに、他の女が気になるか」
楽しそうに尋ねてくる男の物言いに、やっぱり聞くのではなかったと月玲はがっかりする。誰の子どもが最初に生まれるのか。それを踏まえて周囲の女たちとの関係を気にするのは、正室として当然のこと。この気持ちは嫉妬などではないはずなのだ、絶対に。だから口から出た文句は、「やきもち」とは関係のない部分に対してだけだ。
「わたしはもう子どもなんかじゃないわ」
まさに怒っているのだと言わんばかりに頬を膨らませ、腰に手をあてた月玲を見て、今度こそ男が腹を抱えて笑う。
「そういうところが、子どもなのだ。そんな顔をしていると仲間だと思って、ここいらの鼧鼥がお前を迎えに一斉にやってくるぞ」
子どもの次は、地りす扱いか。がっくりうなだれる月玲の手を取り、男は悠々と部屋の外へ向かう。今日は東国から来た新妻を歓迎する宴が開かれるのだという。その準備を見に行こうと誘われたのだが、正直に言って気乗りはしない。
皆への挨拶を不要だと言ったのはこの宴が開かれるためだったのかもしれないが、いまだに少女の中で引っかかっているのだから。とはいえここで見に行きたくはないと答えたところで月玲の意見は通らないだろう。これまでのやりとりを考えれば、話を聞くような形で実のところ自分の考えを押し通すのがこの男のやり口なのだ。何より月玲の身体は男に引っ張られて、すでに歩き始めてしまっている。
男の案内するままに行けば、土間のようなひらけた場所に人影があった。誰だろう、子どもでも座り込んでいるのだろうか。首を傾げた月玲はもっとよく見ようと視線をしっかり下に向けて、小さく悲鳴をあげた。そこにあったのは、生首だ。山羊の生首が恨めしそうに黄色い瞳を見開いて、それでいて微笑んでいるように口元をうっすら開けて、じっと月玲を見つめている。剥いだばかりの山羊の毛皮も、綺麗に整えて隣で干されていた。後ずさりする少女を尻目に、男は平然とした顔をしている。明らかにこれがあることを知って連れてきたに違いない。
「……わざわざ死んだ動物を見せられて喜ぶ女がいるとでも?」
「子どもはそうやってすぐに怒るから困る。この山羊はお前のためにその命を捧げたのだ。今夜食べるものの元の形くらい、ちゃんと見ておけ」
今夜のご馳走になるために解体された山羊。冷たくなってしまった山羊と少しばかり見つめあった月玲を、男はまた別の場所に連れていく。煮炊きをする場所をよく見ろと言われても、とりたてて特別なものは見当たらない。乳やら酪やら白い食べ物ばかりがやたらと目につくくらいだ。何か言わなくてはと思い、一生懸命に考えればふと思い当たるものがあった。
「……果物や野菜はあまりないのね」
「ようやっと気がついたか。雪が多く、寒さの厳しい場所では、お前の国のように野菜も果物も豊富にはとれない。お前の嫌がる乳やら肉やらがこの国を支えている。お前からすれば、林檎や棗椰子くらいと思うかもしれないが、この国ではそれでさえも貴重品だ」
「もしかして、紗棘も?」
月玲はとある果物の名を挙げる。東国から北国に来て以来、北国の食べ物に閉口していた少女がことのほか気に入っている黄金の果実。蜜柑のような色合いをしているこの果実の搾り汁に、砂糖や蜂蜜を加えたものが、ここ最近の少女の好物だった。とても栄養があるものらしく、これを飲んでさえいれば食事を多少残しても無理に勧められることはない。とはいえ、この飲み物を所望すれば、またかと言うように呆れられるのがここ最近の日常だったはずだ。
「もちろんだ」
だから、食事を拒み、果物ばかりを食べたがる少女のことを、あの綺麗なひとや侍女たちは何とも言えない顔で見ていたのだろうか。けれど、そんなこと月玲は知らないのだ。東国と北国は違う。それは頭ではわかっていることだけれど、気がつかないことだってたくさんある。
「それなら、言ってくれれば良いのに」
思わず愚痴をこぼせば、男に呆れたようにたしなめられた。
「大国から来た姫に、誰が面と向かって文句を言える」
だからこうやって男自身が教えてくれたのだろうか。物を知らない子どもにも、きちんとわかるように。東国から来た子どもができるだけ北国で馴染めるように気を使ってくれる男は、きっと優しい人物なのだろう。けれど、それこそが「子ども扱い」なのだと月玲は苛立ちを覚える。うまく立ち回ることすらできない少女が八つ当たりをするなんて本当に理不尽なことなのに、感謝の言葉もうまく出てこない。
「いろんなことを見て、聞いて、考えろ、月月。勉強する時間なぞ、子どもにはあり余るほどあるだろう」
男の言葉は優しい。優しすぎて、やっぱり腹を立ててしまうほどに。
――この男はわたし以外にも大切なひとがたくさんいるのに。おこぼれの優しさをもらって嬉しいとおもってしまうなんて、そんなの惨めすぎるわ――
うまくありがとうと言えなかったというのに、男はそれを咎めることなく少女の髪を撫でてくれる。月玲は、今日の宴ではきちんと山羊の肉で作られた食事を食べようと決めた。