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1.新月

「そなたの輿入れが決まった」


 東国の一の王女である月玲(ユエリン)は、平伏したまま身動きひとつすることなく、父の言葉を噛みしめた。まだ幼い少女が受け止めるには、あまりに辛い言葉であるにも関わらず。はらりと母親譲りの黒髪が一筋こぼれ落ちる。その音さえも聞こえるほどに、宮中は静まりかえっていた。この場に満たされている張り詰めた冷たい空気に、少女は押しつぶされそうになる。床に控えたままだというのに、月玲(ユエリン)は足元が沈み込んでしまうような心細さに震えた。


「実に喜ばしいことだ」


 王による祝いの言葉。本来ならば周囲から何かしらの反応があってしかるべきものだ。しかし冷えきった雰囲気が変わることはない。誰もがそっと少女から目を逸らす。その様子が月玲(ユエリン)には顔を上げずとも、手に取るようにわかった。そう、誰だって関わりたくないと思うはず。なぜなら王女が輿入れで向かう国は、これまで散々に東国を悩ませ続けたあの北国なのだ。悠々と馬を繰り、ぐるりと周りに巡らせた城壁さえも飛び越えて東国を蹂躙してきた蛮族の国。かつて月玲(ユエリン)と同じように和平のために輿入れに向かった女人は、己の不幸を嘆き、峠でその身を投げたのだという。めでたさなど欠けらも感じられないそんな婚姻を前にして、誰が月玲(ユエリン)に声をかけられようか。


 気が遠くなるほど長い間続いた歴史の繰り返し。奪われ、攻められ、傷つけられ……。あの横暴な祖父ですら手を焼き、父の代になって西国を取り込み勢力を増した東国だからこそ、ようやく北国を抑え込むことができたのだと聞いている。その北国と友好的な和平が結ばれたのは、少女がもうすぐ十も半ばに届きかけたある年のこと。ようやっと終わった、けれど未だ危うい関係を強めるために、少女は東国人の誰もが恐れる北国へと嫁ぐのだ。東国にそびえ立つ雪山のはるか向こうへ。


「春になったらという話であったが、事情が変わった。山が吹雪で閉ざされる前に北国へ向かうように」


 北国と東国の国境にある山は、夏でも雪が残っているという。山など登ったことはないが、確かに月玲(ユエリン)が見上げる山の頂は、年中白い冠を被っている。指先が凍えるような風が吹くようになったこの時期であれば、すでに雪も降り積もっているやもしれない。それでも春まで待てないというからには、何かしら理由があるのだろう。


 大国の王女として生まれたからにはその背に負って立たねばならないものがある。それが王族の務めというもの。結婚もまた政治の道具のひとつなのだ。恋や愛などといった甘ったるい感情とは無縁の世界に生きることなど、はなから承知していた。それでも自身が想像していたよりも早い輿入れに、少女は少なからず動揺する。何よりも歌劇の題材とされるような大恋愛を果たした父が、ここまで政略的なものを娘に対して前面に出してくるとは思わなかったのだ。幼い頃は、母親によく似た面差しの少女のことをとてもよく可愛がってくれたというのに。やはり為政者ともなればひとは変わってしまうのだろうか。「はい」とも「いいえ」とも言えぬまま、ゆっくりとひとつまばたきをした。そのわずかな時に苛立ったのか、王が声をかける。


「もう、気は済んだであろう」


 その呆れたような声音に、ひくりと月玲(ユエリン)の肩が揺れる。それは周囲の人間にはわからないような微かな仕草であったけれど、きっと玉座に座る王にはよく見えたはずだ。そして月玲(ユエリン)は悟る。自分の小さな初恋も、失恋も、すべて父にはお見通しだったことを。国の命運よりも己の恋情を優先させる愚かな娘として失望させてしまったのだろう。だからこそ、きっとこんなに早く出立が決まってしまったのだ。これ以上醜態を晒さないために。ならば月玲(ユエリン)には「是」以外に語るべき言葉などない。もとより平伏していたにも関わらず、さらに月玲(ユエリン)は深く深く頭を垂れた。自らの不始末を詫びるように。許しを得るように。


「……はい」


 そのたった一言が、こんなにも重たいものだったとは。月玲(ユエリン)は回らぬ舌を叱咤し、うつむいたまま答える。王も王とて、月玲(ユエリン)に「顔を上げよ」と命じることもない。恥さらしな娘の顔など見たくはないということか。月玲(ユエリン)は、ぎゅっと唇を噛む。このような結果になることなど、初めから分かっていたことではないか。今さら何を悔やむことがある。すべてを失うとわかっていても、愛する男の手を取りたかったのだから。だから泣いてはいけない。泣く資格など少女にはない。


「あちらから花嫁道具は不要と言われておる。侍女も含めすべて用意すると。そなただけでかまわぬから、できるだけ早い到着を望んでいるそうだ」


 それでも。もはや、あふれ出す涙を止めることなどできなかった。少女の翡翠色の瞳が悲しみに染まる。この身一つで輿入れなど聞いたことがない。これではただのていのいい人質だ。それほどまでに父は我が娘が疎ましいか。あるいは北国にくれてやる厄介者にかける財などないということか。王の命は絶対だ。重臣と言えども容易に口を挟むことは難しい。しかしこんな時に父王を諌めることのできる月玲(ユエリン)の母でさえ何も言わない。ということは、これはすでに決定事項なのだ。母もまた、月玲(ユエリン)を見限ったか。ぽたぽたと温かい雫が少女のまろみを帯びた頬を濡らした。


 小さく震える月玲(ユエリン)にそれ以上声をかけることもなく、東国の王はただ少女に下がるように命じる。侍女に支えられるようにして立ち上がった月玲(ユエリン)の顔は、湖面に映る凍えた冬の月のように青白いものだった。

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