1章 闇は嘆き訪れる 8
『女神の影』といえば軍の中でも一般には知られていない、対ガルグ専門の隠密組織だった。女神と崇められる現メルディエル女王シーヴァネア直属の、完全に独立した組織である。主に神殿で育った孤児の中から、特に優秀だと認められた者だけを選び、養育する。
ファランは魔術の才能を買われた一人だった。しかし初めての大きな任務で、おそらく気負いすぎたのだ。そこで取り返しのつかない失態を犯した。
ファランたちは、当時ガルグが拠点としていた場所に使徒の誰かが現れることを掴んだ。その頃は使徒の恐ろししさなど何もわかっていない子供だったのだと思う。師匠は撤退して応援を待つべきだと言ったのに、自分の力を過信し、無謀にもその現場を押さえようとファランは拠点に突入した。師匠に認めてもらいたい、功績を得られれば自分も師匠ももっと良い生活ができる。そう信じていた。
だが現れたのはよりにもよってガルグの長、ヴァシル・ガルグ。窮地に陥って、ファランは師匠を身代わりに逃げ出した。師匠は翌朝、全身の骨を砕かれ、頭を潰された状態で川に捨てられていた。
それ以来ファランは『女神の影』の仕事から離れた。隠密としての自分を捨て、ただの祭司となる道を望んだ。ファランはこの10年あまり、そうやってずっと逃げ続けてきたようなものだ。
「あなたは『女神の影』なんですか」
当時の同僚とは一切の連絡を断って久しく、今『女神の影』がどうなっているのかは全くわからない。もしかしたら、目の前にいる青年が現首領、もしくはそれに近い者なのかもしれないと、ファランは思った。『女神の影』では、歳は関係ない。才能と実績だけが優先される。
「まあ、そうだといえばそうかもしれませんねぇ。といっても5年前に前の組織はほとんど壊滅してるので全く別物ですし、絶賛人材不足なんですけど」
5年前のガルグとの総力戦で、『女神の影』の全戦力が投入されたであろうと言うことは簡単に想像がついた。自分も所属したままだったなら、きっとそこで誰にも知られることなく殉じていたはずだ。
才能を認められながら、結局ファランは何も貢献することができなかったばかりか、師匠だけでなく同僚の命すら見捨てて逃げただけだ。そのことに対して後ろめたさがないわけがない。
これも自業自得なのだろうか。
「私に、何をさせたいんですか」
サーレスと名乗った相手が、何を求めているのかは薄々察しがついていた。今になって『女神の影』を引き合いに出すなら、理由は一つしかない。むしろ今まで何も接触してこなかった方が異常だった。5年前の戦いで復帰を求められてもおかしくはなかったのだ。
サーレスが今までのふざけた笑いを改め、ファランを見据える。
「わかってもらえたようで助かります。ガルグの残党として、今把握できている使徒は三人です。彼らはその村の周辺へ向かっているらしい。目的がそこであるとは限りませんが、あなたにはとりあえず警戒と、いざとなったら住民の保護をお願いしたいんです」
残党が三人もいるという情報に、ファランは言葉を失った。以前拠点に乗り込んだ時にファランは結局ヴァシル・ガルグと直接対峙すらしていない。ファランよりもずっと能力も経験も豊富だった師匠が、ヴァシル・ガルグの闇の触手に翻弄され、飲み込まれた一部始終を背後に感じながら逃げただけだ。それもわざと見逃された気さえするほどだった。
長と末席の使徒とでは大きく格が違うとはいえ、末席の使徒にすら自分はかなわないだろうということは、今だったらよくわかる。ガルグの一族というものは、人間では到底足元にも及ばない異質な存在。そんな相手が三人もいるなんて。
「ま、応援は向かってますし、なんとかなりますよ。それに、5年前人間はガルグと破壊者アルスに勝ったんです。それを忘れないでください」
緊張で強張り、震える手を相手に気遣われたのだろう。通信が終わる間際、サーレスが最初のように笑った。ファランは乾いた笑いがこぼれただけだった。
通信機がぶつりと音を立てて消え、あたりがしんと静まり返る。どっと冷や汗が噴き出した。
「僕が望んでいるのはただナガレと一緒に、平穏に暮らすことだけだったはずなんだけどな」
そう都合よくはいかないと、思い知らされた。一度踏み込んでしまった宿命からは、逃れられるわけもなかったのかもしれない。
ファランは一つ一つ、身に沁みついた対ガルグの技を思い出していった。そのたびに11年前の恐ろしさが、体によみがえってくる。全身の骨を砕かれ、ひしゃげた師匠の遺骸が、まざまざと目に浮かぶ。下手をすれば自分も同じ運命をたどるだろう。
けれど何より恐ろしいのは、自分ではなくもしナガレに危害が及んでしまったら、ということ。
自分の術がガルグ相手には対抗手段にすらならないことはわかっている。しかも11年もの間、ファランは鍛錬を怠っていた。以前のように扱うことができるかは不確かだ。そんな状態で村の人々を、ナガレを守ることなんてできるとは思えない。
かといって、他に選択の余地もファランにはなかった。
ふらふらと、ファランはおぼつかない足取りで立ち上がった。無性にナガレの顔が見たくなった。
数年前までは、ナガレはファランの隣で一緒に寝ていた。疑うことなく安心しきって自分の腕に身を預けてきた子供の姿に、自分がどれほど救われてきたか、今になって気づく。
ナガレの部屋の扉をそっと開けると、以前と変わらず毛布にくるまって、身を縮めて眠るナガレの姿があった。
気持ち良さそうに眠る穏やかな寝顔が、何よりファランの心を癒してくれた。