1章 闇は嘆き訪れる 4
小さな卓に欠けた茶器が三つ。押し黙った男とファランの間で、ナガレが足をぶらつかせながら、物珍しそうに男の姿を眺めていた。小さな田舎町だ。旅の商人は時々来るが、だいたい顔見知り。見知らぬ旅人なんて滅多に見かけるものではない。子供が興味津々になったとしてもしょうがない。
とはいえ、居心地悪そうに背を丸めてナガレから視線を逸らしたままの旅の男に、いつまでも好奇の視線を向けるのはいかがなものだろう。
「ナガレ、お行儀が悪いよ」
窘めるとはっとしてナガレは居住まいを正した。けれどすぐに気を散らして、また男を見つめながらぶらぶらと足を揺すり始める。他はとてもしっかりしているのに、こういうところだけはなかなか直らない。一体誰に似たのかと思うが、ファランは我が身を振り返って、考えたことを後悔した。
いや、今はナガレの教育方針に後悔している場合でもない。ファランは気を改めて軽く一つ咳ばらいをした。
「お帰りになるところだったというのに、引き留めてしまって申し訳ありません。ええと、クロフォードさん」
男はクロフォードと名乗った。それ以上は何も言わない。相変わらず陰気な表情で、出された紅茶に手をつけないまま見つめている。
「とりあえず、どうぞ召し上がってください」
茶を出したのに追い返すことは、さすがにファランには出来なかった。手がつけられないままではせっかくの紅茶がもったいないと、仕方なく勧めてみる。
実はファランはちょっと紅茶にはうるさい。茶葉はヴァルディグランの名産の一つだ。中でも東部サラザードが一番良質なものを生産している。その点だけはファランはヴァルディグランを純粋に評価していた。毎月給料日になるとなけなしの給料をはたいて、最高級とまではいかないけれど、良い茶葉を手に入れるのがささいな楽しみになっている。それだけに、ファランの唯一憩いをこんな怪しい男に容赦なく出したナガレの親切が、本当に恨めしかった。
早く茶だけ飲んでもう一度立ち去ってはくれないものか。と、内心切実に願っていたのに。
「クロフォードさんは、何をしにこんなところまでいらっしゃったんですか?」
「ナガレ!」
ファランの心情などまるで知らずに、好奇心を抑えられなくなったナガレがついに尋ねた。なんでこうも子供は余計なことをしてくれるんだろう。苦々しく思うも、精々はしたないと窘める程度。
ちらりと、ファランは申し訳ないというふりをしてクロフォードを見つめた。向こうは苦笑するように乾いた笑みを浮かべていた。
「色々とございまして。紅茶、いただきますね」
話をそらすためだろう。今まで手をつけもしなかった紅茶にクロフォードはようやく手をつけた。どうやらこの男は人に言えないことがあるらしい。ファランとしてはナガレのお節介による厄介ごとを回避できたのはありがたいが、不信感は募る。
外には馬も荷物もない。男は着の身着のまま神殿を訪れた。盗賊に襲われて身ぐるみをはがされたというのならわからなくはないが、それであればわざわざ神殿を訪れておきながら、何もせずに帰ろうとするのが解せない。ナガレを見たときの態度も気になった。
「サラザード茶ですね。ナガレさんは紅茶を淹れるのがお上手だ」
その言葉にファランははっとした。クロフォードが紅茶を一口含んで、表情を和ませていた。ファランはその手つきにも目を見張った。予想外すぎる、正しい作法だ。そもそも普通の人間だったら茶葉がどこの産地かなんて知るはずもない。
そういえば背は丸めてみすぼらしい恰好を装ってはいたが、歩く足の運びなどもどことなく庶民とは違っていた気がする。
傍らでナガレは褒められたことを無邪気に喜んでいた。そのナガレを見つめるクロフォードの視線が、妙に柔らかいような気がした。
ファランの脳裏にある考えがよぎった。まさかと、ファランはそれを慌てて打ち消そうとした。そんなことはあり得ない。ナガレは孤児だが両親はどちらもこの村出身の農夫だったと聞いている。ナガレとクロフォードに所縁がある、などとそんなことは。
だが、ファランはナガレの両親を知らない。もし母親が一時的に村を離れていたとしても、ファランにはわからない。そしてそれは全くあり得ないことではなかった。
「こちらを訪ねた理由は、大したことではございません」
クロフォードが紅茶を飲み干し、茶器を置く。
「長い旅の途中、女神の御姿を一目見たくなった。それだけだったのです。おかげさまで、願いは既に叶いました」
ナガレに微笑みかけ、しかし物悲しそうに視線を外して、クロフォードは神殿奥に据えられた女神の石像をみつめた。目をすがめて祈りの印を切った手が震えていることに、ファランは気づいた。
「ごちそうさまでした。久しぶりに、美味しいお茶をいただきました」
クロフォードが席を立った。丁寧に頭を下げ、背を向けてあっさりと神殿の扉をくぐろうとする。
「ちょっと、待ってください」
ファランは思わずクロフォードを引き留めていた。
「祭司様、何か」
「あ、いえ。その……」
しかし、引き留めてしまったものの、自分で自分の行動に戸惑った。振り返ったクロフォードになんと言ったものかわからない。
「あ!」
その時唐突にナガレが大きな声を上げた。
「ナ、ナガレ?」
「ファラン様大変。村の門がもうしまっちゃう!」
ちょうどその時、夕暮れの鐘が鳴り響いた。閉門の合図だ。小さな村とはいえ、門があって夜は閉ざされる。これではクロフォードは、明日の朝まで村の外へ出ることができない。
「クロフォードさんは今日、どこに泊まるんですか?」
「いえ、まだ何も」
「じゃあ、うちに泊まっていけばいいですよ。おんぼろだけど、巡礼者さん用の部屋もあるし。そうだファラン様、ボク寝床の準備してきます」
ファランがまごついている間に、ナガレがあっという間に掃除道具を手にして離れの客間へ走って行ってしまった。ファランとクロフォードは二人してあっけにとられ、顔を見合わせた。
「よろしかったんでしょうか」
問うクロフォードも気まずそうだったが、ファランもそれは同じだ。なにせクロフォードを追い返そうとしていたのに、今になって手のひらを返すようなもの。
クロフォードの不審さはやはり拭えないが、こうなっては仕方ない。ファランは腹をくくった。
「クロフォードさんのご迷惑でなければ、どうぞ。泊まっていってください」
ファランは部屋の準備ができるまでの間、とりあえずもう一杯くらいならと、紅茶のわかる相手に手ずから淹れることにした。