1章 闇は嘆き訪れる 3
黒いマントは擦り切れ、髪も服も砂まみれ。年はファランと同じくらいに見えるが、顔立ちは整っているのにやつれきって、黒縁の眼鏡で隠されてはいるものの、目元には濃いクマが刻まれていた。
明らかに訳ありだとわかる男の姿に、ファランは既に拒絶したくなった。
博愛、献身が美徳とされる聖職に身を置いているが、基本的にファランは厄介ごとが嫌いだ。できれば信徒にだって、用だけ済ませてさっさと帰ってもらいたいと、常々思っている。
しかし職務上、露骨に迷惑だと追い返すことはできない。その時もファランは仕方なく、営業用の笑顔を貼り付けて、丁重に男を出迎えた。
「旅の方のようにお見受けいたしますが、礼拝をご希望ですか?」
尋ねると、男は長身の背を縮こめて、戸惑うように目を伏せただけ。ファランはそのはっきりとしない態度に、ますます疲労を覚えた。
「礼拝ではないとすれば、何か他に御用でも?」
一応、規範に則り聞いてみる。とはいえ旅人が礼拝以外に神殿を訪れる用向きは、だいたい決まっている。宿泊だ。もしこれが巡礼中の信徒であれば、いかな理由があっても断ることはできない。しかし目の前の男は装束も身につけていないし、巡礼中の信徒には見えなかった。第一、ここは巡礼ルートから大きく外れた砂漠の僻地である。
5年前にあった騒動以来、四大精霊の聖域を巡る旅も流行っているらしいが、その聖域も割と遠い。一番辺鄙な土地を回る物好きが居たとしても、この近隣なら隣町の炎狼神殿に行けばよく、わざわざそこを外してファランが預かるこのシーヴァネア神殿近くを通る必要は全くない。
だから、路銀が尽きたか、盗賊にでも襲われたかで隣町で宿を取ることもできず、寂れたこの神殿を訪ねてきたのだろうと、ファランは踏んだ。とてもめんどくさい手合いだ。
たしかに普通の神殿なら施しをすることもあるだろうが、あいにくここは普通の神殿ではない。
「旅の方、この神殿は見ての通りの荒れ様です。もし宿をお求めであったとしても、このような場所にご案内するのは心苦しい。まだ日没にも少し時間はありますし、良ければ他をあたってみてはいかがでしょう」
なるべく穏便に、ファランは旅人らしき男を追い返そうと、肩を抱き、外に導いた。
怪しまれていることはさすがに伝わったのか、男はおどおどとあたりを見回す。
「村長であれば話好きで旅の話を聞きたがるでしょうから、歓迎してくれるかもしれませんし」
ただし村長はドケチで、この神殿への寄進も毎年最低額以下しかおさめない。とは言わない。尋ねたとしたら何か贈り物を要求されるだろうが、そんなことはファランの知ったことではなかった。
それでも、男はなかなかおとなしく立ち去ろうとはしてくれなさそうだ。
「あの、宿に泊まりたいという、わけではないのです。私は、その……」
何か言いたそうに手をすり合わせるものの、結局ためらって何も口に出さない。いい加減にしてくれ、とファランは内心げんなりとした。
ファランは周囲から穏健で気が長いと思われがちだが、結構短気であるという自覚がある。用があるならさっさと言って欲しい。ないならいつまでも入り口で立ち止まったりせずに立ち去ってくれ。大の男のはっきりしない態度に、今にもそう愚痴をこぼしそうだった。
「ファランさまー。誰かいらっしゃったんですかー?」
その時、奥から人の気配に気づいたらしいナガレの声が聞こえた。
「うわぁ、ナガレ! 大事なお客さまだから奥に居なさい」
顔を覗かせようとしたナガレを慌てて台所に押し戻す。ここでナガレに出てこられては、たぶんややこしいことになる。
「えぇっ、そんな、お茶出さなきゃじゃないですか」
「いや、そういうのはいいから、とにかく奥に居て!」
あくまで律儀にもてなそうとするナガレに頭を抱えた。確かにファランはナガレを真面目に育てた。むしろ真面目に育てすぎたかもしれない、と時々思う。こういう時ばかりはそれが恨めしい。
「だから、僕たちは今とても大事な話をしているんだ。子供には聞かせられないような、ね。いい子だから奥に居ておくれよ」
そこまで言うとようやく、渋々ながらもどうにかナガレを納得させることに成功した。どっと疲れた。台所の扉を閉めた途端、ため息が零れる。
「祭司様の、お子さんですか……?」
先ほどの男が、戸惑ったように扉の前でまだ突っ立っていた。ファランは、はっはっは、と笑ってごまかしてみた。
「いえ、神殿で引き取っている孤児ですよ。今は見習いでもありますが、元気すぎて困る。賑やかですと、やはり休むのもままならないでしょう」
だからここで泊まるのはやめておいた方がいいと、もう一度男を外に連れ出そうと試みたのだが、男はそんなファランのことなど目に入ってはいなかった。ナガレが消えた奥の台所を、ファランが連れ出そうとしてもびくともしないまま、ずっと見つめていた。
「孤児、ですか……」
神殿に子供がいること自体は、そんなに珍しいことではない。見習い制度もあるし、ナガレのような孤児を引き取ることもなくはない。もちろん、結婚している祭司の家族ということもある。
だからまるで信じられないものでも見たかのような男の様子に、ファランは訝しんだ。
「何か、気になることでも?」
「あ、いえ、なんでもないのです」
また、男は視線をそらして押し黙る。まさか、と、微かに男の口からこぼれた気がした。
「やはり、今日は失礼いたします」
一体何だというのだろう。無理やり笑みを作って見せたような男の姿が、余計に怪しい。しかし、ようやくおとなしく帰ってくれそうな男を、こちらから引き留めるのもためらわれた。
男が背を向けて神殿を出ていく。その扉が閉まる直前だった。
「ファラン様、やっぱりおもてなししなきゃだめだと思うんですよ!」
奥の扉が大きな音をたてて激しく開いた。両手の盆に茶器となけなしの茶菓子を携えて、足で扉を蹴り開けたナガレが、愛らしいエプロンをつけて立っていた。
閉まりかけた神殿の扉が止まる。呆然として男はナガレの姿を見つめていた。
ファランは盛大に頭を抱えた。