1章 闇は嘆き訪れる 2
砂塵が舞った。
ファランは箒を手に、破れた神殿の壁の隙間から、今日も大量の砂が入ってくることに辟易していた。
ヴァルディグラン王国の西は乾いた土地が多い。もう少し西にいくと風火地峡を挟んで、一面乾いた大草原が広がる遊牧民の地、フォルマンの大地に至る。ファランが住むこの辺りも、昔は草原に覆われていたと言うが、今は年中砂が舞う砂漠になってきている。
砂漠化は数年ほど前から深刻化していた。今年は特に雨が少なく、農業用水が持つか持たないかギリギリのところだ。
ファランが祭司を務めるシーヴァン教の主神、女神シーヴァネアは水と生命の女神であるため、毎日信徒たちが恵の雨がもたらされることを祈りにやってくる。先ほども一人、深刻な顔をした農夫が帰っていったばかりだった。
帰り際に、女神は本当に雨を降らせてくれるだろうかと尋ねられた。ファランは「恵みは女神の御心と、あなた方の信仰次第です」といかにもらしく言ってはみたものの、実際のところ雨が降るかどうかなど、おそらく本国メルディエル女王国におわす今生の女神シーヴァネアにも、きっとわかりはしないだろう。
「そもそも、この国の守護神は火の精霊長の炎狼なんだよ。女神の威光だって遠のくって」
はあ、とため息をついて、あごに滴り落ちる汗をぬぐう。多神教であるシーヴァン教の総本山、メルディエルは山と海を越えたずっと東の別大陸だ。華やかで美しい、世界最古にして最高の国である。それに比べればヴァルディグランは、西の大陸にある国の中では大きな方だとはいえ、8年前に本国からヴァルディグランに赴任してきたファランにしてみると、未だ田舎としか思えない。
しかも熱い。くらりと暑さにめまいがした。故郷のメルディエルも南国だが、だいたいが海に囲まれた島国のため、潮風が涼しい。ファランはもともと背もさほど高くなく、ひょろりとしていて、体力については力自慢の農夫たちにはかなわない。掃除ごときでばててしまっては元も子もない。
それに辺境の神殿であるここは、本国からの援助も少なく、修繕しても端から壊れていくおんぼろだ。砂は掃いても掃いても入り込んでくる。いい加減は掃除はあきらめようと、ファランは箒を投げ出した。
「あ、ファラン様またさぼってる」
からんと転がった箒の音を聞きつけて、奥から小さな影が頭を出した。赤い髪にくりくりとした大きな目。愛くるしい顔立ちの十歳くらいの子供が、ファランの手から離れた箒を見て、料理中だったのかお玉を手に頬を膨らませた。
「勘弁しておくれよナガレ。僕はもう疲れたんだよ」
ファランは首をすくめ、神殿の長椅子に足を投げ出して寝転がる。するとそれを見咎めたナガレが、肩を怒らせて駆け寄ってきた。
「もう、起きてください、って。誰か来ても知らないんだから」
服の裾をを引っ張られ、ファランは長椅子にしがみつく。ちらりと見上げると、ナガレがしかめっ面でファランを引きはがそうと躍起になっていた。
必死な顔が妙に可愛らしく、ファランは笑った。
「ナガレ、そんなに頬を膨らませると、ますます女の子に見えちゃうよ」
かっとナガレの頬に朱が走った。
「ボ、ボクは男の子だもん!」
叫んだとたん、奥でじゅわ、と蒸気が噴き出す音がした。ナガレは慌てて台所に駆け戻った。良い香辛料の香りが漂ってくる。今日は暑さにばてたときには助かる、辛めのスープらしい。ファランもヴァルディグラン料理の中では割と好きなものである。
とはいえ、やはり故郷の味が懐かしい。同じ南国でも、ヴァルディグランとメルディエルでは、使う香辛料が全然違う。
「ああ、いつになったら本国に帰れるんだろう」
赴任してから8年。ファランもだいぶ歳をくった。来年にはついに三十になってしまう。通常、祭司の任期は5年だ。前回の任期終了時には、本国のほうでいろいろあって帰還が認められなかった。その後も何度も連絡は取っているのだが、芳しい返事は帰ってこない。
「別にこんな辺境の神殿、もう維持していく必要もないだろうに」
ナガレは誰か来ることを心配するが、どうせもう今日は誰も来ない。なにせ辺境。信徒の数がそもそも少ないのだ。寄進も少ないから、ファランとナガレが生活していくのがやっと。おかげで神殿はおんぼろで、隣街にある炎狼神殿の壮麗さとは比べようもない。
「まあ、戻れたとしても僕は一回やらかしてるから、栄転なんて夢のまた夢なんだけどさ」
昔は出世して国の中枢で働くことを夢見たこともあったけれど、最初の頃に大きな失敗を犯したせいで出世コースはとうに外れてしまった。それでも、辺境で侘しい暮らしをナガレに続けさせるのは心苦しい。せめてもう少し本国に近いところで暮らせたら、楽をさせてあげられるだろうに。そう思うのだが、思うようにはならないものだ。
ナガレはファランの子供ではない。シーヴァン教は妻帯を認めているが、ファランは未婚だ。彼は故あって引き取った孤児だった。ファランがここに赴任してすぐ、親を盗賊に襲われて亡くした。
先代の祭司が情け深い人で、よく困りごとを引き受けていたらしく、その流れで子育てなんてしたこともないファランが、うっかり引き取ることになってしまったのだ。
それでも、生い立ちなんて気にせず明るく、よく働く良い子に育ってくれた。今は祭司見習いの扱いだが、どちらかというとすっかり本当の親子のようですらある。
「とりあえず、今日また本国に連絡をとってみよう」
よっこいせ、とそろそろ日も傾いてきたし、神殿の門を閉めようとファランは起き上がった。
そのとき、扉がきしんだ音を上げて薄く開いた。また風で蝶番が壊れたのだろうかと怪しんだのだが。
「すみません、どなたか、いらっしゃいますでしょうか」
誰も来ないと思っていたのに声が聞こえ、ファランは慌てて飛び起きた。
「失礼。礼拝の方でしたか? 申し訳ありませんが今日はもう夕刻ですし、閉めようと思っていたところで……」
夕刻とはいえまだ日没には早い。しかし閉めようと思っていたのは事実だから問題はないはず。と、思ったのに、ファランはそこに佇む人影に、続く言葉を飲み込んだ。
そこには黒ずくめのぼろぼろの服を着た、長い黒髪の男が、まるで幽鬼のように立っていた。