2章 闇は聖なる僕と共に眠る 9
久しぶりに笑った。むしろこんな風に穏やかな気持ちで笑えたのは初めてだったのではないだろうか。そう、クロフォードは思った。
そもそも他人とこんなに近く触れ合うことも、彼女を除いてはほとんど初めてであるような気がする。背後でファランが頭から毛布を被り、軽く蹴飛ばしてきたことも、クロフォードにしてみれば新鮮で嬉しかった。同時に、どれほど自分は人を疎かにしてきたのか、それをまた思い知らされた気もした。
「それで、なんなんですか。聞きたいことというのは……」
背後でファランがついに疲労と苛立ちを覆い隠すこともできず、ため息混じりの棘のある声で問いかけてくる。本当はクロフォードとしてもファランを怒らせたいわけではないのだが、普通の人間に対してどう接すればいいものかわからない。
とりあえず話は聞いてくれるようなので、今はファランの寛容に甘えてもいいのだろうか。
知りたいのは他でもないナガレの母親、エスティレードについてだった。
今日クロフォードはずっとナガレとともにいた。その間に差し障りのない会話はいくつかできたが、流石に彼の両親のことについては踏み込めなかった。わかったのは、ナガレが師であるファランと共に過ごすことに満足しているということだ。
「ファラン様が何もやらないてんでダメな人だから、ボクが面倒見てあげないとなんですよ」
そう自分の育て親に呆れながらも、明るく笑ったナガレが愛おしかった。純粋にファランを慕っていることがよくわかった。
「ナガレくんは本当に良い子ですね。純粋で人間らしくて」
きっと自分があのまま彼女と関わっていたなら、ああは育っていないだろう。むしろ生まれてもいなかったかもしれない。ファランがそう育ててくれたのだ。
この幸せな師弟の生活を、自分ごときがかき乱していいわけがないと、クロフォードは思う。しかし彼らを前に、全て覆い隠して何もなかったように自身を偽ることは、クロフォードにはもうできそうになかった。
もしファランが知ろうとするなら、話せるところは全て話そうと決めていた。それはクロフォードが目をそらしてきた罪を、見つめることにもなる。
「ナガレくんのご両親について、もし祭司様がご存知のことがあれば伺いたかったのです」
ファランから反応はなかった。戸惑い警戒しているのかもしれない。当然の反応だろう。どこの誰ともわからない男が、突然養い子の両親について尋ねてきたなら。情報を出し惜しみすればきっと教えてなどもらえない。
「私はこの村に、本当はある女性を探しにきたのです。けれど、彼女はもういませんでした。そのかわり見つけたのが、彼女とよく似たナガレくんでした。私は彼女に酷いことをしてしまった。会えるわけがないと思っていました。でもどうしても私は彼女に会いたかった」
きっと彼女は平穏おだやかな最後の時を、クロフォードに知られることすら望まなかっただろう。もし彼女がクロフォードを思い出すことがあったのなら、クロフォードを憎み、呪っていたはずだ。そんなことはわかりきっている。それだけのことをした。今更焦がれたところでクロフォードが犯した罪は消えはしない。
それでもなお、クロフォードは彼女に会いたかった。けれどその想いはエスティレードがこの世を去っていたことで、行き場を失った。
ナガレをエスティレードの代わりだと思おうともした。けれど、ナガレはあまりに幼い。たとえ何も告げずに傍にいることができたとしても、自分の存在自体が彼の純粋さ穢してしまうのではないか。それをクロフォードは恐怖した。
きっぱりとすべて忘れて彼らの前から立ち去るべきだった。どれだけ離れがたくても、クロフォードとナガレでは生きる世界がまるで違う。
だからせめて最後に、知りたかった。
「祭司様なら彼女の墓所をご存知なのではないかと思いまして」
人間はこういう時、死者を弔うという。彼女の最期を知り、せめて弔うだけでも許してもらえたなら。そうすれば、この胸の内にくすぶる罪悪感を、少しでも晴らすことができるのではないか。ナガレをエスティレードの代わりにしてしまわないためにも、そのくらいはせめて、と。
「祭司様、ですからどうか……」
教えてほしいと身を起こして、背後の人のありさまに、思わずクロフォードは、あ、と声を上げかけ、慌てて口を塞いだ。意表をついて聞こえてきたのは穏やかな寝息。よほど疲れていたのか、すでにファランは深い夢の中だ。
「やはりお疲れだったのですね。対ガルグ用の結界を編んでいらっしゃったようですし」
仕方ない、とクロフォードは自嘲した。
人間がガルグに対抗する術を得るには膨大な魔力と精神力が必要だということを、クロフォードはよく知っている。他の誰も知り得ないはずであるのに、ファランが今日その手順を取っていたことも、クロフォードは気づいていた。
もう一度横になり、天井を見つめた。眠りはしない。もともとクロフォードに睡眠は必要ない。
「そのガルグがすでにこの結界の中にいる、などと知ったら貴方は卒倒してしまうのでしょうね」
眼鏡を外し、瞬きをする。瞼に重ねた指の隙間から、ぼやっと、夜の闇より濃い影が零れだした。黒かった瞳の色が深い血のような赤へと変わる。禍々しい異形の証だ。
「騙すつもりはなかった、なんて言い訳にもなりませんね」
クロフォードというのは偽名だ。本当の名はヴァシル。かつて闇の一族を率いた長ヴァシル・ガルグというのが、主と信じていた破壊者アルスより賜った、自分の名前。
しかし、5年前全世界を敵に回して叶えようとした悲願は、思わぬ形で潰えた。以来、ヴァシルは光も入らない地下の穴倉で一人、光に怯えて生きていた。
「以前なら、こんな風に女神シーヴァネアの祭司殿に請うことなんて考えられませんでしたよ、ステイ」
もし彼女が今のヴァシルを知ったなら、どう思うのだろう。笑うだろうか。それとも呆れるのだろうか。
「でもどうせなら、今の私で貴方に会いたかった」
言ったところで遅い。エスティレードはいない。改めてそう思い知って、また涙が零れた。