2章 闇は聖なる僕と共に眠る 6
結局、東の山にファランは何も異常を見つけることができないまま、とりあえず結界の強化だけを終え、神殿への帰途についていた。
東の山は南にある砂漠の東側に沿って連なる、断崖絶壁に囲まれた岩山だ。砂漠との間にもささやかながら農地が広がっているが、高い草木はほとんど生えていない。山の向こうにはこれまた断崖絶壁の涸れ谷があるらしく、ここを通ることはおろか、近づくことすら人間では難しい。農夫が言ったような影が動いていれば、昼日中ならすぐにわかる。
試しにもう一度岩山を中心にガルグの気配を探索する魔術を使ってみたものの、やはり何もそれらしきものは感知できなかったし、魔獣の気配も見つけられなかった。
「やっぱりただの勘違いかな」
歩きながら頭を悩ませても、今のところファランにはわからない。
ただ、気になるとすれば、農夫の恐れようだ。確かに闇について、ガルグや魔獣に関する伝説はこの辺りでも恐れられている。しかしあくまで伝説の範疇だ。5年前の騒乱でもこの辺りはさして影響がなかった地域で、実際、当時は大きな混乱もなかった。恐怖に対しての実感は薄いはず。なのに、まるで今回に限っては以前にも同じようなことがあったかのような反応だった。
「砂漠が広がったことについても何か言っていたよな」
普通、闇は人間の恐怖や苦痛といった感情を好む。そういったものを増長させるための手段として自然現象に影響を与えることはあっても、砂漠化というのは少し回りくどい。
近年の天候不順がもし万が一魔術的なものだとするなら、地水火風の四属性魔力の方が大きくかかわっているはずだ。しかしこの周辺でそんな大規模な魔術など、上位精霊レベルが隠ぺい工作でもしていない限り、ファランが気づかないわけがない。
なんにせよ闇と砂漠を直接結び付けるのは強引にすぎる。
「昔何かあったのかなあ」
赴任したてのころに村の記録はざっと目を通している。特別なことは見当たらなかったと思う。前任の祭司があえて報告しなかったという可能性もあるが、引継ぎをしたのは病で亡くなった後で、今では詳しいことはわからない。
「村長にでも聞いてみればわかるかもしれないけれど」
だが、今は結界の強化を優先するべきだ。闇の魔獣について調査している余裕はあまりない。
「ああもう、あっちもこっちもいろいろありすぎて僕もうパンクしちゃいそうだよ」
せめてもう一人二人、頼れる存在がいてくれたなら。ナガレは祭司見習いとしただけに魔術師としての素養もあるが、まだ10歳だ。訓練などもほとんど基礎ばかりで本格的なものはまだ始めていない。
「増援、本当に来るんだろうか」
とてもいい加減にしか見えなかった美貌の通信相手を思い浮かべると、全く期待なんてできそうにない。やるしかないと覚悟は決めたものの、考え始めるとやはり不安になる。
幸いなのは、やらなければならないことが山積みで、一つ一つを長々と考えている余裕なんてない、ということだろうか。
「もし今日も眠れなかったなら、過去の記録をもう一度調べてみようかな」
できることなら今日こそ眠れる方がありがたいのだが、眠れないまま悶々と時間を無駄にするよりはいいだろう。
そんなことを考えつつ、神殿の門をくぐる。その時、奥から多数の声が聞こえてきた。
はしゃぐ子供の声だった。近所の子供たちがたまにナガレのもとに遊びに来ることはあったが、神殿内は儀式に使う貴重な装飾品も一応ある。普段はあまり不用意に神殿内に立ち入らないように注意していたはずなのだが。
首を傾げつつ中庭へと足を向ける。しかしそこには子供たちの姿はない。ではどこから聞こえるのかとさらに視線を巡らせて、気づいたのはクロフォードが寝泊まりしていた離れだ。
「あの、やめてください。危ないですよっ」
子供のはしゃぐ声に混ざって聞こえてくる、おろおろと戸惑う低音に、ファランはがっくりとうなだれた。意気揚々と向かったくせに、カルリグはどうやら失敗したらしい。聞き覚えのある声の主はほかならぬクロフォードだ。
「まあ別に期待はしていなかったけどね」
所詮カルリグである。どうせナガレあたりに軽く撃退されて、失敗を認めることもできずに屋敷に逃げ帰ったのだろう。とはいえ、まだクロフォードが居座っているとなると、憂鬱だ。それになぜだか子供たちまでいる。
さすがにもうすぐ日も暮れる。早く帰さないと親たちに押しかけられてはこれもめんどくさい。
「君たち、なにをやっているんですか。もう夕方ですよ」
ここは祭司として威厳をもって窘めてやらないと、と思って離れをのぞき込んだとたんだった。
「あっ、ちょ、まって、くださ……!」
あーれー、という典型体的な悲鳴と共に目の前に覆いかぶさってきた黒い影。あ、っと気づいたときにはもう遅い。意表を突かれたファランは避けることもできずに黒い何かともつれあい、押し倒された。がつりと頭が何かとぶつかって目に火花が散る。激しい痛み。しかしそれはともかく、唇に何やらわけのわからない柔らかな感触がぶつかって、本能的な嫌悪感がこみ上げた。
「あー。ファラン様ちゅーしてるーおっさんとおっさんのちゅーだー! ばっちぃ!」
子供がはしゃぐ。頭がいろんな意味で痛い。確かに、これは唇だ。どこかの誰かの唇だ。そしてそれはおそらく。
「あ、あの、祭司様。た、たいへん申し訳ありません……」
「クロフォードさん……。いいから早くどいてもらえませんかねぇ」
ファランよりも長身の男にのしかかられては、冷やかす悪ガキに怒るどころか、身動きが取れるわけもなかった。
もはや腹立ちを通り越して疲労感しか残らない。これは事故だ。子供の悪戯による事故だ。クロフォードに非はない。初めてなわけでもなし、いまさら男同士唇が触れ合った程度で怒るものか。たとえクロフォードみたいな超絶美形と違って、平凡顔の中肉中背で他の宗派では妻帯を禁じていることもある祭司という肩書の誤解も相まって、女性陣にはろくに相手をしてもらえないとしてもこの程度で怒ってたまるものか。
なのに、慌てて身を起こした相手の方が、やや頬を赤らめて視線を逸らした。
「そこであなたが顔赤らめないでもらえませんか。変な誤解が生まれるでしょう!?」
ファランは泣きたかった。なんで子供たちの前でこんな屈辱的な目に合わなければいけないのか。確かに今回の件でクロフォードに非はないが、いっそ全部クロフォードのせいにして八つ当たりしてしまいたくてたまらなかった。