2章 闇は聖なる僕と共に眠る 5
「闇の魔獣……ですか?」
心臓が激しく鳴り響いた。
「オラ見ちまったんだ。今朝東の山の方にもやみたいな黒い影が動いてるのを。あれはクマや狼にゃ見えなかった。きっと闇の魔獣なんだ。最近の日照りもきっとアイツのせいだ! じゃなきゃ10年でこんなに砂漠が広がるわけねえ」
全身を震わせてうずくまる農夫が、嘘をついているようには見えなかった。懸命にファランは平静を装おうと努めた。
まさかガルグが今度こそ現れたのか。でもまだそう判断するのは早い。今朝のようなこともあるではないか。いや、あれは例外としても、単に農夫の勘違いかもしれない。
ファランはありとあらゆる可能性を巡らせた。東の山の方面であれば昨夜の探知の範囲内だ。当然、異常はなかった。今朝の農作業中のことだとすれば、日の出前後。そうなると単なる山の陰だった可能性もあるし、他の獣だったということもある。もしくは可能性としては低いが、ガルグとは関わりはなくとも本当に魔獣であった可能性もあるかもしれない。しかし絶対というわけではない。農夫の言葉だけでそれが『何か』だと断定できる要素は全くない。
「まったく、大袈裟だというんだ。魔獣なんてここに神殿ができて以来、出たことはないんだぞ。グリンデルド祭司もあんた祭司なんだから何か言え。今朝からずっとこんな調子で、親父も俺も辟易している」
いつもむすっとした顔をさらに不機嫌に歪めカルリグが詰め寄ってきて、ファランはたじろいだ。農夫の調子では大慌てで村長に討伐か何かの直訴をしに行ったのだろう。村長一家にとっては朝早くからいい迷惑だったに違いない。きっと村長たちも農夫の勘違いだと考えたはずだ。しかし村長の言葉では農夫が納得しなかったため、ファランにお鉢が回ってきたというところだろうか。
ここは騒ぎを大きくしないほうが賢明だった。ファランはなるべく穏やかな笑みを顔に貼り付けた。
「確かにカルリグ様のおっしゃる通り、この周辺にはもう何十年も魔獣が出没したという記録はありません。それにもし本当にそれが魔獣だったとしても、女神がこの村をお守り下さっていますので、村の結界内に入り込むことはありませんよ。どうしても心配でしたら結界を強化するついでもありますし、後で私が調べておきましょう」
「ほ、本当かい、ファラン様。あんなの見たせいで呪われたり死んじまったりしねぇんですかい?」
「大丈夫ですよ。たとえ魔獣だったとしても普通そんな力は有りません」
本当に闇の魔獣だったら別だけど、とは絶対に言わない。
ともかくファランが断言すると農夫は安堵したのか、全身を脱力させて地面に突っ伏してしまった。
「だから言っただろう。魔獣なんてものはここには存在しないんだ」
カルリグがわざと大袈裟に肩をすくめて、必死に女神への祈りを唱える農夫を見下す。
なんとかこれでこの場はおさまっただろうか。ファランはほっと息をついた。
「では、私は魔気嵐対策ついでに山の方を見て回りますので」
「ちょっと待てよ」
これ以上関わるのは面倒だし、さっさと立ち去ってしまおうと思ったのに、そのときカルリグに呼び止められた。嫌な予感がした。
「その影の正体を突き止めに行くなら、俺もつれていけ。村長代理としては責任があるからな」
まためんどくさいことを言い出したカルリグに頭痛が襲ってくる。腕組みしてふんぞり返る相手が、今日ほどうっとうしく思えたことは未だかつてない。
とはいえ、腐ってもこの村の代表者の息子である。無碍に断ることなど、できるわけもなかった。ファランは頭を悩ませた。
「カルリグ様の責任感はとても素晴らしいものです。ご協力のお申し出、大変ありがたく思います。が、もし万が一魔獣であれば討伐には魔術の行使が必要となります。私も一通り魔術は修めてはおりますが、何か不測の事態が起きてしまってはカルリグ様の身をお守りできるかどうかは保証できません」
「俺がその辺の獣に負けるとでも? 俺の腕を侮るんじゃない。むしろあんたの祭司らしからぬその貧弱な細腕に任せる方が心配ってもんだ」
鼻で笑ったカルリグに、ファランはぐっと言葉を詰まらせた。確かにカルリグはこの村では自警団の代表もやっているし、そこそこ剣も使える。ファランの方が体格的には貧弱なのも事実だ。が、所詮田舎の自警団。魔獣相手の戦力としては心もとないし、ましてガルグ相手では相手の力量を見誤って無謀な行動に出る可能性は高くなる。それこそ、昔のファランのようにだ。
だが、現状のすべてを伝えることはできない以上、ファランにカルリグを説得できる材料は乏しい。
「それとも何か、俺に知られたくないことでもあるのか?」
ファランは内心舌打ちしたかった。普段はどれだけ拒否を匂わせても全く気づく様子もないのに、こういう時だけなんでこうも敏いのか。
カルリグの陰険で鋭い目が一層細められる。何か言わなければいけないのだが、どうしたらいいだろう。
「もしかして昨日から神殿にいる男と、何か企んでいるんじゃないだろうな? 知ってるぞ。昨日から怪しい男が神殿に寝泊まりしていたことを」
答えあぐねていると予想外の言葉が降ってきて、ファランは一瞬「は?」と間の抜けた声を上げてしまった。
一体全体何がどうしてそうなった。カルリグの思考が理解できない。確かに普段から何かにつけ目の敵にされているが、企んでいるだなんて心外だ。それもあのカルリグよりもわけのわからないクロフォードと共に、だなんて。
思わず、深いため息がこぼれた。
「カルリグ様。何か誤解をされているのでは? あの方はただの旅の方ですよ」
クロフォードにカルリグに、めんどくさい男を二人も相手にしなければいけないなんて、改めて考えると本当に昨日から厄日続きだ。いっそファランの関わりのないところへカルリグとクロフォードの二人とも消えてくれないだろうか。
そう思ったところで、一つ案が浮かんだ。カルリグもクロフォードも邪魔なのだから、片方をもう一方に押しつけてしまえばいいのではないだろうか。
「旅の人間だ、なんてそれこそ怪しいじゃないか。こんな辺鄙なところに、わざわざ一体なんの用があるっていうんだ」
「確かに、カルリグ様のおっしゃる通りです。考えてみればなぜ、あの方はこんなところにいらっしゃったのでしょう。とはいえ私は祭司ですし、信者の方を疑うようなことはできません。それに結界に対策を施さなくてはいけませんし」
ファランはカルリグの腕をとった。
「カルリグ様。このようなことをカルリグ様に頼むのは心苦しいのですが、よければあの方が何を目的にいらっしゃたのか尋ねていただけないでしょうか。今、神殿にはナガレしかいないですし、あの子の身に何か起きてしまったらと思うと……。クロフォード殿も村長の息子であるあなた様になら、何か喋ってくれるかもしれません」
縋るようにカルリグを見つめ、頼み込む。
カルリグがにやりと笑った気配がした。厄介だが、カルリグはこちらがへりくだって下手に出れば気分を良くする。面倒な男を二人まとめて厄介払いができるなら、ファランの矜持など大したものではない。
「やっとあんたも分かったようだな。ふん、祭司の分際ではあんなのは手に負えまい。初めからそうやって俺を頼ってくればいいんだ。よし、いいだろう。あのいかにも怪しい男は俺がたたき出してやる」
善は急げとカルリグは息まいて村の方へ戻っていく。とりあえず、カルリグはこれでどうにかなった。運が良ければクロフォードも一緒にどうにかできるだろう。どうにもならなかったらその時はその時だ。
そうこうしているうちに日はどんどん傾いていく。東の山を調べることも考えると、うかうかしていたら結界の強化が終わらなくなる。
ファランは東の山に向かって駆け出した。
これではナガレが作ってくれた弁当をゆっくり食べている暇もなさそうだった。