2章 闇は聖なる僕と共に眠る 3
ファランは深く長くため息をついた。頭痛が酷い。右のこめかみあたりがズキズキする。寝不足だということが一層痛みに拍車をかけているというのもあるだろう。だが、やることが山積みの状況で、こんな問題を起こされたら、誰でもこうなるのではないだろうか。
目の前には、床に直接手をついて、すらりとした長身を限界まで縮こめて震えるクロフォードがひれ伏していた。
ファランも床に胡座をかいてもう一度壁を見上げ、大きくため息をつく。
「クロフォードさん、私は別にあなたを責めるわけじゃないんですけどね。確かにこの神殿はどこもかしこもおんぼろだし、いつ崩れてもおかしくはないところも多かったですし、維持管理ができていなかったのは管理者である私の責任です」
だがしかし。
「でもなんで掃除をしようとしただけでこんな惨状になるんですか……」
ファランは泣きたかった。離れの石積みとモルタルで作った壁には大きな穴が空き、床は水浸し。さらには備えつけの寝台とテーブルセットは半壊。細かな掃除用具、なけなしの調度などはほぼ全滅。一体修復費用にどれほどかかるだろう。むしろ修復できるのだろうか。
「申し訳ございません……」
クロフォードはひれ伏したままくぐもった声を震わせた。彼は純粋に部屋の掃除をしようとしただけだと主張した。しかし掃除の仕方がわからず、試行錯誤しているうちにこうなってしまったのだ、と。が、何故掃除をしようとしてそんなことになるのかがさっぱりわからない。本当にこの男、疫病神か何かだろうか。
「あの、ファラン様。ボクもちゃんとお掃除の仕方を伝えなかったのが悪かったんです」
だから責めないでほしいと目を潤ませてナガレが訴えてくる。その表情に、ぐっとファランは言葉を詰まらせた。ナガレは何も悪くない。普通、掃除をすると言ったらここまでの惨状になることなどありえない。この結果を予想しろという方が土台無理な話だ。損害賠償は請求してしかるべきだが、ファランはナガレにはどうしても弱かった。
もう一度長く、ファランは息をついた。
「わかりました。もう済んだことは諦めましょう。私も今日はちょっと忙しいし。部屋はそのうち修復するか考えることにして、とりあえず、朝ご飯にしましょう……」
朝から寝不足と疲労でもう空腹だしくたくただ。せめて朝食だけでもゆっくり摂りたい。
ナガレが台所へ駆け出していき、ファランもその後に続く。クロフォードもようやく身を起こした。
「では私もなにかお手伝いを」
「結構です。クロフォードさんはおとなしく座っててください」
この期に及んで何かをやろうと言い出したクロフォードを、ファランは思わずぴしゃりと制止した。これ以上何かやらかされたらたまったものではない。
しょげたように肩を落とすクロフォードを見なかったことにして、ファランは食堂に移動した。
テーブルにつくとどっと疲れが出て、これ以上動きたくなくなる。朝からこんな調子で本当に今日の作業ができるのか。とても不安だ。
神殿の結界と村を囲むように5方位に敷かれている陣は、急いで強化しなければいけない。通常魔獣避け程度の強度しかないものを対ガルグ用に調整するには、相応の時間と集中力が必要になる。些細な魔力の調整ミスだけでも、結界の維持ができなくなる可能性もある繊細な作業だ。
昨夜手順を思い出しながら指折り数えて、全部終えるには数日かかるだろうという予測は立てていた。あとは作業を終えるまで、不測の事態が起きないことを祈るだけだ。
祭司の日常業務の方はしばらく放っておいても大丈夫だろう。神殿にやってくる信徒の対応程度なら、最悪ナガレに任せても構わないかもしれない。どうせ村人の愚痴や世間話の相手になる程度だ。
あとやらなければいけないことはなかっただろうかと辺りを見渡して、食堂の外で扉に隠れるようにして中を伺い見るクロフォードと目が合った。
頬が引きつった。あの男は親に叱られることを怖がる子供か。5歳の時のナガレより手がかかるではないか。
「クロフォードさん。さすがに朝食抜きだなんて言いませんから、おとなしく席についてくれませんか」
言うとようやくおずおずと食堂の中に入ってくる。
クロフォードがガルグの使徒ではないかと一瞬危ぶんだのが、我ながらバカバカしくなってきた。あのポンコツぶりでガルグの使徒だなんて言われたら、誰に聞いてもふざけるなと言うだろう。
目の前の席にちょこんと座ったクロフォードを、なるべく視界に入れないようにしながら、ナガレが出してくれたパンとチーズを齧る。
しかしこの男を放置してしまうと違う意味で面倒なことになりそうだった。かといって監視しているわけにはいかない。一体どうしたものか。そういえば、この男いつまでここにいる気なのだろう。昨夜はすぐにでも出ていきそうな気配だったのに、出立の予定をまだ聞いていない。
「ナガレ。僕は今日からちょっと本国の方の仕事が入っちゃったから、しばらく信徒さんたちのお相手お願いしたいんだけどいいかい?」
「女王国のお仕事?」
「そう。来週のはじめくらいにこっちで大規模な魔気嵐が起きそうだから、今のうちに結界を強化しておけってさ」
「うわあ、大変っ。ファラン様また魔力酔いになって吐いたりしたないようにしてくださいね」
「そういうことは言わなくていいから……」
ナガレが真っ青になる。ファランはいきなり過去の失態を暴露されて頭を抱えた。
魔気嵐は魔術の制御を困難にする特殊な嵐だ。実際の気象上の嵐と同時に起きることが多く、魔術師や魔力を基にして動く魔道具への影響が甚大となる。多くの祭司は魔術師素養もあるし、神殿内には儀式に使う魔道具も置いてあるため影響を受けやすい。特に魔術師としての素養が高いファランの場合は、二日酔いになった時のような魔力酔いの症状を起こすことが多かった。ただ、発生する場所は限られているし、予測もある程度は可能だ。万が一発生しても光の魔術は影響を受けないため、結界で影響を遮断することもできるし、他にも対応策はいくつかある。神殿に結界が張られているのはそういった魔気嵐対策も兼ねていると言える。
とはいえ今回の件は結界の強化作業に取り掛かるための方便だ。この辺りは比較的影響が起きやすい地域だが、今のところ魔気嵐が起きる兆候はない。
「まあ、ちゃんと強化するから大丈夫だよ。ところでクロフォードさんはどうなさるおつもりですか? 旅の途中ということは、次の目的地はお決まりなのでしょう? 門はたぶんもう開いているはずですし。魔気嵐の影響を考えると早めに発った方がいいかもしれませんよ」
さりげなく、ファランはクロフォードに出立を促した。ヴァルディグランの場合、都市基盤としての魔動力の普及はほとんど広まっていないが、それでも大きな街になればなるほど、魔道具を扱うことは多い。そういう街だと、魔気嵐の期間中、結界を維持するために門を閉ざしてしまうこともある。そうなれば旅人にとっては非常に不便だ。
しかし促された当人の反応に、ファランは嫌な予感を覚えた。
クロフォードはまるで出立のことなど何も考えていなかったように面食らった様子で、パンをかじろうとしたまま硬直していた。